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旧唐書の「日本国」遣唐使への評価について

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 「書紀」によると、「粟田真人」が「唐」に行った際に、到着した時に「唐」の官人(「鴻廬寺」か)に対して、「周」と国号が変更になった理由を問いただしています。

「続日本紀」「文武天皇の『慶雲元年』の条」
秋七月甲申朔。正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。初至唐時。有人來問曰。何處使人。荅曰。日本國使。我使反問曰。此是何州界。荅曰。是大周楚州塩城縣界也。更問。先是大唐。今稱大周。國号縁何改稱。荅曰。永淳二年。天皇太帝崩。皇太后登位。稱号聖神皇帝。國号大周。問荅畧了。唐人謂我使曰。亟聞。海東有大倭國。謂之君子國。人民豊樂。禮義敦行。今看使人。儀容大淨。豈不信乎。語畢而去。

 上のように「唐」の官僚は「遣唐使」の問いかけに対し、その経緯を丁寧に答えているようです。そして、「書紀」には書かれていませんが、その代わりに彼ら「唐」の官僚も同様に「倭国」から「日本国」へ国号が変更になった理由を質問したと思われます。それが「旧唐書」にある以下の文章になったようです。

「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。」
 
 これを見ると「遣唐使」の複数の人が、「国号変更理由」について、「統一的な返答」をしていないように見えます。いってみれば、各自が「適当」に答えているようにも思えるわけです。
 この直後に「其人入朝者多自矜大、不以實對、故中國疑焉。」と書かれ、これは、この時の「遣唐使」の対応についてかなり「不満」を持ったものと思われます。
 つまり、彼等(唐の官僚)達は「聞かれた質問」に誠意を持って答えたのに対し、相手からは「適当」に答えられ、その対応についての不満が「多自矜大、不以實對」という表現に表れているのではないでしょうか。
 そのような応答は、遠方から入朝する「夷蛮」の国のとるべき態度ではないように映ったものと思われ、そもそも、彼等にしてみれば、そのような「朝貢」に来た「夷蛮」の国から先に「国号変更」の理由を聞かれるなど「順序」が違うと考えられたものと思われます。
 この「遣唐使」記事の直前の記事も「高表仁」と「礼」で争った話であり、文脈として、そのことから流れてこの「遣唐使」につながっていて、彼等も「倭国王子」と同様に「無礼」である、という事を云いたかったのではないかと思えます。
 「粟田真人」個人については「容止温雅」とされ、「武則天」から気に入られたようですが、「官僚」達から見ると「彼」以外の「遣唐使」達についてはかなり「無礼」な点があったと考えられたものでしょう。

 この「旧唐書」等中国側資料に現れる「長安三年」(七〇四年)「遣唐使」は「日本国」からの遣唐使ですが、それは「持統朝廷」から政権を引き継いだ「倭国」王権そのものと考えられます。
 彼等は「高市皇子」即位以来、全国直接統治を開始し、「倭国王」の権威が非常に高まった(と彼等は考えていたもの)その時代に派遣されたものであって、従前述べたように「国号変更」もこの「高市皇子」即位時点で行われたものと考えられるところです。
 このように国内体制も整い、「律令」も整備され、以前「白村江の戦い」で負けた「倭国」とは内部構造がかなり変化していることが「自信」となり、その「自信」が相手にとっては「無礼」と映る元(原因)となったものと考えられます。

 ところで、「日本列島」の盟主の交替に「唐」が関与している、という説があります。「唐」は「倭国」政権が「反唐的」であることを懸念し、「親唐政権」に交替させるべく「影響力」を行使したというわけです。
 しかし、「王朝交替」の経緯としては、「倭国」が自ら国号を変更し、「日本国」となった後「近畿王権」により「政権」が「奪取」され、「新日本国」創立となったものであり、この「粟田真人」が率いる「遣唐使」を派遣したのはその「新日本国」王朝の手によるものであったと推定されます。
 そして、上で見たように「旧唐書」に記された記事によれば、「唐」はこの「国号変更」や「王朝交替」を「知らなかった」と考えられることや、派遣された「遣唐使」も「唐」から「周」へと国号が変更されていることを知らなかったことなど(彼らは「唐」のキが「長安」にあることも知らなかったと見られる形跡があります)などの諸事情を考えると、「唐」が関与していると考える「説」は全く成立の余地がないのではないでしょうか。
 明らかに「唐」のあずかり知らぬところで「倭国」の代表王者交替は為されたものであり、派遣された遣唐使達も、「唐」の内部事情を派遣されるまで知らなかったものです。
 「大宝律令」も(当然)「呉音」で書かれていたものであり、また当然「南朝系条句」で構成されていたものであり、「養老律令」がすぐに編成され始める理由もそこにあったと考えられます。(詳細後述)


(この項の作成日 2011/09/29、最終更新 2011/12/01)


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