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「郭務宋」の派遣と「薩夜麻」の帰国

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 「書紀」には「天智十年」に「薩夜麻」の帰国記事があります。

「(天智)十年(六七一年)十一月甲午朔癸卯条」「對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。」

 これによれば「唐使」が「六百人」、「送使」として「沙宅孫登」率いる「百済人」が「千四百人」とされています。(人数は概数と思われますが。)
 この時の「郭務宋」たち使節の構成を見てみますと、併せて二千余人が四十七隻に分乗してきており、一隻あたり平均四十四人ほどとなります。
 この乗船数から考えて、この「船」は「軍艦」であり、乗船している「唐使」とされる「郭務宋」以下「六百名」や、「佐宅孫登」以下「千四百名」という「百済送使」は基本的には「戦闘員」と考えるべきでしょう。単なる「使者」と「送使」の随員としては人数があまりに多すぎます。

 中国の例では「和平工作」のために使節を派遣する場合でも多くて十数人が普通であり、将軍など「軍事関係者」がその中にいたとしても数百人という例はなく、その意味ではこの「倭国」への使者は「希有」な例であると言えます。 将軍以下軍事関係者が使者に付随するのは戦闘地域の和平工作の場合であり、そのことはこの「唐使」と「送使」が共に単なる使者ではないことを意味するものです。少なくとも、この時の「唐船」は戦闘行為を想定し、あるいは準備して、操縦要員や外交使節的人員とは別にかなり多数の「戦闘要員」も乗り組ませていたものと推定されます。

 このように「唐」など「外国船」(というより「敵国船」)が直接「博多湾」に進入しようとすれば「首都防衛」軍が発動され「攻撃」を仕掛けるのは明らかですから、当然「対馬」に到着した時点で事前に警告したわけですが、それでもなお戦闘になる可能性はあるわけであり、あるていど「反撃」可能な戦闘員を乗船させているのはある意味当然とは思われます。しかしこの大量の人員が乗り組んでいる船が単なる「平和使節」などではないのは明らかと考えられます。そう考えると、「乗船」していた「戦闘員」の存在は、彼らを伴って帰国した「薩夜麻」と関連させて考えなければならないものです。
 つまり「唐使」と「送使」が各々率いていた多量の人員は「倭国王」であるところの「薩夜麻」を護衛するという目的のために乗船していたのではないでしょうか。
 (このような例は「百済典支王」の即位の際に、「質」として「倭国」にいた「典支王子」に護衛数百人をつけて「百済」へ送り、即位させたという記事や、「扶余豊」を「阿曇比羅夫」が護衛して「百済王」として即位させたという記事とよく似ており、いずれも本国に危急があり、王位が空白となったために「質」あるいは「捕虜」となっていた人物を「王」として帰国させたという点が共通しています。これらを彷彿とさせるものでもあります。)

 そもそも「二千人」に上る数の人員がこの時点で「和平」のため来倭したとすると、それ以前にすでに「劉徳」らによって和平交渉が行われていたこと、「百済禰軍」の墓誌を見てもすでに六六五年段階で交渉は妥結していると思われることと矛盾します。
 彼らの「来倭」の目的は、一つには「捕囚」となっていた「倭国王」である「薩夜麻」の帰国であり、それに伴う「戦争状態」の最終的な終結を目指すものであると考えられますが、他にも「薩夜麻」が安定して「倭国王」に復帰できるように協力することもあったのではないでしょうか。

 「唐」としては「百済」「高句麗」は滅亡させたものの、それらとの戦いで明らかになったように「倭国」が常に背後にいることを意識せざるを得なくなったものと思われます。
 「倭国」についても今後「反唐」的立場に立って欲しくないと考えたとすると、「帰順」した「薩夜麻」との関係を基調とした「戦後体制」を確立したいと考えたであろうことが推察され、その「薩夜麻」が帰国後「不安定」な政治的状態になることは「唐」としては避けなければならないことであったと考えられます。
 このため、「使者」という名目で「戦闘要員」を乗船させ、「倭国」と「薩夜麻」に対し「威嚇」により「軍事的圧力」を加えると共に、場合によっては「薩夜麻」に対して「軍事支援」を実行できる体制を作っていたものではないでしょうか。
 このように「唐」や「百済」の関係者が危惧していたのは、「薩夜麻」が捕囚の間に倭国内に政変が起こり、それらの勢力が「薩夜麻」に対して反旗を翻すという状況であり、それは現実となったものと思われます。
 「薩夜麻」帰国に当たり、「近江朝廷」(大友皇子)が意に従わなかったため、「薩夜麻」と「唐・百済連合軍」は共同して「反対勢力」の制圧に当たらざるを得なくなったものと思われます。

 前記したように「白村江の戦い」の年次は「旧唐書」と「書紀」で「一年」ずれている、という事が明らかとなっています。この「一年ズレ」問題は、以下の「空白の一年」問題を誘発することとなります。つまりこの「干支紀年」のズレが「修正」される年次で、「消滅」してしまう一年が発生することとなるのは避けられません。
 この「修正」は「六七二年」で行ったものと推察され、(正確に言うと外国史料との対応ができないため、どこで修正したものかは不明ですが、「天智紀」内の「ズレ」と考えると、「代」が替わった「天武紀」で修正されていると考えるのが相当と思料されます。)そうであれば、「真」の「六七二年」と「修正」した「六七二年」と、「六七二年」が二回発生することとなり、「書紀」では「どちらか」の一年が消去されたこととなります。つまり、「唐」の「六七一年」に当たる年か「六七二年」に当たる年かどちらかが「消滅」しているわけです。言い換えると、「天智天皇」の死去翌年に「壬申の乱」があったか、その一年後であったのか、ということです。

 それまでの天皇家や中国の歴史でも「相続」に関する争いは「前王」の死去後余り時間をおかないで発生しています。それは「殯宮」で「モガリ」をする期間というものが「墳墓」の造成期間であると同時に「後継者」の決定に要する期間でもあったと考えられるからであり、「天智」の死去後「すぐ」に「壬申の乱」が起きたと考えるのが通常でしょう。 その場合、その翌年(「唐」の「六七一年」に当たる「年次」)が消滅(隠されて)していると考えられるわけですが、そうしなければならなかった最大の理由は、この「壬申の乱」に「薩夜麻」と「郭務宋」率いる「唐・百済連合軍」が関与している、と考えられるからです。
 この「外国軍隊」の関与という事実が明らかになると、「薩夜麻」が捕虜であったことが明るみに出ることとなるでしょう。(つまりなぜここに「唐軍」がいるのかその理由を明確にしなければいけなくなるからです。)

 「倭国王権」にとっては「負けた」とか「捕虜となった」あるいは「唐」の援助によって「統治権」を回復した、などと言うことを明らかにはしたくなかったものと推察され、史書の編纂の際にもそれが強く反映した結果、「壬申の乱」の際の「一年」を「消去」する事としたものと推量します。
 この空白の一年に関与していたと考えられる「郭務宋」率いる「唐軍」は「書紀」では「六七二年」に帰国しており、その後「壬申の乱」となりますが、実際にはその間に「空白の一年」があり、そこで「壬申の乱」(正確にはその前年の「  の乱」)が起きたものです。つまり「郭務宋帰国」は「乱」の後の話であり、その結果としての「褒賞」が「郭務宋」達に対する大量の下賜品として「書紀」に書かれていると思われます。

「(天武)元年(六七二年)夏五月辛卯朔壬寅条」「以甲冑。弓矢賜郭務■等。是日。賜郭務■等物。總合■(ふとぎぬ)一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。」

 この「下賜」の内容を見ると、かなり大量の物品が「郭務宋」に贈られているのがわかります。たとえば、「一匹」が「二反」、「一反」がおよそ「一着分」とすると上記「下賜品」は「太絹」(余り上質でないとされる絹製品)が「約三千二百人分」、「布」(綿布)が「約二千八百人分」、「綿」が「六百六十六人分」となります。
 これは筑紫に送られてきた「唐使」と「百済送使」の人数に対応していると見られ、駐留していた「両軍」に対する「衣料支給」という形での「補償」と考えられます。
 このことから「百済軍」の総数は(記事中では「千四百人」となっていますが)実際には「千四百二十六人」、「唐使」は同様に「六百人」ではなく「六百六十六人」と推計できるものです。また「ふとぎぬ」の「千六百七十三匹」というものは「唐使」と見られる「六百六十六人」に対して一人「五反」という割り当てであったとするとほぼ整合した値となります。(その前段の「甲冑・弓矢」などの「下賜」についても同じように駐留唐軍に対する「褒賞」であると思われます。)

 また、この時の「百済送使」が(送使の常として)「唐使」達に先んじて帰国していたということが言われていますが、単なる送使であればそうである可能性は高いと思われますが、上に見たようにこれがほぼ「戦闘要員」であったとすると、「薩夜麻」や「郭務宋」の「倭国滞在中」同行していたものと思われ、彼ら「要人」の警護に当たるとともに、「近江朝廷」との間の戦闘に参加していたという可能性が高いと推量します。それが「褒賞」の中身に反映していると思われるわけです。


(この項の作成日 2011/03/11、最終更新 2014/08/26)



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