「八世紀」に入り「書紀」編纂の際に「辛酉革命」という考え方が起こり、そのため「天智」の行為は「書紀」の「神代巻」の中で「神武」に連結されることとなったものと思われます。
中国の「辛酉革命」という讖緯(しんい)説の思想によれば、「辛酉」の年には「革命」が起こると言われていたようです。
特に一元(60年)の21倍ないしは22倍にあたる「一蔀(いちほう)」(1260年ないし1320年)の「辛酉」の年には「大革命」があるとされていたようです。
このように「一蔀」の長さに解釈が複数あるようですが、「書紀」の場合は「1320年」ごとに革命があるという考え方によって「紀元前六六〇年」に「神武」を設定することで、その「1320年後」の「六六一年」に「天智」の「即位」という仮構を、この「革命」理論から正当化しようとしていると考えられます。
この「辛酉革命」という考え方(理論)は「平安時代」(昌泰四年(九〇一年)になって「文章博士」である「三善清行」が「革命勘文」(紀伝勘文)を著し、その中で「辛酉革命」論を展開し一躍脚光を浴びるわけですが、その際に「神武天皇」即位と「天智天皇」即位が共に「辛酉年」であることなどを挙げるなど、「天智」は「神武」と並び称される存在とされたものです。
以下「勘文」の原文(群書類従 第貮拾六輯 雜部」)
「(前略)伏望 周循三五之運 咸會四六之變 『遠履大祖~武之遺縦 而近襲中宗天智之基業』 當創此更始 期彼中興 建元號於鳳暦 施作解於雷散(以下略)」
「書紀」に書かれた「神武」即位の年が「紀元前六六〇年」であるというのは「現実」としては理解しがたいと考えられますから、この「勘文」に記された両者のうち現実的とみられるのは「天智」即位であり、彼は「中宗」と呼ばれ、明らかに特別視されています。また「天智之基業」と書かれ、これは「天智」の即位がその後の「日本国」の「基」となったと云うことを意識した言葉であるとも考えられます。この年次付近になっても、と言うより時代が経ってなお「神格化」が進行した結果とも考えられます。
この考え方は既に「書紀」編纂時にあったものと考えられ、それを「拡大解釈」したのが「三善清行」であったと考えられるものです。
彼の「革命勘文」に引用された「易緯」の鄭玄注に「六甲為一元 四六二六交相乗 七元有三変 三七相乗廿一元 為一蔀 合千三百廿年」と書かれており、この解釈をそのまま信憑すると「千三百二十年」が革命の「周期」となると考えられます。そうであれば、「書紀」で「神武」が「初代王」として描かれているのはある意味当然のこととなります。それは「天智」が「初代王」であることの「直接」の反映だからです。もちろんこの事は「神武」が全面的に「架空」というわけではなく、「近畿王権」の「始祖」としての「神武」は「実在」したと考えられますが、その存在を明確化させたのは「天智」が「近畿王権」と協力して「新王朝」を開いた時点以降のことであり、「天智」と「神武」との「相似性」を強く出す形で「記紀」の「編纂」が為されたものと思料します。
この点に関しては従来より同様の「説」はすでになされており、それによれば「神武元年」が「天智称制」の開始時点から遡って定められたものであり、それは「天智」の「称制開始」というものが実質「建国」であって、「辛酉革命」を意味するものであるという観念から作られたものとされています。しかしもっと言えば、「天智」の実際の即位を「六六一年」にすることが重要であり、それが「革命」という観念に基づく証として「神武」の即位を「紀元前六六〇年」に持って行ったと言うことではないでしょうか。実際には同じ「辛酉」であっても「六六一年」ではなく「六〇一年」であったということと推定されるものです。
(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2014/11/30)