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大地震とその復興策

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 「六七八年」と「六八四年」に二つの大きい地震が日本列島を襲いました。

「六七八年」には「筑紫大地震」が発生しました。

 「(天武)七年(六七八)十二月・是月筑紫國大地動之、地裂。廣二丈。長三千餘丈。百姓舍屋毎村多仆壊。是時百姓一家有岡上、當于地動夕以岡崩、處遷。然家既全而無破壊。家人不知岡崩、家避。但會明後知以大驚焉。」

 更にこれに引き続くように「六八四年」には「東南海地震」と推定される大地震が列島を襲いました。

 「(天武)十三年(六八四)十月壬辰(十四)逮于人定大地震。擧國男女唱不知東西。則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋寺塔神社破壊之類不可勝數。由是人民及六畜多死傷之。時伊豫湯泉沒而不出。土左國田苑五十餘萬頃沒、爲海。古老曰「若是地動未曾有也。」

 この二つの大きい地震では記載内容に違いが見られます。そもそも「六七八年」の筑紫地震は「発生日」が明確には書いてありません。後日、伝聞による情報により記載したように受け取られます。(報告書を見て書いたような)つまり、地震があった際には「倭国中枢部」では甚だしい揺れを感じなかったという事でしょう。それに対し「六八四年」のいわゆる「白鳳地震(東南海連動地震)」では発生日や地震についての細かいところの描写がより詳しいと思われますし、その描写の中で「擧國」という表現があり、「国中」に被害があった事を示しています。また、「白鳳地震」の際の描写の方が「臨場感」があり、これは「藤原京」や「難波京」においてもかなりの被害があったのではないかと思われるものです。
 このことはこの時の「倭国中枢」が「筑紫」になかった事を示しているように思えます。確かに地震の規模としても「六八四年」の「白鳳地震」地震の方が大きかったことは確かだと思われますが、「筑紫」に倭国の本拠があればこのような簡易な記載では終わらないでしょう。つまりこの段階では「副都藤原京」に「倭国王権」が居在していたという可能性が高いと思われます。
 さらに、上の文章に続けて以下の文章が書かれています。

「是夕有鳴聲如鼓聞于東方。有人曰 伊豆嶋西北二面自然増益三百餘丈、更爲一嶋。則如鼓音神造是嶋響也。」

 この記述は「南海地震」と必ず「対」で発生する「東海地震」の発生を示唆しているようです。
 「南海地震」と「東海地震」は時には「同時」、時には「二年」ほどの間をおいて過去必ず発生しているものであり、この時も「同じ日」に発生したものと推察されます。(地震の遺跡が東海地域を中心に確認されています)
 「六七八年」に発生した「筑紫の地震」が「活断層」の活動による直下型地震であり、非常に強い「縦揺れ」があったものの、影響を受ける地域が割合狭く限定されるのに対して、「南海」「東南海」「東海」三連動地震は、いわゆる「海溝型地震」であり、海底に震源を持ち、津波と強い「横揺れ」が特徴であって、広い範囲に影響が及ぶものであったと考えられます。
 このため、倒壊した建物の数や被害の程度は圧倒的に「六八四年地震」の方が大きかったものと推定されます。
 「書紀」にも「諸國郡官舍及百姓倉屋寺塔神社破壊之類不可勝數」とあるように、たとえば「回廊」の壁が倒壊した状態で出土した「山田寺」など、近畿方面の各官衙や寺院などに多大な被害があったことが推測されます。
 「掘立柱式建築」にしろ「礎石建物」にせよ、長い周期の横揺れには弱かったと考えられ、近畿では倒壊した建物が多数に上ったと見られます。
 この地震は「巨大」地震であり、また「その被害」が「広範囲」に渡ったことと思われ、このため諸国は大打撃を受け、疲弊したことと考えられます。  「難波」や「飛鳥」でもかなりの倒壊した建物などがあったものと考えられ、復旧もなかなかままならなかったと推定されるものです。
 この時の「大地震」は二〇〇年ほどの周期で繰り返して起きているものであり、その履歴を検討するとマグニチュードに換算して9.0にかなり近い値も想定すべきほどの巨大なエネルギーを繰り返し放出していて、現代においても「中央防災会議」の「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」が出した「まとめ」によると(二〇一二年七月の中間報告による)、「東日本大震災を超え、国難ともいえる巨大災害」という位置づけをされているようです。
 この「白鳳」の地震においてもそれに匹敵する巨大さであったのではないかと考えられ、そこからの「復興」には多難な道のりがあったことを想定させます。
 「二中歴」の「年代歴」の「朱雀」の項には「細注」として「兵乱海賊始起」(「戦いで世の中が乱れ、海賊が始めて起きた」)ということが書かれていますが、その原因のひとつはこの「地震」によると考えられ、国内体制が大きく動揺した結果、生活に苦しむ人々が多量に発生したことが「反乱」を起こす人たちや、「海賊」を生むこととなったのではないかと推察されるものです。

 このように、四国、近畿、東海地方に多大な被害を与えたと考えられる災害が発生したわけですから、「倭国王権」としては政権運営に非常に影響したものと考えられます。 
 この「大地震」の直後に「朱雀」改元が実施されますが、それまで「改元」の理由としては「遷都改元」であったものであり、それは本質的に「遷都」に関わる「邪」を払い「福」を招く意義があったと見られますが、ここでは「地震」によって疲弊した現状から再び立ち上がることを「祈願」したものと推察されます。
 そして、当時の「倭国王朝」は疲弊した諸国を救うために諸々の施策を実施していくわけです。

 この地震による被害は「第一次藤原京」においてもかなりの程度であったと思われ、損傷が大きかった「宮殿」を放棄し「都城中央部」付近に改めて「宮殿」を造ることとしたものと思われ、その際に「筑紫宮殿」に合わせ、「礎石造り総瓦葺き」建物へと造り替えをすることとなったものと推量されます。
 「宮域」が変更になったため、排水ルートなどにおいても変更が加えられた結果、下層条坊のかなりの部分が改廃され、新しい都城が造られることとなったものでしょう。
 この「第二次藤原京」建設については、「震災」により、家や仕事を失った人々に対する「失業対策」的公共事業の意味合いがあったという可能性もあると思料されます。

 また、上に見たように「六七八年」の「筑紫地震」の直後には諸寺院の創建あるいは「薬師寺」や「元興寺」の移築を行なうなどの施策を実行しますが、(これは呪術的意味合いがあったものと推量しますが)、さらに「六八四年」の「連動地震」の後の「六八五年」には各地に使者を派遣し、諸国の状況を視察させ、それを踏まえて「朱鳥元年」(六八六年)に「徳政令」を発布しますが、これも同様な意図の元のものであったと推定されます。

「(朱鳥)元年(六八六年)七月…
丁巳。詔曰。天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者。乙酉年十二月卅日以前。不問公私皆兔原。」
(読み下し)
「(朱鳥)元年(六八六年)七月丁巳(十九日)に、詔して曰はく、『天下の百姓の貧乏(まず)しきに由りて、稲と貨財(資財)とを貸へし者は、乙酉の年(天武十四年、六八五)の十二月三十日より以前は、公私を問はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。」

 さらに翌年には、前年実施した「徳政令」の第二弾がでます。

「(持統)元年(六八七年)秋七月癸亥朔甲子。詔曰凡負債者自乙酉年以前物莫収利也。若既役身者不得役利。」
(読み下し)
「(持統)元年(六八七年)秋七月癸亥朔甲子、詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉年より以前の物は、利収ること莫。若し既に身を役へらば、利に役ふこと得ざれ』とのたまふ。」

 つまり、「借金」の元本についての「免除」の詔勅が出され、翌年には「利息」についても免除する詔勅が出されているのです。
 ここに書かれた「乙酉の年(天武十四年、六八五)の十二月三十日」以前の「負債」を帳消しにするということは、「白鳳大地震」により更に「負債」が大量に増加したことが推定され、「多重債務」を抱える人々が多量に発生したものと思われるものであり、地震からの「復興」のためには、民衆の負担を減らす必要があると考えた「倭国王権」による「元本」と「利息」の「免除」という思い切った策であったと見られます。
 しかし、「人心の安定」と国内体制の収拾を狙って行ったこれらの施策も、逆に「債権者」の立場から言うと「大問題」であり、かえって体制が動揺する原因を作ってしまい、内部に不穏分子を多数抱える事態となったものではなかったかと思われます。
 これらの「債権者」は、地震等の影響が少なかったと考えられる「東山道」(「美濃国」以東)周辺や「関東」地域などの「諸国」の権力者達ではなかったかと考えられます。
 「東国」には既に封戸も「西国」から振替えられており、「東山道」開通に伴う「支配強化」がされていたものですが、さらに「藤原京」の「造り替え」という事業が重なるなどの負担増があった上に「徳政令」も行われたわけですから、「倭国王権」の支配に対する「反発」がかなり強まったものと見られます。


(この項の作成日 2011/01/03、この項の最終更新 2013/01/13)


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