ホーム :天智の革命と日本国創立 :


漏刻と改暦

前へ 次へ

 「令義解」(大宝令の注釈書) には「宮廷の開門時刻」について「鐘を鳴らして合図すること」と規定しており、その鐘については「延喜式」に詳細が記されています。その詳細を記した中に「日の出」「日の入」の時刻が各季節ごとに書かれているのですが、実はそれらのデータからその土地の緯度が推測可能なのです。
 「日の出」「日の入り」は「春分」「秋分」については土地の緯度(φ)には無関係となりますが、「冬至」と「夏至」付近の時刻については緯度により大きく変化します。
 それを踏まえて「令義解」を見てみると、「冬至」と「夏至」前後の3日間だけは「北緯35度」の方が近似していると判明しています。 「北緯35度」に近いのは「京都」の「平安京」(ほぼ35度)ないしは「飛鳥古京」(34.5度)です。 「冬至」と「夏至」という時点に行われる重要な儀式(「十二月の大祓い」及び「六月の大祓い」)を行う際に利用されるものだけは「北緯35度」の地点のデータが使用されているということは、その「延喜式」の成立事情から考えて「平安京」という「延喜式」制定時点「現在」の都のデータが使用されいると考えて間違いないと思われます。しかし「冬至」と「夏至」を除くと「北緯33度」の地点の「日の出」・「日の入」時刻が書かれているとわかります。(※)
 日本の古代の都市で北緯33度付近に位置しているのは「筑紫」です。このことから「延喜式」には「筑紫」における「日の出」・「日の入」時刻が書かれているものと考えられ、九州に王朝があった当時作成されたものを多少の変改はあるもののそのまま使用しているものと推測されます。
 そして、この「日の出」「日の入」などの時刻を記録するために使用されていたのが「漏刻」(水時計)でした。これを使用し時刻を把握して鐘を鳴らしていたのです。
 この「漏刻」を日本で初めて作製したのは「皇太子時代の天智天皇」であるとされます。

「(斉明)六年(六六〇年)…夏五月…是月。有司奉勅造一百高座。一百衲袈裟。設仁王般若之會。又皇太子初造漏尅。使民知時。」

「(天智)十年(六七一年)…夏四月丁卯朔辛卯。置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。云々。」

 このように「漏刻」の設置と使用が書かれていますが、この「漏刻」に関して「増田修氏」の研究(※)などにより、以下が判明しています。

@「延喜式」にある「開門・閉門時刻」について「一日四十八刻法」(一昼夜を一二辰刻、一辰刻を四刻、一刻は十分(ぶ)という分け方)と理解できる事が書かれていること。
A「延喜式」当時および「大宝令」施行当時の暦は「儀鳳暦」であり、それらは「一日四十八刻法」ではなく「一日一〇〇刻法」であったこと。
B「令集解」という「大宝令」の私的注釈集によれば、そこで引用されている「古記」(七三八年「天平十年」頃に成立か)の中の「暦」の説明が「儀鳳暦」には合致していないこと。
Cこの暦の説明として「春秋正義」からの引用があり、その「春秋正義」で説明している暦は「古暦」と呼ばれ、これは「後漢四分暦」と同じ四分暦法に基づく暦であること。
Dこれらから、「延喜式」に言う「一日四十八刻法」を採用している暦が、「後漢四分歴」様の暦であると理解できます。

 この「漏刻」の使用がいつごろかというのは、上の「天智」の「皇太子」自体が最も古い例なのか、それ以前にはなかったのかということとなりますが、「推古紀」の途中(六二二年)から「天体観測記事」が出てくることを考えると、この時点付近で「漏刻」が使用開始されたとみるべきであり、それが「天智」の皇太子時代のこととなれば、必然的に「天智」の時代は「七世紀前半」を下らないこととなるでしょう。
 「漏刻」の使用が書かれた「延喜式」自体が「延喜」年間に作られたものばかりではなく、すでにそれ以前に確立していたものを集めた、という性格があります。この「漏刻」に関することも、当時使用されていた「儀鳳暦」の(元嘉暦も同様)「一日百刻法」という用法と食い違う内容になっている、ということは、「増田氏」も言うように「大宝令」以前の状態を「漏刻」の使用法が示しているのではないかと思われます。
 「書紀」によれば「漏刻」の使用開始は「近江朝廷」に始まるようですが、もしそうであれば、この「後漢四分歴」様の暦の採用が「近江朝廷」に始まることを意味すると考えられ、それは「天智」の時代のことと推定されることとなるでしょう。
 「書紀」には「難波朝」において「朝廷」の中に「鐘」を設置し、この「鐘」を合図に「公務」を行う事が決められたとされています。

「(大化)三年(六四七年)…
「是歳。壞小郡而營宮。天皇處小郡宮而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」

 この記事中の「鐘」をならすための「時計」はどのようなものだったかについては、なにも書かれていません。しかし、「延喜式」にもあるように「漏刻」でもなければ「鐘」を鳴らす時刻を測定することはできないはずであり、この時点ではまだ「漏刻」ができていないとされていますから、この「鐘」を鳴らすこととした、と言う記事には疑いがあると考えられていました。しかし、上の推定により、「七世紀前半」にすでに「漏刻」が存在してたらしいことが推察されることとなり、その「漏刻」は「隋」から学んだ「技術」の中にあったものと言うことが強く推測されるようになりました。
(「飛鳥水落遺跡」には「漏刻台」の遺跡がありますが、これが「近江朝廷」より以前のものという考え方も出されているようです。(「天武紀」と考えられる柱穴も存在していますから何とも言えませんが)

 この「漏刻」は古くからありましたが、「唐」の「貞観年間」(六二七年〜六四九)に呂才(ろさい)がそれまでの物を工夫し実用に耐えるように改良したものが伝えられたものと考えられています。
 しかしそれ以前(古代から)、「漏刻」は継続して使用され続けてきていたものであり、「唐」の時代になって実用になったわけではありません。そう考えると「呂才」以前の「隋代」に「遣隋使」により持ち帰られた知識の中にあったと考えて不思議はありません。
 それは「四十八刻法」の「漏刻」使用法という存在からも言えることです。「唐」から「改良型」の「漏刻」が伝わったとすると、この時「呂才」の「唐」では「戊寅元暦」が行なわれていたものであり、これは「一日一〇〇刻法」だったと思われますから、「四十八刻法」はそれ以前に伝来したものと考えざるを得ないわけです。
 現地(筑紫)の「恵蘇八幡宮」に伝わる伝承では「『恵蘇八幡宮』の麓の筑後川が玄界灘と針摺(はりずり)の瀬戸でつながっている時代に、都府楼(とふろう)に「漏刻」を置いて、舟人たちに時を知らせる鐘を打たせた」と伝えられています。(「筑紫」平野の中央部分を縦に走る水路があり、そこが「針摺瀬戸」と名付けられていたようです)
 
 そして、ここで「漏刻」使用開始と同時に「改暦」が行われ「四分暦」が使用し始められたと推定され、そのことから「天智」が「天命」を受けた(受命)意識があった事を示すものと考えられ、この「改暦」が「受命改制」の一環であったと見ることができるでしょう。
 「受命改制」とは本来「天命」を受けたとする人物や王朝において、その「受命」の明示に始まり、「改暦」「国号変更」「制度改正」などが行なわれることを言います。
 「書紀」によれば「天智紀」において、「幾種類」かの「瑞祥」を並べた後で「天命将に及ぶか」という一文が記載されており、これは間違いなく「受命」の「明示」といえるものです。

「天智七年(六六八年)秋七月。于時近江國講武。又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇『天命將及乎』。」

 ここに出てくる「天命將及」は「隋」の高祖(文帝)にも同様の使用例があります。

(隋書/列傳 卷五十 列傳第十五/李安 )

「…高祖嘗言及作相時事,因愍安兄弟滅親奉國,乃下詔曰:「先王立教,以義斷恩,割親愛之情,盡事君之道,用能弘奬大節,體此至公。往者周?既窮,『天命將及』,朕登庸惟始,王業初基,承此澆季,實繁姦?。…」

 この使用例は「楊堅」が「皇帝」(文帝)として即位する際の文言ですから、「書紀」のこの「天智紀」記事もこれを下敷きにして書かれていると思われ、「天智」の「受命」による即位を示したものと理解すべきでしょう。


(※1)斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三号、一九九二年)
(※2)増田修「倭国の暦法と時刻制度」(『市民の古代』第16集、一九九四年)


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/11/30)


前へ 次へ
天智の革命と日本国創立 に戻る