レトロゲームレビュー/名作、クソゲー等ファミコン時代から網羅

"HARAKIRI〜ハラキリ〜"


Madia :PC-8801mk2SR以降
Maker :GameArts
種 別:戦略級戦国シミュレーションゲーム
発売日:1988年


バカバカしさではあの「たけしの挑戦状」に優るとも劣らない作品がこの
HARAKIRIである。

まずどーゆーゲームなのか?といえば、いわゆる信長の野望全国版タイプのゲ
ームで、どこが普通と違うのか?といえば・・。


  1・ほとんど滅茶苦茶な時代考証と登場人物
  2・後にも先にもこれっきり!というカッ飛んだ「ハラキリ・システム」
  3・「横田の前に横田なし、横田の後に横田なし!」
    天下無敵の「中村 横田」!!


 何のことだか訳がわからないと思うので順を追って説明しよう。


 1・ほとんど滅茶苦茶な時代考証と登場人物

 多分、作者は信長の野望と同じくらいの時代設定(1560年前後)でこの
ゲームを作ったんだろう・・・とは思うが、主な登場大名(全てプレイヤーキ
ャラとして選択可能)を羅列していくと・・・

1・織田信長   (これはいい)
2・三船徳川   (多分、徳川家康・・・どういう訳か三船敏郎という指定
          付き)
3・源 頼朝   (言わずもがなの鎌倉幕府初代将軍。
          登場時期は軽く350年はズレている。)
4・足利尊氏   (室町幕府初代将軍(^^; こっちは150年くらいか?)
5・ショー・コスギ(忍者映画の映画スター・・・・・
          ・・・・・もういいだろう。)

これだけでも充分「キテる」が、たまに突発イベントで「外国が攻めて来る」
というイベントがあって、そのイベントは2種類。


1・元冠   (鎌倉時代後期。元(モンゴル帝国)皇帝フビライの時代
        日本の壱岐に元国の海軍が攻め寄せてきた事件。)
2・黒船来航(徳川幕府末期、13代将軍家慶のころ、アメリカ合衆国大統領の
       親書をたずさえてペリー提督が浦賀に軍艦4隻と共に来航した
       事件。)

 この軽く500年は隔たった事件が「戦国時代」に発生する(^^;;
ちなみによーく見るとペリー提督の海軍の中に「ハルク・ホーガン」がいたりもする
といういたれり尽くせりの親切設計。


 2・「後にも先にもこれっきり、カッ飛んだハラキリ・システム」

 このゲームのタイトルにもなっている「ハラキリ」とは武将が持つ「恥」と
いうパラメータが一定の値を超えるともうどんな時であってもその場で割腹自
殺を計るという恐ろしいシステムである(^^;
「恥」が上昇するのは、コマンド実行に失敗したときや、戦争に負けた時だと
記憶しているが、ちと自信はない(^^;
武将が「ハラキリ」する時は、チビキャラの「ハラキリ・アニメーション」ま
でついてます。

(後にも先にもこれっきり、と書いたが、実は、このハラキリシステムとそっ
くりなシステムを持ったシミュレーションゲームがもう1本あった。
何と天下の光栄がリリースした、「源平合戦」というゲームである。
このゲームには「無常」というパラメータがあり、戦で自分よりも「雅」の高
い敵武将を倒すと上昇する、「無常」が一定より上がると、これまたどんな状
態であってもその場で「出家」するというシステムである。
おいらは過去、天下統一寸前でプレイキャラの頼朝に出家され、真っ白な灰に
なっちまった、という悲しい思い出がある。)


 3・「横田の前に横田なし、横田の後に横田なし!天下無敵の中村 横田!」

 最後はこのゲームを作ったヒトのお話である(^^;
ここまで読むと大体予想はつくとこれを作ったのはガイジンさんである。
名前は忘れちゃったけど、一流大学を卒業して一流企業に勤めていたが
大の日本好き(決して「日本ツウ」ではないと思う)が昂じて会社を退職。
このハラキリを世に送り出してしまったという、実に可哀相な人である。
この人は日本が大好きなので、自ら「日本名を考案」
その名が・・・・。


       
「中村 横田」


・・・・である。
ここまでパワフルなものを作られると、「おいおい、それは両方とも名字だよ、
おまいさんっ!」と突っ込むのも恐れ多い気すらしてくるから不思議である。

 ちなみに中村 横田氏は、ハラキリ完成後、さらなる「高み」を目指して「
ハラキリ2」の制作に入った・・・とマニュアルには書いてあったが、あれか
ら10年以上。
彼の行方はようとして知れない。
出来れば、何に食わぬ顔で「ハラキリ2」を出して欲しいもんである(^^;
しかも、バーチャルボーイあたりで出してくれたらもう言う事なし!


AXL 1997,2001

メルマガ版おいら的あの頃ゲーム30号突破記念特別付録
HARAKIRI登場武将勢力別リスト

源氏

大名

源 頼朝
領地 陸奥・陸中・羽後
家臣団 源 実朝 源 頼家 源義経 弁慶
木曾 義仲 北条 時宗 北条 時政
  東北地方に陣取っている鎌倉幕府軍団。
どうして東北なのかよくわからないが、おそらく義経をかくまった
奥州藤原氏の縁ではないかと思う。

  が、藤原一族はいない。
頼朝・頼家・実朝の歴代将軍武将に加え、悲運の英雄義経も腹心、
弁慶と一緒に仲良く同じ陣営に入っている。
頼朝と血で血を洗った木曽義仲もいれば、歴代の執権、北条時政・
時宗も当然のように居座っている。

伊達氏

大名

伊達 政宗
領地 陸前・岩代
家臣団 伊達 成実 後藤 信康 亘理 元宗 白石 宗実
白石宗利 片倉 景綱 支倉  常長
 比較的まともな伊達陣営。
支倉常長をのぞけばそのまま信長の野望あたりに出てきてもおかし
くない顔あわせである。

 支倉常長は、政宗の命を受けて「奥州王・伊達政宗」の親書をた
ずさえローマ教皇に日本へのキリスト教布教を願い出た人物である。
首尾良く教皇に謁見が叶い、ローマで国賓級の歓迎を受けたが、
彼が帰国した時、日本は既に徳川幕府の元鎖国令がしかれキリス
ト教も禁止されていた。

 その上、「奥州王」という含みのある親書の署名に幕府の嫌疑が
かかるのを恐れた政宗の命で帰国直後から死ぬまでの間監禁生活を
余儀なくさたのである。

上杉氏

大名

上杉 謙信
領地 佐渡・越中
家臣団 上杉 景信 長尾 政景 宇佐見 上杉 景勝
北条 高広 柿崎 景家 直江 景綱 斉藤 朝信
  とてもまともな上杉陣営である。

  ちなみに「宇佐見」というのは宇佐見定満のことで、武将の名前が
フルで全角4文字分しかない為、省略されたものだと思われる。
宇佐見定満は武田家の山本勘助と同じくその存在が疑問視されてい
る上杉謙信の軍師である。

  江戸時代に宇佐見某というものの手で書かれた上杉謙信の軍記の
中にのみ登場する人物で、著者の宇佐見某が自分の祖先としている。逆にいうと自分の祖先を謙信の軍師で一流の武将たらしめることで自分の血筋を世間のアピールするために、、著者が創作した人物で
はないかという見方が強い。
その為、戦国SLGでもいたりいなかったりする人物。
ちなみに海音寺潮五郎の「天と地と」では準主役級の役所で登場。

武田氏

大名

武田 信玄
領地 山梨・日光・軽井沢
家臣団 武田 勝頼 武田 信繁 山本 勘助 真田 幸隆
山県 昌景 高坂 昌信 馬場 信治 内藤 昌豊
秋山 信友 穴山 信君 土屋 昌次
   至極まともな武田陣営。
ただし「軽井沢」と「山梨」という地名を除いては、だが。

  山本勘助も前出の宇佐見定満と同じく甲州軍記という武田信玄
の兵法を記した書物にのみ登場する人物であり、その実在が疑問
視されている。
もっともこちらの場合は、著者が山本某という名前だったわけ
ではなく、武田家には武断派が多く謀臣が少なかった為に軍師と
して創作されたのではないかと言われている。

(2003.12.12追記)
山本勘助に関しては、「実在武将であったが、軍師的な人物では
なく忍者的な役割を担っていた人物だった」という説も有力である。
(情報提供者:おはらしょうすけさん)


ちなみに「真田幸隆」は真田幸村の祖父にあたり、幸隆の時代は、
武田家に従属する豪族の一人であった。

三船徳川氏

大名

三船 徳川
領地 東京成田
家臣団 徳川 秀忠 徳川 家光 本多 忠勝 榊原 康政
菅沼 定光 酒井 忠次 本多 正信 石川 数正
鳥居 元忠
 いきなり東京と成田である。
しかも、大名が徳川 家康ではなく「三船 徳川」なのは、自らの
日本名、「中村 横田」に対するオマージュか?
武将のラインナップとしては徳川家光が存在することをのぞくと、
まぁ、それほどおかしくはない。

 ただし、石川数正は家康の腹心で唯一、豊臣秀吉の元に走った(
厳密には秀吉に望まれて家臣となった)男で、「豊臣秀吉」がいる
のであればそちらの陣営に入っているべきである。

織田氏

大名

織田 信長
領地 尾張・三河
家臣団 織田 信忠 織田 信雄 柴田 勝家 丹羽 長秀
平手 政秀 前田 利家 滝川 一益 佐々 成政
森 蘭丸
 家臣団は問題はない。
まぁ、強いていえば、信長の子供の信忠・信雄兄弟と、信長の少年
時代に信長の不行跡に対する抗議の為に切腹した平手政秀がいるの
はおかしいが、平手はゲーム開始直後から「恥」が80以上あり、
下手をすると最初のターンがまわってくる前に切腹してしまう、と
いう、中村横田氏の夢と希望を乗せたキャラなのであまり気にしな
いことにしよう。

 ただし、尾張と三河が信長の所領となっているが、信長の時代に
この二カ国を領したことはない。

石田氏

大名

石田 三成
領地 越前・能登
家臣団 島 左近 小西 行長 佐竹 義宣 九鬼 嘉隆
真田 昌幸
  石田三成は言わずと知れた秀吉の懐刀である。
勿論、秀吉と別個に勢力を持っているのはおかしいが、
敢えて「石田三成陣営」を組んだ場合、大谷吉継がいないのは致命
的である。

吉継は光成の友人で豊臣政権下の大名だったが、関ヶ原の折
光成の挙兵を諫めるも光成は翻意せず、やむなく友人の為に決死の
覚悟で戦の望んだ名将である。
彼はらい病(ハンセン氏病)の為、顔が崩れ、常に覆面をしており
体も不自由であったが武将としての采配は人並み外れたものがあり、
敗走する西軍の中を家臣に担がせた駕籠で縦横無尽に下知を飛ばし
て駆け回った。最後は武運つたなく戦死するが首謀者の石田三成よ
りもずっと大将らしい武将であった。

豊臣氏

大名

豊臣 秀吉
領地 京都・伊勢・紀州
家臣団 豊臣 秀頼 豊臣 秀長 豊臣 秀次 半兵衛
黒田 如水 蜂須賀 加藤 清正 福島 正則
池田 恒興
 秀吉以外の豊臣姓の武将は秀頼が秀吉の遺子。
秀長が秀吉の弟。秀次が甥である。
秀次は秀吉に子供が無かった為に一度は後継者として指名されるも、
秀頼の誕生により自らの地位が揺らいだ事により、自暴自棄になり、
強引に愛妾にした家臣の妻女ばかりか僅か12歳のその娘まで寝所
に侍らせ、京の町人に「畜生関白」とののしられ、最後は秀吉の勘
気に触れ、数十人の愛妾や幼子と共に斬首刑にされ三条河原に首を
さらされることになる。

 刑の表向きの理由は、朝廷が殺生を禁止した場所で狩りを行った
ことなどに関する問責だが、わずか1歳にも満たない乳児まで惨殺
したのは明らかに自分が亡き後、愛児秀頼の御世を安泰にする為に
一度後継者に指名した秀次の血縁を根絶やしにすることのみを目的
に行った露骨な根絶行為である。

 最後に秀吉の実弟・秀長は豊臣政権を陰から支えた功労者で、財
政の達人であるばかりでなく、彼の事を悪くいった人間が一人もい
なかったとまで言われる人格者だったが、彼も子宝には恵まれず兄
秀吉より早く世を去っている。

 秀吉の老醜と暴走がはじまったのは、秀長亡き後で、この兄弟の
寿命が逆であれば歴史はまた変わったかもしれない。

明智氏

大名

明智 光秀
領地 神戸・但馬
家臣団 斉藤利三 津田信春 筒井順慶 明智光忠
中川清秀 阿閑貞大 一色義有 明智秀満
 少なくとも日本ではあまり人気がない明智光秀軍団である。
家臣団について説明しておくと、斉藤利光は明智光秀の家老
であり、三代将軍家光を育てた春日の局の父親でもある。

 明智秀満は光秀の嫡男であり、光忠はよくわからないが次男
あたりか? 筒井順慶の息子が、光秀の娘婿にあたる。
光秀の娘は明智 玉。世に言う細川ガラシャ夫人である。
しかし光秀挙兵の折、その縁で筒井家に内応の使者を送っているが
光秀のあまりの無計画ぶりに筒井家にはシカトされている。
最後に津田信春とは、おそらく境の茶人で豪商の津田宋汲のことで
ある。

(2003.9.5)
情報追記 津田信春について。

・・・と思っておりましたら、まるっきり違いました(^^;;
詳細は不明なのですが、山崎の合戦に明智勢として参戦した武将に
津田信春という名前があるようです。
「〜のことである」などと断言してしまいお恥ずかしい限りです(^^;;
また、ご指摘いただきましたたろいもさんに感謝いたします(^_^)

毛利氏

大名

毛利 元就
領地 広島
家臣団 毛利 隆元 毛利 輝元 毛利 元清 吉川 元春
吉川 広家 吉川 元長 市川 経好 清水 宗治
児玉 就方
家臣団というよりは、ほぼ毛利一族である。
毛利家歴代当主と元就の次男(もしくは三男)の吉川家の一族
だけで半数以上をしめている。

元就は3人の息子にそれぞれ宗家の毛利家、吉川家、小早川家
を相続させており、その時の逸話が「三本の矢」である。

清水宗治は秀吉が信長の命を受け中国制圧戦を行っていた時に、
毛利の支城を守っていた武将で自分の首を引き替えに城にこもる
兵士全員の命を秀吉に保証させ、秀吉の前で切腹した人物である。

平氏

大名

平 清盛
領地 出雲・長門
家臣団 平 重盛 平 維盛 平 資盛 平 頼盛
平 忠盛 平 宗盛 平 知盛 平 敦盛
平 重衡 平 将門
 毛利家よりもさらにキテいる平家一門である。
大名も家臣も全員名字が同じで、はっきりいって半数くらい誰だか
分からない。
しかも、苗字だけでなく、殆どの武将に「盛」がつくので、違うの
は真ん中の一字くらい、まるでマジカルバナナのようですらある。

 重盛は清盛の嫡男で将来を嘱望される器だったが、健康に恵まれ
ず清盛より先に世を去っている。
ちなみに、頼朝以下3人の兄弟の助命を清盛に嘆願したのもこの人
である。
 
知盛は「見るべきものはすべて見つ」という名言を残して壇ノ浦で
入水した武将で、敦盛は、壇ノ浦で幼帝の安徳天皇を守っていた人
であり、惟盛は絶世の美男子。

 ちなみに平忠盛は清盛の父親なので、家臣団に編入されているの
はおかしいが、そんなことが些細な事に思えるほど、決定的に
平 将門は「違う」

足利氏

大名

足利 尊氏
領地 讃岐・阿波・土佐
家臣団 足利 義満 足利 直義 足利 義輝 足利 義昭
細川 藤孝 和田 維政 細川 忠興 夢窓 疎石
高 師直
 清盛軍団ほどではないがやはり一族武将が目立つ足利軍団。
尊氏の弟、直義を筆頭に、尊氏の孫で金閣寺を創建し天皇を島流し
にした三代義満、剣聖と歌われるも、三好一党に鉄砲で暗殺された
十三代義輝。
信長に担がれて後に捨てられた最後の将軍十五代義昭。
和田維政、細川藤孝は放浪時代に義昭のお供をしていた人物
だが、後に義昭の暗愚に愛想をつかし信長に抱えられている。

 夢窓疎石は、尊氏の時代に京都の五山を確立した僧侶。一人で座
禅をしていた時に眠気に襲われ、壁によりかかろうとしたら後ろに
何もなくそのまま転倒。
さらに、それがおかしくて一人で大笑いをしていたら悟りを開いた
という、かなりの危険人物。

 最後に、「高 師直」は「こうの もろのお」と読む。
現在まで続く「忠臣蔵」の原作である「仮名手本・忠臣蔵」に出て
くる人物である。
江戸時代は、時事ネタを題材にした芝居や、実在の武士を芝居に登
場させることは厳禁だった為、元禄時代におこった赤穂事件を室町
時代の事件と仮設定し、赤穂事件の本質はそのままに、浅野内匠頭
を「判官」大石蔵之介を「大星 由良之介」と変える等、まるで
体のライセンスを受けていないプロレスゲームのような手段に打って出た
のである。

 「高 師直」もその中の一人で敵役吉良上野介のことである。
どうして吉良上野介が足利家にいるのか?と推理すると吉良家はそ
もそも足利家の傍流であり、足利幕府の中で徳川幕府内の徳川御三
家に近い位置にあった為ではないかと思われる。
それにしても「吉良上野介」で出さずにあえて「高 師直」で出
すあたり、中村横田も相当なものである。

 

・・・と、思っていたら、「高師直」という人はちゃんと存在していました(^^:;
しかもちゃんと足利尊氏の家臣でした(^^:;
ご指摘頂いたゲレイブさんに感謝いたします(^_^)
それにしても「横田」に一本取られてしまいました(^^:;
(2001.9.7 修正)

 

北条氏

大名

北条 氏康
領地 大分・日向・伊予・桜島
家臣団 北条 氏政 北条 綱成 北条 氏繁 北条 氏照
北条 氏規 松田 憲秀 内藤 康行 富永 直勝
上田 憲定 遠山 景綱 北条 早雲
 そもそもよく分からないのが、どうして北条家が九州にいるのか?
ということだ。
北条家といえば言わずと知れた小田原城を領した関東の雄である。

 いくら、「三船徳川」が「東京・成田」にいるからといって「桜島」
というのはいかがなものであろうか?

 家臣団は北条早雲が存在することは以外は問題はないと思うが、
北条早雲はそもそも北条氏康の先祖なんだから、氏康の方が家来に
なるべきではないだろうか?
まぁ、それを言い出すと、平将門が清盛の家来になっているという
問題にも発展するが・・・。

S・小杉氏

大名

S・小杉
領地 筑前・筑後・長崎
家臣団 六角義賢 六角義治 後藤賢豊 三雲成持
吉田重政 天草四郎 五右衛門 鼠小僧
弁天小僧
 さて最大の問題のショー小杉である。
言うまでもなく大名からキテているものがあるが、こちらも
鼠小僧と弁天小僧がを揃えている。
石川五右衛門もいれば天草四郎もいる。

 ちなみに天草四郎は「城守」という籠城パラメーターが極端に高い。
五右衛門は忍者だから何となくわからないでもないが、鼠小僧や弁
天小僧は忍者ではない。ただ、五右衛門と一緒にいると泥棒同士と
いうことで何となく納得してしまいそうになるが、それではまるで連想ゲ
ームである。

 この4人の中では一番マイナーだと思われる弁天小僧は芝居(歌
舞伎)の「白波五人男」に出てくる泥棒である。
1958年に公開された映画「弁天小僧」では、市川雷蔵が演じている。
ちなみに、市川雷蔵といえば、じゃりン子チエのお母はん、「ヨシ
江はん」の初恋(?)の人で、笑点でよく木久ちゃんが真似してい
るのは片岡知恵蔵である。



 ただ、逆にいうとこれら色モノの人々はいい。
問題は三雲成持や六角義治などのれっきとした武将がどーして、シ
ョー小杉の家来にさせられてしまったのか?ということである。
特に六角義治・義賢は近畿地方のれっきとした大名なのである。
どー考えても歴史的に六角家とショー小杉が関係あるとは思えない。
ただ、このゲームの開発があと5,6年遅ければ、家臣団の中に
「K・小杉」の文字が踊っていたことだけは確かである。

島津氏

大名

島津 義弘
領地 薩摩
家臣団 島津忠将 島津義久 島津歳久 島津義虎
島津家久 島津豊久 猿渡信光 新納忠元
東郷重位
 島津家には本当に島津姓の武将が多い。
当主の島津義弘は「前に向かって退却」し敵中を突破し本国に帰還
し、朝鮮の役で、「5000人で20万の朝鮮軍を壊滅させた」
である。

 さらに、幕末に何をトチ狂ったか兵2万を連れて上洛。
「これこそ、島津様の倒幕の軍勢に違いない!」と思いこんだ勤王
の志士達が後をおって大挙して京に上洛し、疑いをかけられたが鼻
からそんなつもりがなかった
ので寺田家で勤王の志士を皆殺しにし
たり、「大名行列の前を横切った!無礼打ちだ!」といってイギリ
ス人の家族連れを切りまくり
、それに怒って艦隊を派遣したきたイ
ギリス海軍に対し「鹿児島県だけで」戦争を始めてしまった島津家
久も入っている。

(・・・・と思ったら、幕末の島津家当主は家久ではなく、久光という方でした(^^:
島津家久という人物についてですが、実は島津義弘の弟と子供に共に家久という人物が
いるようです、HARAKIRIに登場すのは弟の方ではないか?というご指摘を、掲示板の方
で犀蘭さんから頂きました。ありがとうございました!(^_^)) 2002,9 追記



ただ一つ言える事は島津家の人間が考えることはなんだかすごい、ということだけである。

大老井伊氏

大名

大老 井伊
領地 大阪・羽前・水戸・富士・美濃・若狭・因幡・阿蘇
家臣団 井伊直政 松平定信 保科正之 新井白石
青木昆陽 田沼意次 村田清風 柳沢吉保
間宮林蔵 近藤重蔵 金四郎 井伊直親
大岡越前 水野忠邦 池田光政 荻原重茂
由比正雪 千 利休
 さて、最後がこの「大老井伊」である。
大老井伊は、開始時のデータで最大の版図を誇っている。
しかもそのほとんどが「飛び地」であるところから、徳川家の
直轄領のことではないかと思われるが、直轄地の位置はほぼ滅茶苦茶である。

 しかもついでに言うと「大老井伊」が主家である徳川家と別勢力
で存在し、なおかつあからさまに主家をしのぐ版図を領している

も問題である。

 ・・・が、これはほぼ間違いなく「徳川幕府軍団」なのである。
それは家臣団を見れば一目瞭然だ。
「大老」井伊直弼の祖先であり、徳川家康四天王の一人井伊直政や
直親はともかく、それ以外は(一部の例外を除いて)全員が幕府に
使えた役人なのである。

 五代将軍綱吉の側用人だった柳沢吉保。
同じく勘定奉行で幕府の財政を支えたが、六代家宣の時に新井白石
に横領を指弾され追放された荻原重秀。
家宣に仕えた学者新井白石。
八代吉宗に仕え享保の改革を行った水野忠邦や名奉行大岡越前。
十代家重の側用人として権勢をふるった田意志次。
田沼の賄賂横行の政治を改めた老中松平定信らがそれである。

 ここから余った幕臣組としては、幕府隠密として間宮海峡を発見
した間宮林蔵。江戸後期の町奉行。遠山景元のことであると思われ
る「金四郎」。
甘藷(薩摩芋)を栽培することで、飢饉を救った青木昆陽らがいる。

 由比正雪は確かに三代将軍家光の時代の人物だが幕臣ではない。
幕府転覆をもくろむが失敗したというだけである。
千利休に至ってはどうして豊臣秀吉の元にいないのかが理解できな
いが、秀吉と仲違い後、大老井伊に身をよせた・・・という設定が
あるのだろうか?・・・いや、どうせ何もないに決まっている。

 ちなみに家臣数も初期段階ではっ最大だが、幕臣(インテリ)が
多い為、戦争で役に立つ武将が少ない。
「金四郎」や「大岡越前」は「テレビ通り」の戦闘力を持っている
ものの、それ以外では軒並み低い数値である。

 ただし、そんな中でただ一人「青木昆陽」だけが「格闘」
70以上の数値を持っている。
何ゆえ「青木昆陽が格闘70以上」なのだろうか?
根拠が想像もつかないだけに非常に不気味である。

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