●「先帝」について
「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこでは「先帝」が(「崇福寺」を)創建したと言うことが語られています。
「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、先帝之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」
「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】》乙酉。勅。崇福寺者、先帝所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」
本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば「聖武紀」には「文武」を「先帝」と称する例があり、「孝謙」の時代には「聖武」を「先帝」と記した例しか見あたらないなど、多数の「前代」の天皇を指す例が確認できます。ただし、「元明」の時代に「天智」「天武」を「先帝」と称した例も存在していますが、それらは全て「前後関係」から「特定」可能な例ばかりです。
しかし、上の例では、最初の勅は「桓武天皇」が出されたものであり、後のものは「嵯峨天皇」から出されたものですから、当然双方の「先帝」は「先代」の「帝」という用法ではないこととなりますが、問題は「天皇」を特定する形容がされていないことです。
たとえば、「懐風藻」を見るとそこには「淡海先帝」とあります。これが「天智」ないし「利歌彌多仏利」を指すとすると、「淡海御船」の時代から一〇〇年以上前のこととなり、かなり遡上した例であることが判ります。
上の「桓武と「嵯峨」両帝の例における「先帝」がもし同様に「天智」を指すとすると、この「先帝」もかなり遡上すると考えなければなりませんが、問題は「淡海(近江)」というような「天皇の代」を特定するべき形容が前置されていないことです。ここでは単に「先帝」とあります。しかし「崇福寺」を建てたのが「天智」であるならば、「淡海先帝」などとあって然るべきではないでしょうか。
現に「天智」を指すと思われる例があり、そこでは「近江」という名称が前置されています。
「日本後紀』巻卅八逸文(『類聚国史』一七七最勝会)天長七年(八三〇)九月癸酉二」「令薬師寺毎年設最勝王経之会。中納言従三位兼行中務卿直世王奏稱。此寺、清御原天皇、為皇后而所建立也。皇后、近江帝之女、柔範光暢、毘賛天倫。皇帝嘉寵、建斯仁祠。而創基未竟、宮車晏駕。皇后含悲帰仏、終成宝刹。如今、所入封物田地、充用有剰、学衆稍多、説法猶少。夫大雄慈悲、不進而希応。至理澹泊、不銓而難知。請、毎年開設斎筵、屈宿徳、演説尊経、決択奥義。便以在播磨国賀茂郡水田七十町、充其供料、庶扇覚風而慰先霊、飛慈雲而増聖寿。三光縦沈、慧炬無滅、五岳如砺、梵声不止。庶講読就此試定。立為恒例。許之。」
ここでは「近江帝」と表記されており、「先帝」ではありません。
上に見るように実際に「崇福寺」の初出は「聖武紀」であり、「天智」の時代ではありません。この「日本後紀」及び先行する「続日本紀」あるいは「書紀」の中で「崇福寺」(志我山寺も同様)が「天智」の創建によるものということは一切書かれていません。つまりここに「先帝」とあるだけでは誰のことなのか不明なのです。
少なくとも「先帝」といえば「天智」というような等式はこれら「史書」のなでは成立していませんから、「史書」を見ているだけでは誰のことかが判らないということとなります。このことは少なくとも「無条件」に「天智」とは言い得ないことを示すものであり、他の状況から判断することとならざるを得ないものです。
先に挙げた「仏教」関係の資料等はその成立がこの「日本後紀」を下るものばかりですから、遡って理解するというのは方法として正しくはないと思われます。また、それらによっても、「崇福寺」は「淡海」の都の守護として建てられたとされていますが、「淡海」に都があったのは上に見るように「天智」だけではなく、「聖武」の「紫香楽宮」も該当すると思われますから、「崇福寺」が本来「紫香楽宮」周辺の寺院を指すということも充分考える必要があることとなります。
後述するように「あめのみかど」(天帝)という称号が「聖武」に使用されるに及んで、「天智」の呼称として使用されていた「あめのみこと」(天命)と混同され、その結果「聖武」と「天智」の事跡のいくつかについて、「混乱と同一化」が進行した結果「大津宮」至近の「志我山寺」が「崇福寺」と呼称(あるいは誤認か)されるようになったのではないかと推察します。
●「崇福寺」の位置について
また「続日本紀」には「崇福寺」と「梵釈寺」の両方について「禅侶の聖なる地」であることを述べる下りがあります。
『日本後紀』巻廿四弘仁六年(八一五)正月丁亥十五」「…又崇福梵釋二寺者。禪居之淨域。伽藍之勝地也。今聞。道俗相集。還穢佛地。繋馬牽牛。犯汗良繁。宜令近江国嚴加禁斷。若有不從制者。五位已上録名。六位已下留身。並言上。」
ここでは、あたかもこの二寺院だけがいわば「特別扱い」されているように見えます。しかし数ある「寺院」の中でこの両寺院だけが「道俗相集、還穢佛地」であったとは思われません。多くの寺院においても同様であったのではないかと考えられます。しかし、「嵯峨天皇」はこの両寺院に限って、「淨域」とし、また「佛地」であるとされ、その神聖性を保つようにと言う「勅」を出しているわけです。このことから、「嵯峨」にとって、「崇福寺」と「梵釈寺」は重要な意味を持つものと位置づけられていたようです。
ところで、「梵釈寺」はその創建が「桓武天皇」の時代とされています。この両寺院が並び称されているように見える事から、「崇福寺」についてもそれほどその創建が遡らないのではないかという推定が出来ると思われます。
また「崇福寺」の位置を推定可能な資料が存在しています。
上の「日本後紀逸文」では「崇福寺」と「梵釈寺」が並べて記され、「梵釈寺」の別当が「崇福寺」についても兼務し、「検校」を加えるようにと言う「勅」が出されています。
この「梵釈寺」はその場所が現「東近江市蒲生」付近にあったものと推定されており、これは「大津」の「崇福寺」とされる寺院のある場所からはかなり遠いものの、「紫香楽宮」からはほど近く、「崇福寺」が「紫香楽宮」至近にあったとすると納得のいく記述であると思われます。
さらに同様のことは「日本後紀(逸文)」の「嵯峨天皇」の行幸記事からも言えそうです。
そこでは「滋賀」の「韓埼」へ行幸するとして、まず「崇福寺」を過ぎた後「梵釈寺」へと行き、そこから「湖」(琵琶湖)へ出ています。
「弘仁六年(八一五年)四月癸亥【廿二】」「幸近江國滋賀韓埼。便過崇福寺。大僧都永忠。護命法師等。率衆僧奉迎於門外。皇帝降輿。升堂禮佛。更過梵釋寺。停輿賦詩。皇太弟及群臣奉和者衆。大僧都永忠手自煎茶奉御。施御被。即御船泛湖。國司奏風俗歌舞。五位已上并掾以下賜衣被。史生以下郡司以上賜綿有差。」
この行幸ルートから考えた場合、これを旧「大津京」を経由したとすると、「梵釈寺」へ行く道順が「迂回」ルートとなってしまい、遠回りになってしまいます。そう考えると、これは旧「紫香楽宮」を経由して「梵釈寺」に行きそのまま「湖」(琵琶湖)へ出たものと考えるとわかりやすいと思えます。その場合「崇福寺」を「紫香楽京」付近に措定することが可能であり、また妥当であると考えられることとなります。(「梵釈寺」については創建時の場所は違うという説もありますが、詳細は不明であり、また再建される際に全く別の場所が選ばれる理由も併せて不明ですから、当初からここに存在したという可能性も高いと思料します)
「聖武」が「崇福寺」を建てたのなら、「桓武」「嵯峨」両帝が「先帝」と「聖武」を呼称していることとなり、それは「無形容」であることと関連があるとも言えるでしょう。「淡海先帝」とするとそれこそ「天智」のこととなってしまいますから、そうは受け取られないように「無形容」なのだと思われます。
仮に、この「崇福寺」という寺院が「天智」の創建であり、(つまり「先帝」も「天智」であるとして)「志我山寺」が「崇福寺」と同じであったとしても、その「志我山寺」が「天智」の創建であるという記事は「書紀」にも「続日本紀」にも現れないことを別に説明する必要があるでしょう。更に、「嵯峨」以前に「崇福寺」へ「行幸」した「天皇」がいないという不審も説明しなければなりません。(前述したように「志我山寺」への行幸は存在し、それは「聖武」が行ったものです)
既に述べたように「元明紀」には「志我山寺」「筑紫尼寺」と並んで「観世音寺」の寺封の打ち切りについての記事があります。そこでは「志我山寺」について「三十年経過している」旨のことが書かれていました。それに対し「観世音寺」は「五年」とされています。また同様に「元明紀」には「観世音寺」について、「天智の誓願」になる寺院であって、進捗がはかばかしくないという意味のことが書かれています。
「和銅二年(七〇九年)二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」
これらを見ると「観世音寺」と「志我山寺」は全く扱いが異なり、「志我山寺」については「天智」との関連が語られていないことに気づきます。そのことは「志我山寺」について、「天智の誓願」にかかる寺院ではなく(観世音寺と異なり)また順調に建設が進んだことらしいことが推察できます。つまり、「崇福寺」が「志我山寺」と同一であったとしても、それが「天智」と関連しているとは言えない事を示しています。
また、「嵯峨」の「詔」には「禅侶之窟」という表現がされています。この「窟」は「比喩」ではなく実際に「洞窟」状の地形をしていることを表していると見るべきであり、「崇福寺」がその背後に「崖」のようなものがあり、そこに「窟」があったことを推察させます。しかし、「大津京」の至近にある「崇福寺」とされる「寺院跡」は、確かに山中にはあるものの「洞窟状」のものは発見されておらず、合致しないものと推定されます。
それに対し「紫香楽宮」の「甲賀寺」の後背地には「崖」が存在しそこに「石仏」を刻む予定であったことが推定されています。(「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていました。
「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」
「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」
この詔でも「削大山講堂」とされ(これは一部実行されたもののようですが)、このことからも「寺院」と山が近接した地形であることが知られます。
また「紫香楽宮」の遺跡からは「なにはづ」と「あさかやま」が書かれた「歌木簡」が出ています。この「歌木簡」は「儀式」(「即位」あるいは「遷都」等重要なもの)の際に読み上げられたものと推測され、それはこの「紫香楽宮」が「キ」とされ、「大盾」を建てたという記事ともつながり、この地が「聖武」にとって重要な場所であったことが推測できるとともに、そういう「風習」ないし「伝統」が当時の王権にあったことが推測できます。それはまた、この「なにはづ」と「あさかやま」が往時の「倭国王権」にとって重要なものであったことを推測させるものであり、「勝満」という自称と共に「聖武」の「七世紀初め」の「倭国王権」への傾倒が示されていると考えられるものです。
(※)大津市教育委員会によると、2011年8月に近江国府中枢部の国庁跡から北東約400m(菅池遺跡)の古墳時代から平安時代に亘る溝の「最下層」から出土した木片が、飛鳥時代から白鳳時代(7世紀中頃)の木簡の可能性が高いことが発表されています。
年代測定の基準としては共搬した「土師器」や「高坏」などの編年から「近江遷都」とされる「天智六年(六六七年)以前」と判断したとされます。
つまり、国府が成立する八世紀以前のものということになり、この付近にそれ以前から、「公的」な施設もしくは豪族の拠点があったという可能性が考えられる事となりました。
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新2013/11/04)