この「百済禰軍」墓誌には興味あることが書かれています。
問題の部分は以下の文章です。
(丸数字で問題部分を区切っています)
@「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金?子之入漢(二文字空け)聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛?川府折沖都尉。」
A「于時日夲餘? 拠扶桑以逋誅 風谷遺? 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原?而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
B「公q臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/?凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬。
(この「墓誌」の中では「唐皇帝」に関する文字は「二文字」空けて記述しているようです。それは「上」に「文字」が乗ることを避けているのだと思われます)
@については、これは「顕慶五年」(六六〇年)という年次の表記から考えても、「百済」滅亡の時のことを記したものと考えられます。
「(旧唐書百済伝)顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。」
また、ここでは「金?子」の故事を踏まえた文章となっているようであり、自分を「元匈奴」の王子であった「金?子」になぞらえていると考えられます。(彼のように「奴隷」まで身を落としたかは不明)
そして、この文章の直後のAについて細かく見てみると、「餘?」といい「遺?」というような「用語」を使用していますから、これらはいずれも「主君」や「指導者」がいなくなった後の「残存勢力」、という捉え方であることが分かります。そして、その文章の中には「拠『扶桑』」といい「負『盤桃』」と言い方を使用していますが、いずれも「伝説」の地であり、「東の果て、日の出るところの地」であるとされている場所のことです。そこに「残存勢力」は隠れているというわけです。
この文章から受けるニュアンスとしては、それが「近畿」であれ、「筑紫」であれ、「本来の首都に倭国王がいる」とすると似つかわしくない表現であると考えられ、「本来の首都ではない地域」に「残存勢力」が移動(逃亡)しているというように受け取られるものです。
ところで、「海東諸国記」によれば「六六一年」に「近江」へ遷都したこととなっています。しかし「書紀」によればそれは「六六八年」のことであったとされており、大きく食い違っています。
「倭国中枢」が本拠(首都)にいるのであるなら、この「墓誌」にあるような「逋誅」(罰から「逃げている」)という表現や「居扶桑」という表現は似つかわしくないと考えられます。
つまり、その時点ですでに「扶桑」(日の出るところと中国から思われていた場所)にいたことを示すものと考えられ、「扶桑」が「日の出るところに近い東方の地」を意味するわけですから、「近江」遷都がこの時点「以前」に行なわれたことを強く示唆するものであり、「海東諸国記」の言う「六六一年遷都」という考え方の方が正しいことを意味するものでしょう。
逆に言うとそれ以前はかなり「半島」に近い地域(たとえば「九州」)に「都域」があったことを示唆しているようです。
ところで、この「日夲」を「日本」のことではなく「百済」のこととする説があります。それによれば「風谷」と対比するように書かれており、その「風谷」が国名ではないのだから、「日本」も同様であるとされています。(東野氏の説)
確かに本来対句としては中国の古典では「太原」と「風谷」という使用例や「雲谿」と「風谷」というような組み合わせがあるものの、「日本」と「風谷」というものは確認できません。これらはいずれも「都」を遠く離れた場所であり、姿をくらますには絶好の場所と考えられていた場所を抽象的に示すものと思われますが、この「百済禰軍墓誌」の場合は、「唐」「新羅」の軍から逃れているという意味合いから「風谷」が使用されていると思われます。そのことは同様に「日本」の意義もそこにあったことは間違いないと思われることとなりますが、それが「太原」でも「雲谿」でもないのは、そこが「扶桑」の地であった為であり、「倭国王権」が「扶桑」に「拠点」を持っていたがために「日本」という国名と意味上合致したことがここに「太原」「雲谿」に代わり「日本」が使用されることとなった所以であると思われます。
つまり、ここに「日本」という名称が使用されるのは現実を反映しているものであり、非常に似つかわしいものであったと言えるでしょう。
さらにそれに引き続き、「萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原?而縦濔。」という文章が続きますが、この部分は、「萬騎」と「千艘」、「與」と「援」、「蓋馬」と「原?」、「驚塵」と「縦濔」というように全てが見事な対句構成の「四六駢儷文」となっています。
ここでは「萬の騎が野に亘り」と「千の船が波に横たわり」とが対応していると考えられ、また「蓋馬」が「蓋馬山」や「蓋馬高原」という土地の名前に関連していると考えられ、これが「高句麗の地」(朝鮮半島北部の高原地帯)を指すものと考えられることから、その前の「萬騎」が「亘った」という「野」もまた「高句麗の地」を指すと考えられます。
そして、下の句の「千艘」以下「萬」と対語仕立てにしているものの「実質」としての数字という含みもあると思われ、「三国史記」に「倭船」が「千艘」いたと書かれた「白村江の戦い」を想起させるものであり、「百済」の地での出来事をさすと考えられるものです。
つまり、ここでは総じて「半島」の出来事について書いていると思われるものです。
ところで、ここまでの文章の流れは「書紀」や「旧唐書」に書かれている事と少し違うと思われます。
「書紀」や「旧唐書」などでは、「六六〇年」の戦いの当事者はあくまでも「唐」「新羅」対「百済」(+高句麗)であったと思われ、「倭国」は参加していないと見られるのに対して、この「墓誌」の文章では「百済」が滅びた段階ですぐに「倭国」に対し「残存勢力」の追求をしようとしているように見えます。
このことは「実際」には「六六〇年八月」とされる「百済滅亡」の戦いの時点ですでに「倭国」は軍を派遣しているのではないか、という疑いが生じます。
つまり、「百済」と「倭国」は最初から連合してこの「戦い」に臨んだのではないかと考えられるものです。
この文章では「百済」が滅ぼされ、「王」などが「百済」に連行された時点を以て「于時」という表現がされてその次ぎの「日夲餘? 拠扶桑以逋誅 風谷遺? 負盤桃而阻/固」という文章につながりますから、「倭国」(日本)は「百済滅亡」という段階で既に「列島」の奥に立て籠もった状態となっていたらしいことが窺えます。(時系列としてはその間に「空き」がないように思えます。)
「墓誌」では、さらに「以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰。」という文章につながります。この中の「亀鏡」というのは、ものごとの善悪を図る基準になるものを言い、後代の日本の資料である「日本後紀」においても「続日本紀編纂」に関する「菅野朝臣真道」の上表文中にも出てきます。
「『日本後紀』巻五 延暦十六年(七九七年)二月己巳(十三日)条」
「己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等。撰『續日本紀』。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典。上代之風存焉。左言右事。中葉之迹著焉。自茲厥後。世有史官。善雖小而必書。惡縱微而无隱。咸能徽烈絢□。垂百王之『龜鏡』。炳戒昭簡。作千祀之指南。…」
また、「瀛東」とは広い海の東のことの意から、「日本」を意味するものと思われます。
また、「往尸」は「死体」のことを意味すると考えられ、「特在」は「特にある」ないしは「特に置く」という意味で現代の表現と余り変わりません。また「簡(門構えの中が月)帝」とは本来、「簡」が「選ぶ」という意味と考えられることから、「簡帝」とは「選ばれた」「帝」を指す言葉であり、ここでは後に出てくる「僭帝」と対比的に使用されている事と併せ、「百済義慈王」に代わって「唐」から任命された「百済王」である「太子驕vを意味するのではないかと思われます。(以下「簡帝」の実例)
「藝文類聚/第四十六卷 職官部二/太傅」より
「…(北)周王褒太傅燕文公于謹碑銘曰.古者六等官人.師傅崇其匡輔.一命作牧.侯伯ヒ其專征.南仲成薄伐之功.吉甫作來歸之頌.若乃仰?宸曜.上屬台階.錫之以彝器.明之以車服.除名盛業.太傅燕國公其有焉.西曄開其命緒.東海傳其世祿.父曾致平法之科.廷尉稱無?之頌.駟馬方駕.高門繼軌.公稟山岳之上靈.含風雲之秀氣.雕良玉於廉?.?貞金於??.于時王業締搆.國?權輿.太祖地雖二分.功猶再駕.忠誠簡帝.有志興王.公運策帷帳.參謀幕府.封齊定文成之計.間楚資曲逆之奇.仲華訪輿地之圖.林叔參兵車之右.…」
他の例も同様であり、「選ばれた」あるいは「正式な」「帝」を指す言葉です。
また「招慰」とは一般には「帰順する」(させる)という意味があります。「常陸国風土記」にも以下のような用例が確認できます。
「茨城郡東香島郡 南佐我流海 西筑波山 北那珂郡 古老曰 昔在国巣俗語都知久母又云夜都賀波岐山之佐伯 野之佐伯 普置堀土窟 常居穴 有人来 則入窟而竄之 其人去 更出郊以遊之 狼性梟情 鼠窺掠盗 無被『招慰』 弥阻風俗也…」
ここでは、「国巣」とも「佐伯」ともいわれる者達を「帰順」させることが困難であることをいう中で「招慰」が使用されています。
そもそも「招慰」には「政府の政策として、化外人および賊を封象として行うもの」という性格があり、それまでの支配領域外にあった地域や、反乱などによって支配から離脱した地域や民族などを、「自王朝」(ここでは「唐」)の郡県制に組み入れる行為を指すものとされています。そしてそれは、地方官(都督など)などの個人的な判断に基づくものではなく、政府の政策による(あるいは皇帝の命による)行為というものであることが重要でしょう。
その意味でも「簡帝」による「招慰」という行為は「唐」という国家の意思を反映したものであり、それは「簡帝」が「唐」によって選定された人物であることを推定させるものであり、その意味からも「扶余隆」という存在につながるといえるものです。
この「墓誌」の場合は「往尸」とありますから、「逃亡した人達」に対するものを意味すると思われ、反乱者達(鬼室福信達など)を帰順させるよう説得などを行なっていたと理解できるものです。
以上を含んで考えると、大略は以下の通りと思われます。
「『公』(百済禰軍)は高位の官(ここでは熊津都督『劉仁願』と推察される)の計画により海を越え「倭国」にやって来て、彼等に物事の基準となることを示しました。そして「百済」では「新百済王」となった「太子驕vが反乱者に同調する人達に対して帰順を呼びかけていました。」
また、Bについては大変難解ですが、この部分は冒頭が「公」(禰軍)と「皇帝」の間の関係を書いたものであり、「公q臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳」という部分は「公」つまり「百済禰軍」が「臣」としての「節」を「命」を投げ出しても達成する、という事を「詩経」の「載馳」になぞらえて「皇華」(皇帝)に「歌」ったという事を意味すると考えられ、ここでいう「載馳」は「亡国の嘆き」を歌った歌であり、「詩経」にあるものです。この部分は「祖国」である「百済」を亡くした「百済禰軍」が今後は「唐」皇帝の臣下として命を投げ出す覚悟を示したものと推察されるものです。
そして、上の文章に以下の文章が続きます。
「汎海之蒼鷹/?凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋」
これらの文章は「蒼鷹」「赤雀」が「天命」を知らせるという故事を踏まえ、自分も「天命」(この場合「勅命」)を帯びて「直ぐに」(時間を掛けずに)来たという事を意味していると考えられ、さらに「説暢」(「説得」或いは「威嚇」)して、「投降させた」と言うことを書いていると考えられます。この「説暢」とは「告諭」や「宣諭」とほぼ同様の意義を持った用語であり、「魏」の時代の「倭国」へ派遣された「張政」や「隋」の時「倭国」に派遣された「裴世清」がそうであったように、「戦乱」あるいは「不穏」な情勢を鎮めるために派遣されたものであり、その中では「唐」の大義名分を認めるように「説得」したものです。
また、ここでは「禍福千秋」という言葉を用いていますが、同様な説得は「唐」と「吐蕃」(トルファン)との間に起きた争いの際にも行われています。
「(儀鳳三年九月丙寅)…李敬玄之西征也,監察御史原武婁師コ應猛士詔從軍,及敗,敕師コ收集散亡,軍乃復振。因命使于吐蕃,吐蕃將論贊婆迎之赤嶺。『師コ宣導上意,諭以禍福,』贊婆甚ス,爲之數年不犯邊。師コ遷殿中侍御史,充河源軍司馬,兼知營田事。…」
ここでも「宣導上意」とされ、「唐皇帝」の意思と大義名分を伝え、それに従うように説得したものと見られ「禍福」を以て諭したとされます。
ところで、「古代に真実を求めて」に掲載された「水野氏」の論考(特に「海賦」との関連)によれば上の部分は「海賦」の詩文を縮約して引用しているとされます。
「海賦」とは「三世紀」の西晋の「木華」の作と云われ、「古田氏」も言うように倭国に関するものがその中に重要な意味を持って書かれているとされています。このことから、その一節を引用しているとすると「日夲」というものが「倭国」との関連で書かれていると判断するのが正しいといえそうです。
「海賦」の中には「鷸如驚鳧之失侶,倏如六龍之所掣一越三千,不終朝而濟所屆。」という部分があり、これは「卑弥呼」が「魏」(「帯方郡治」)に応援を頼み、それに応じて「張政」が来倭して戦闘を停止させたということを詠ったものと思われますが、この「墓誌」では当該部分を「縮約」して引用しているものとみられ、「百済禰軍」の行動についても、その派遣された先が「倭国」であること、同じく半島の拠点である「熊津都督府」から派遣されたものであるということが推定できると思われます。
但し「海賦」の「不終朝而濟所屆」の部分は「水野氏」が指摘するように「朝」から「夕」に変えられ「驚鳧失侶 済不終夕」となっており、この「不終朝」という部分が古田氏により「朝飯前の意」とされたように、事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われるわけですから、それが「不終夕」に変えられているのはそれよりは長くかかった意を表すものではないかと考えられ、問題解決がそれほど簡単ではなかったこと、少なくともその期間として数ヶ月の時間経過があったことが想定されるものです。それは「海外国記」などでも「百済禰軍」が来倭してから帰国まで数ヶ月かかっているように見えることとつながるものと思われます。(六六四年記事と六六五年記事が実は同年とすると五月から十二月までかかっていることとなりますし、別の年次とすると足かけ二年かかっていることとなり、いずれにしろ長期間の交渉であったこととなります)
この「文中の「説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋」というような部分は「旧唐書」の「百済伝」や「劉仁軌伝」に於いても、「警告と威嚇」の為の文言として使用されています。
「旧唐書東夷伝百済の条」
「…司農丞相里玄奨齋書告諭兩蕃、示以禍福。」
「旧唐書列伝劉仁軌の条」
「…新羅兵士以糧盡引還、時龍朔元年三月也。於是道[扁王旁右深]自稱領軍將軍、福信自稱霜岑將軍、招誘叛亡、其勢益張。使告仁軌曰 聞大唐與新羅約誓、百済無問老少、一切殺之、然後以國付新羅。與其受死、豈若戰亡、順以聚結自固守耳 仁軌作書、具陳禍福、遣使諭之。…」
しかし、実際にはここで「勅命」を受けて来倭したのは「劉徳高」であり、「百済禰軍」ではなかったと思われます。
「百済禰軍」と「郭務宋」は「勅命」を帯びた「劉徳高」とは別に「熊津都督府」から「劉仁願」の意を受けて「対馬」に来ていたものであり、そこから入国できていなかったものです。
彼等は「唐皇帝」の命令がなかったため、本来の意味における「招慰」という行為が行えなかったものであり、「威嚇」だけしか行えず「軍事行動」がとれなかったことにより、時間ばかりがかかる事となったものと思われます。そして、そこに「劉徳高」が合流したものと見られます。
この時の来倭記事とおぼしきものが「書紀」及び「善隣国宝記」に引用する「海外国記」に出ています。
「天智紀」の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務宋」等が来倭したことが記されています。
「「天智三年」(六六四年)夏五月 戊申朔甲子 百濟鎮將劉仁願 遣朝散大夫郭務?等 進表函與獻物
冬十月 乙亥朔 宣發遣郭務?等敕
是日 中臣?臣遣沙門智祥 賜物於郭務?。
戊寅 饗賜郭務?等」
この件に関しては「善隣国宝記」に引用された「海外国記」の情報の方が詳しいようであり、以下が記録されています。
「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務?等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務?等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」
これによれば「この時の倭国」はこの使者を「唐皇帝」の使者ではない、として「門前払い」したとされています。そして、「書紀」にはその翌年「劉徳高」の来倭記事があります。
記事をまとめて並べると以下のようになります。
「「天智四年」(六六五年)九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等 (等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍、朝散大夫上柱國郭務?)。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
十一月己巳朔辛巳。(十三)饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。
是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」
これで見ると「劉徳高」の来倭に「郭務宋」と「百済禰軍」が同行しているのが分かります。また「海外国記」の「百済禰軍」の肩書きは「佐平」であり、翌年の「書紀」の記事によれば「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」となっています。実際には彼が「百済」が滅ぼされる前には「佐平」であったと思われますが、「唐」により「百済王」以下高位の官人達が捕囚となった際に、「唐皇帝」の前に送られた数十人の百済人の中の一人であったと考えられ、彼はこの時点で「右武衛?川府折沖都尉。」という称号を貰ったものと思料されますが、この時点ではまだ「上柱国」ではなかったとみられ、両記事とも「墓誌」とは異なることとなっています。
彼は「百済」にいた際に「佐平」というかなり位の高い役職(将軍)の一人であったものであり、その「百済」と「倭国」はこの戦いのかなり以前から「共同」ないしは「連合」して事に当たっていたと考えられます。つまり、「百済禰軍」は倭国の官僚の少なくとも一部とは「顔見知り」であり「百済」国内での「知日派」であったという可能性もあります。彼が「交渉」の窓口となっていたように見えるのは、彼には「交渉」の「チャネル」があったからではないでしょうか。しかも彼は「日本語」が話せたという可能性があります。
「唐」は外交交渉を諸外国と行う際に、原則として「漢語」(唐語)を使用していましたが、例外的に、その国の言語が出来る「通事」(「通訳」と「外交交渉」を兼ねて出来る人物)を派遣する場合がありました。
たとえば、「冊府元亀巻一〇〇〇外臣部『讐怨』」には「貞観中、太宗遣折衝都尉、直中書訳語揖坦然乞使西域」とあり、「折衝都尉兼中書訳語」という役職の人物を西域に派遣した記録があります。
交渉が「クリチカル」なものであればあるほど「通訳」の役割は重要であり、「漢語」で不十分と思えば、その土地の言葉を話せるものを「通事」として起用するのが「唐」の外交交渉のテクニックであったと考えられ、であればこの「百済戦」の後の戦争の後始末とでも言うべき、和平交渉において「倭国」の言葉を理解し話せる人間をあつらえなかったとすると「不審」と言うべきでしょう。つまり「百済禰軍」の役割はまさに「西域」に派遣された「揖坦然乞」と同じであると推察されるものです。
こう考えると「百済禰軍」は交渉の最前線で「日本語」を駆使して、説得と恫喝という硬軟を併せて交渉したものと理解されます。この事が「倭国側」の理解を助け、交渉が「決裂」するような最悪の事態を回避することが出来た理由のひとつではないでしょうか。
「海外国記」の記事では「四月」に「百済禰軍」達の来倭が記されているのに対して、それに対する「返答」は「九月」のこととされており、このような時間経過が順当なものとは言えないでしょう。
「海外」からの使者などについての情報は最優先なはずであり、このように時間が掛けられる「余裕」はないはずです。
このことから、この資料の内容には疑問が感じるものです。
つまり、この二つの記事は「同じ」年次(六六四年)の記事ではないかと推察されるものであり、「海外国記」の「四月」の項と「九月」の項の間に「劉徳高」が「対馬」に到着した「六六五年七月」記事が入るのではないでしょうか。「熊津都督府」からの「使者」と「唐」本国からの使者が相前後して「対馬」に到着したというわけであり、これに対し「倭国」は「劉徳高」の方にだけ対応したという事と思料されます。
「劉徳高」は「近江」まで招き入れたが、「郭務宋」と「百済禰軍」は「筑紫」からの入国を許さなかったとものと推定されます。
「倭国」側は、「劉徳高」への対応を巡って紛糾したものと考えられますが、結局はこの戦いに対する「公式」な「謝罪」とそれなりのペナルティーを受け入れることとなったものと推量されます。
その「ペナルティー」とは「捕囚」の身である「薩耶麻」に対して「泰山封膳」に連行するというものであったと考えられ、「唐皇帝」に対し直接「謝罪」すべきとされたのではないでしょうか。更に「泰山封禅」に参列した後「千里の外に三年間」の「流罪」処分となり、その間「熊津都督府」に留置されていた思われ、そのため「泰山封禅」が終ってもすぐには帰国できなかったものと考えられます。ただし、「三千里」の外と云っても、実際には「熊津都督府」に軟禁されていたと考えられ、これはまだしも待遇としては良かったと思われます。(熊津都督府は確かに「三千里の外」にあります)
ちなみに、この「流罪」という「罪」の中身については「唐令」の規定が失われているため、場所の起点がどこか問題となっていたようです。これについては「養老令」では流刑の起点を「京師」からとしているものの(『令義解』による)、それが「唐令」そのままであったかは不明であったものです。しかし、この「薩夜馬」の一件が「三千里の外の流罪」(二年間の強制労働が付加される)であったとすると、間違いなく「養老令」と同様「京師」(この場合「長安」)を起点としていることとなります。
この「謝罪」と「降伏」が「泰山封禅」の直前(六六五年末)に行なわれたとすると、そこから「二年間」を数えると「六六七年」になりますが、翌「六六八年」(乾封三年)の三月に「明堂」についてその内容が決定されたことから「大赦」し「改元」したとされます。
「資治通鑑巻二〇一」
「總章元年(戊辰、六六八年)朝廷議明堂制度略定,三月庚寅 赦天下改元。」
この段階で「流罪」であった「薩夜馬」も解放され、その年のうちに帰国したのではないでしょうか。
そう考えると「書紀」の記事は「三年」ほどずれていることが推定できます。
「薩夜麻」は「郭務宋」と同行して帰国していますが、この記事は「唐」側資料には存在しません。「帰国」の年次としての「六七〇年」というものが「絶対」的事実として保証されているというわけではないのです。
少なくとも「六七一年」に記載されている「劉仁願」が派遣したという「熊津都督府」からの使者の記事については、それ以前(六六八年)にすでに「劉仁願」が「唐皇帝」から「査問」を受け「流罪」となったという「唐側資料」とは「矛盾」しています。
「資治通鑑巻二〇一」
「總章元年(戊辰、六六八年)八月辛酉,卑列道行軍總管右威衞將軍劉仁願坐征高麗逗留,流姚州。」
つまり先に「大赦」があり「改元」された後の八月に「劉仁願」は「対高麗戦」に出陣しなかったという罪で「死罪」に問われるところ一等罪を減じて「流罪」となったとされます。
このことから、彼については「恩赦」が適用されず、「六七一年」段階で「熊津都督府」で采配を振るっていたとは考えられないこととなります。
この「来倭」記事が、実際は「流罪」になる前の記事であると考えると、少なくとも「三年」のズレがあるようです。すると同じ「六七一年」に帰国したとされる「薩夜麻」の記事についても「三年」遡上する可能性が考えられ、そうであるとすると「六六八年」に年次が移動し、彼が解放されたとみられる「六六八年」と同年となります。
(この項の作成日 2012/02/07、最終更新 2014/08/07)