この「持統紀」の後半の記事については「鋳銭司」記事において既に考察し、最大でも「五十七年」の遡上という可能性が高いことを示しましたが、それも念頭に入れると(官位の入れ替えも考慮する)と以下の通りに並べ替えられることとなります。
「(文武)三年(六九九年)→(六四二年)冬十月辛丑条」「遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。『直大肆』田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。」
「(持統)元年(六八七年)→(六五三年)春正月丙寅朔甲申条」「使『直廣肆』田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」
「(持統)三年(六八九年)→(六五五年)春正月甲寅朔辛丑条」「詔『伊豫惣領』田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」
上で判るように「田中法麻呂」の「国司」記事は「六四二年」より遡上するものと思われ、「四十九年」以上の年数を措定する必要があります。
ここで仮に「山陵修造」の前年に「白銀」を献上したと想定すると、「五十年」と年数が考えられる事となります。それを考慮すると、「白銀」献上の年次としては「六四一年」というものが考えられる事となります。
「(持統)五年(六九一年)→(六四一年)秋七月庚午朔壬申条是日条」「『伊豫國司』田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。■一篭。」
また「惣領」記事は「六五五年」となって「職掌」の示す「矛盾」は解消します。ただし、この移動年数では「官位」の逆順は解消されません。「六八七年記事」は「六五三年」へ移動しその官位は「直廣肆」であり、「六九九年記事」は「六四七年」へ移動してそこで「直大肆」ですから、「位階」として一階級降下した事となります。
しかし、冠位の表記については上に指摘したように「山陵記事」から「潤色」が強く窺えるものです。
そう考えると「書紀」の「持統紀」については「六九一年」以降「六九七年」までは「五十年移動」、それ以前は「三十四年移動」という「改定」(というより「粉飾」)が行われている可能性が強いと考えられるものです。(「続日本紀」については「五十七年移動」と考えられる)
さらにこの点について他の記事でも検証してみます。
「六九四年」に「刑部造」が「白山鷄」を捕らえて献上したという記事があります。
「(持統)八年(六九四年)六月癸丑朔庚申条」「河内國更荒郡獻白山鷄。賜更荒郡大領。小領。位人一級。并賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國。并賜物」
ここでは「河内国」で「白山鷄」を捕らえた功績を受けた人物として「刑部造韓國」がいると書かれています。ところが、この「刑部氏」を含む「三十八氏」に対して「連」を賜ったという記事が「天武紀」にあります。
「(天武)十二年(六八三年)九月乙酉朔丁未条」「倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。藤原部造。『刑部造』。福草部造。凡河内直。川内漢直。物部首。山背直。葛城直。殿服部造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目舍人造。桧隈舍人造。大狛造。秦造。川瀬舍人造。倭馬飼造。川内馬飼造。黄文造。薦集造。勾筥作造。石上部造。財日奉造。泥部造。穴穗部造。白髮部造。忍海造。羽束造。文首。小泊瀬造。百濟造。語造。凡卅八氏。賜姓曰連。」
」
つまり、この「賜姓」時点以降「刑部造」は「刑部連」に改姓されたこととなるはずですが、上の「白山鷄」献上記事はそれとは矛盾するものです。彼は既に「連」姓を賜っているはずですが、相変わらず「造」姓であるように書かれています。
この「矛盾」についても従来余り気にされていないようですが、これも記事移動の結果と考えられ、「連」への改姓が書かれた「六八三年記事」は「三十四年遡上」の対象記事であり「六四九年」の事と考えられますから、「刑部造」という人物の存在が記される「六九四年記事」はこの年次よりも遡上する必要があることとなります。そうすると「最低」でも「四十五年」遡上する必要があるでしょう。つまり「五十年遡上」として「矛盾」ないこととなります。
(この項の作成日 2013/01/15、最終更新 2013/11/08)