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現代の被差別部落のこと

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 「二十一世紀」になったこの日本で未だに「穢多」のレッテルを貼られたままの存在が「被差別部落」の人々です。
もう今となっては、その「起源」も「由来」も、遠い遠い時間軸の果てに流れて去ってしまっていますが、「差別」意識だけはしっかり残ってしまっています。それは、それこそが八世紀「文武」以降の朝廷が企図したことであって、「未来永劫」「倭国王朝」の復活が出来ないよう、「差別」意識の中に埋没させようとした、その意図が今も生きていることとなっているのです。

 このような「差別」を存続させるためには「外力」が必要ですが、それは「穢多」の外部勢力であったとは考えられません、そうであった場合、彼らは「穢多」と日常的に接触せざるを得なくなってしまいます。基本的には「穢多」とはそのような接触を避けることが「差部」でもあったわけですから、その様な職掌は勢い「穢多」の内部に求めざるを得なくなるでしょう。
 それを担っていたのが「旧解部」の人々ではなかったでしょうか。この「解部」も「穢多」同様に差別或いは忌避されていたものです。
 「解部」は基本的に「警察」「検察」「裁判」的行政の実務部隊でした。彼らは「倭人伝」にもあるように、また「隋書?国伝」にもあるように時には「拷問」を行い、無理にでも口を割らせるような役割を受け持っていましたし、時には「死」に至らしめることもあったでしょう。さらには「刑の執行」などのの役目もあったものと見られますし、現代の警察と同様「犯人」逮捕の際に「捕り物」となった際には相手を殺してしまうこともあったものと見られます。このような役割を受け持つ氏族は「世襲」となり、代々「解部」として「王権」に直属していたと考えられます。これをより「強力」な組織として作り上げまたそれに「法律」によってその権威に裏打ちしたのが「七世紀末」の「阿毎多利思北孤」の時代であったと思われ、「解部」は彼の全国統一の影の部隊であったと推量します。(これは「七世紀に入って「刑部」と呼称されるようになったもの)
 このような役割の人々は往々にして「権力」を振りかざすということになりやすく、さらには「死体」などの処理もしなければならず、これらのことによって多くの階層から「忌避」されていたと考えられます。

 「増田氏」によれば(※)「解部は、…部民を率いて司法事務に携わった伴造・伴部の一種である。」とされ、「解部」としての「伴部」の「負名氏(なおひのうじ)」(職業に関係ある名称を氏名とする氏)は物部氏の支族である「苅間連」・「韓国連」などから補任されている。しかし通常は「倭国固有の政治組織」に遡る事ができる名称を有するはずのものであるのに対して「解部」という「氏族」は存在せず(「刑部」(忍部)はいるものの)、これを「氏族名」としなかったのは「衆人の嫌悪するところであった」からとされています。
 「書紀」においても「蘇我倉山田麻呂」の処刑は「物部(塩)」が担当しており、また「有馬の皇子」の謀反の際にも「物部(朴井連鮪)」が「皇子」の家を包囲する役割を充てられています。(その後の「有馬の皇子」を「絞首刑」にした際には「物部」は出てきませんが、「塩屋■魚」と「舎人新田部連米麻呂」の「斬刑」の担当については書かれておらず、「物部」であったという可能性もないとは言えないと思われます。)

「(六四九年)大化五年三月乙巳朔庚午条」「山田大臣之妻子及隨身者。自經死者衆。穗積臣噛捉聚大臣伴黨田口臣筑紫等。著枷反縛。是夕。木臣麻呂。蘇我臣日向。穗積臣噛。以軍圍寺。喚物部二田造鹽。使斬大臣之頭。於是二田鹽仍拔大刀刺擧其完。叱咤啼叫而始斬之。」

「(六五八年)四年十一月庚辰朔甲申条」「有間皇子向赤兄家。登樓而謀。夾膝自斷。於是知相之不祥。倶盟而止。皇子歸而宿之。是夜半赤兄遣物部朴井連鮪。率造宮丁圍有間皇子於市經家。便遣騨使奏天皇所。
戊子。捉有間皇子與守君大石。坂部連藥。鹽屋連鯏魚送紀温湯。舎人新田部米麻呂從焉。於是皇太子親問有間皇子曰。何故謀反。答曰。天與赤兄知。吾全不解。
庚寅。遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂。是日。斬鹽屋連■魚。舎人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連■魚臨誅言。願令右手作國寶器。流守君大石於上毛野國。坂合部藥於尾張國。」

 このように「捜索」「取り調べ」「処刑」などの担当を行なっていたのが「物部」であり、彼等が「解部」(この時代は「刑部」か)であったことは間違いないと思われます。
 
 後に「穢多」として「旧九州王権」の熱烈な支持者達を封じ込めることとなった際に、彼らに対する「重し」として「旧解部」として存在していた人々が同様に「穢多」の一部として組み込まれ、「穢多全体」に対する弾圧、統制を受け持つこととなったのではないでしょうか。これが後に「弾左右衛門」というような「職掌」とも「名称」ともつかぬものの存在として後世まで残ることとなったものと見られます。(少なくとも彼らは「鎌倉」時代には既に存在し、後世と同じような職掌にいたと推定されています)
 この「弾左右衛門」という存在は江戸時代においても「町奉行」の配下にあり、「お仕置き御用」「お尋ね者の探索」等の役目があったとされますが、これら「弾左右衛門」の「職掌」として揚げられていたものの重要なものは全て「解部」へとつながるものであることに注意すべきです。
 このようにして「差別」すべきものとそれを「統制すべきもの」とがいずれも「忌避」の対象としてひとまとまりの存在となって、「穢多」を構成していたものと考えられます。
 
 また「古代」において「間人」(はしひと)と呼称された「下層」の人々(但し「奴婢」ではない)も後に「穢多」の中に繰り込まれることになったのではないかと思われます。それらは「駆使部」(はせつかいべ)「土師部」(はじべ)や「杖部」(はせべ)などの部民であり、彼等は「駆使丁」など人民を使役する際の人達をも示す呼称であったと見られます。
 そのような「庸役」の際にはリーダー的存在を置き彼には「杖」を渡し、人民を使役させる便宜としていたとされています。
 上でみる「はせつかいべ」は通常「杖部」ないしは「丈部」と書かれ、それは「駆使丁」の作業において「杖」をついたり、あるいは振り回すなどにより「威嚇」により強制的に働かせていた事を意味するものです。
 元々「杖」は「隋書倭国伝」でも「刑罰」の道具であり、「解部」の常用する道具であったと思われます。そのことから、彼等は「仕丁」として徴発された人員を労役に従事させる際にも動員され、「杖」を威嚇の道具として使用していたものと推察されます。それをもっぱらとするようになった場合「杖部」(はせつかいべ)(はせべ)という部民とされたのではないでしょうか。彼等のような職掌も(当然のように)多くの人々から「嫌悪」され、「忌避」されることとなったものと思われます。

 「弾左右衛門」が「明治」になってから新政府に出した口上書の中に「配下」の者達の「職業」を羅列した部分があり、それを見ると多種多様なしかも明らかに下層の人達と判断できる職種が多く、それは「古代」において「間人」と言われたような彼等のような者もその後「穢多」の中に取り込まれていったということを示しているのではないかと考えられるものです。
 彼らのような「下層民」が「六世紀後半」以降王権に直結して力を得ていったのではないでしょうか。それは「解部」を自らの「御名部」とした「押坂彦人大兄」や「間人」をその名称としている「穴穂部間人皇后」など「王権」の有力者の名前として「卑賤」と思われる名称が使用されていることに現れているといえます。
 そのことは「中間管理者」としての「諸国」の「王」よりも「中央」の「王権」の方がそれら下層民を使役することにおいて「優先権」が発生した事を示しており、「強い権力」の発生と共に「下層民」により「日が当たる」事となったのではないでしょうか。
 彼らは「倭国王権」支配の第一線部隊とでも言うべき人達であったと思われ、「倭国王権」から「日本列島」の代表王者の座を奪った「日本国王権」にしてみると「油断」出来ない勢力であったと見られ、彼らに対して「良民」としての待遇を与えず、また「奴婢」しての扱いもしないことで「化外」の民という扱いをすることとなったと見られますが、それが典型的に現れたのが「南九州」の人達に対してであったと思われます。
 彼らはいわゆる「下層民」であったものであり、また「倭国王権」に忠実な勢力でもあったと思われます。

  現在も「差別解消」に向けて、当事者である「被差別部落」の人たちも行政当局も、いろいろな施策を行ってきていますが、肝心な「差別の理由」「差別の根源」が不明なままでは、「差別」の解消はままならないでしょう。それは人間としての「矜持」(プライド)の根源をどこに求めればいいか不明だからです。なぜ「差別」するのか、されるのか、それが不明のままでは、「差別」そのものの解消などは決して出来ることではありません。
 そして、「差別」の根源が「倭国王朝」への忠実な賛同者に対する「報復」であったことが推定されることとなった今、「八世紀」当時の権力者が狙って行った「差別」から今こそ解放することが出来るのではないでしょうか。

 旧倭国王朝に「身も心も」尽くして忠誠を誓った、当時としても「驚嘆」すべき人々であったと思われる彼ら。多くの人々が「打算」と「妥協」の中でその身を「新王朝」に転向したのに対し(山上憶良のように)、「倭国王朝」に忠誠を誓い、けっして「節」を曲げなかった、その「剛直」と「純真」は賞賛されるべきであって、まして「差別」などは全く理不尽の極みであり、今こそ、それらの「未来永劫」と云われた困苦から解放されることが必要なのだと思われると同時に、それが可能であると考えられるのです。

(※)増田修「倭国の律令 筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」市民の古代第十四集一九九二年市民の古代研究会編


(この項の作成日 2011/02/11、最終更新 2013/08/19)


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