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「大海人皇子」の実在性の欠如

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 「書紀」によれば、「天智天皇の死去」という事態が起こり、それに先だって「天智」から譲位を持ちかけられた「大海人」がその提案に「謀略」を感じ、吉野に隠居して身を遠ざけることで危険回避した、と書かれています。
 しかし、この時点ではすでに「大海人」は「立太子」していることになっており、次の天皇の地位は約束されているわけであって、「謀略」の意味が不明になります。現天皇に何かあれば即座に天皇位につくことが義務であり権利であるのが「皇太子」なのですから、「譲位」の提案に「謀略」を感じる、ということ自体が「不審」なのです。
 「書紀」によれば、「天智」の子供には男子が「四名」いるようです。「建皇子」「川嶋皇子」「施基皇子」と「伊賀皇子」(大友皇子)がいました。「正室」である「倭姫」には「子供」がいなかったようです。「蘇我山田石川麻呂大臣」の娘が「建皇子」を生みますが、何か身体に異常があったようであり、口もろくにきけなかった、と書かれていますし、夭折してしまいます。「正室」と「嬪」からは彼以外の男子が産まれていません。
 「川嶋皇子」「磯城皇子」「伊賀皇子」はいずれも「宮廷」に仕える「女官」(平安時代で言えば「女御」「更衣」などの類か)に産ませた子供であり、皇位継承という点からは、「順列」の低い人物達であったと思われます。
 「書紀」から判断すると、「弟」がいるのであれば、その方が周囲の納得(承認)が得られやすい、と判断せざるを得ないわけですが、これは「書紀」が用意した「シナリオ」であり、「大海人」の即位に正当性を持たせるための作為であると思われます。
 この部分は「八世紀」に入ってから、行われた「造作」の部分であり、「潤色」と「改変」が大部分であると考えられます。問題はどういう方針でそれらの変改を行ったか、という事ですが、この「大海人」に関する記述は「持統」から「文武」へと「王権」が「連続」していることとした場合、その「持統」から「天智」へ「皇統」が「連続」していないとは出来ないからであり、「天智」の子供を打倒して建てられた王朝が「天智」とは別の王朝であるとは出来ないのです。
 それは「新日本国」の「初代王」である「文武」の「大義名分」が確保されていないこととなってしまうものであり、それを回避するために考え出されたものであると思料されます。(どうしても「天智」につながる必要があったと言うことです)また、「子供」、ではなく「弟」なのは年齢の問題であったと思われます。

 また、「薩夜麻」の存在を消去する必要があったことも確かだと考えられます。「薩夜麻」の存在を認めると「近畿王権」との連続性が確保されていないことが明らかになり、「倭国王」の「血統」(伝統)に断絶があることが露わになってしまいます。このようなことから、「大海人」を「天智」と「兄弟」と記述することで、連続性を確保し、「薩夜麻」を消去することで事実を隠蔽したと考えられます。
 これらのことは「八世紀」当時の「書紀編纂」に関わった人たちの共通認識であり、「書紀」編纂の目的でもあったと思われます。
 「大海人」という人物は、このように「八世紀」の朝廷の「正統性」のために「造られた」一種「架空」の人物と推測します。そのことを示すように彼には数々の疑問があると考えられています。

 一般に「天智天皇」の弟とされていますが、「書紀」には成人するまで「大海人」に関する一切の記録が現れず、その年齢に至っては終生書かれていません。このことは、あまりに古過ぎて良く判らない、という理由からではなく、「良く判っているからこそ書くわけにいかない」と理解するべきでしょう。なぜなら、「書紀」の編纂には当の「天武」の子供達が深く関与して、「書紀」そのものも「天武」自身が編纂を指示したもの、ということに「なっている」からです。このような性格の書物にその「天武」自身の年齢を書くことができないとすれば、その事情が「天智天皇の弟」という記述と矛盾するからではないか、と疑わざるを得ないものです。( 単なる書き忘れ、などということを想像できないのは、もちろんです。)

 実際、「書紀」以外のいろいろな記録に残っている、死去した際の日時などから逆算すると、どう計算しても実の兄であるはずの天智天皇より三 〜 四 歳年上となってしまいます。(たとえば「本朝皇胤紹運録」「神皇正統記」「一代要記」「皇年代略記」「仁寿鏡」などによれば、「推古三十一年」生まれ、という伝承が多いようです)
 これらの死亡時年齢などが書かれた書物は確かに「後代」のものですが、それらが一致して「天智より年上」と表現していることには深く留意すべきでしょう。前述したように年齢に関する資料は「同時代資料」としては存在しないわけですから、後代資料といえども重要視せざるを得ないわけです。
 そのような一種「架空」の存在である「大海人」であり「天武」ですが、「書紀」編纂時に「編纂者」により「大海人」と重ねて考えられることを「期待して」書き加えられた人物が「漢皇子」であったと思われます。

 前述しましたが、「書紀」には、「斉明天皇」は「『舒明天皇』と結婚する前」に「用明天皇」の孫「高向王」と結婚し「漢皇子」を設けた、という記事があります。
 この「漢皇子」についてはその他に情報がありませんが、「古事記」には「忍坂日子人大兄」(「書紀」では「押坂彦人大兄」)が「漢王」の「妹」を娶ったという記事があります。

「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮 治天下壹拾肆歳也 …又娶息長眞手王之女 比呂比賣命 生御子 忍坂日子人太子 亦名麻呂古王…此天皇之御子等并十七王之中 日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命 生御子 坐岡本宮 治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】 又娶漢王之妹 大股王生御子 智奴王 次妹桑田王【二柱】 …」

 この「漢王」の子供が「漢皇子」とすると、「漢王」とは「高向王」のこととなります。彼等には「漢」の字がつくのですから「渡来系」の人物であると考えられます。「書紀」によれば「高向王」は「用明天皇の孫」とされており、「書紀」だけがしており、「皇統譜」には見当たらない人物です。このようなある種「余計」な情報をあえて書いていることには意味があると考えられます。
 「漢皇子」が取るに足らない存在であったら、このような不必要とも言える情報を書き加えなければならない必然性はなかったでしょう。
 「皇極」(斉明)と思しき人物が「漢王」と結婚していて、なおかつ彼女の「祖父」である「押坂彦人大兄」が「漢王」の「妹」と結婚しているというのは、「漢王」という人物が当時かなり重視されていたことを示すものではないでしょうか。


(この項の作成日 2010/12/29、最終更新 2012/06/03)

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