ホーム :七世紀の倭国の外交と遣唐使 :「唐」・「新羅」との戦いについて :


「倭国軍」の戦い方について

前へ 次へ

 ところで、「百済を救う役」という戦いについては、その第一回目の派遣は「阿曇比羅夫」と「阿部比羅夫」の二人が将軍となっているわけですが、これが「書紀」によれば「六六一年八月」のことであり、その翌年の「五月」には「阿曇比羅夫」が「大将軍」となり、再度「派兵」されていることとなります。
 そして、更に翌年には今度は「阿部比羅夫」を「大将軍」とする軍が派遣されていることとなるわけで、基本的に「阿曇比羅夫」と「阿部比羅夫」の二人が主たる「将軍」であることが分かります。
 「阿曇連比羅夫」は「海人族」である「阿曇氏」と深い関係があるのはもちろんであり、彼が多くの「船師」を率いていることは確実です。
 また、「阿部臣比羅夫」は「越国守」と「書紀」に出てきていますが、「蝦夷」「粛慎」遠征に派遣され「成果」を挙げているようであり、外洋航海にも慣れているようですから、かなりの水軍勢力と考えられます。
 いわば「海」のスペシャリスト二人を「大将軍」として戦闘に臨んでいたものと考えられるわけですが、それを示すように「斉明」の「軍遣の詔勅」によれば「新羅」本国を先ず攻めようとしていたように読み取れます。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などになぞらえられた「敵」を切り捨てる(倒す)ということを示しますが、「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもあるように「鯨鯢」は「海」や「大河」に住む「大魚」の一種とも考えられていたようです。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,鯨鯢唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように基本的にはこれらの「動物」(怪物)は「海」に棲息しているとされ、「海」が戦いの場であることが想定されているようです。
 また、同様に文中に登場する「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地であることを考えると、この時の「倭国軍」は直接「新羅」の本国を攻撃する意図を持っていたことが判ります。つまり、「百済」に向かったのではなく、「新羅」そのもののを攻撃する作戦であったと思われるのです。
 しかし、「書紀」には「新羅国内」での戦闘シーンが出てきません。実際には「百済国内」の記事しか見られないのです。これが「百済再興」という目的ならばこのような行動範囲は首肯できるものですが、「百済」を「支援」するというのであるなら、「新羅」本体を攻める方が道理にかなっています。
 「百済」は「前方」からの「唐軍」と「後方」からの「新羅軍」に挟撃される形であったと思われますから、「倭国軍」が「新羅」に直接その軍事力を行使すると、少なくとも「新羅軍」の「百済」に対する圧力が減るのは間違いないところです。つまり「書紀」からは、「発遣の詔勅」の目的としては「百済再興」ではなく、「支援」である事と理解されるものです。
 もしそうなら、その時期としては「唐」と「新羅」の攻撃にさらされていた時点が最もふさわしいと思われます。
 これがいわゆる「百済滅亡」の一年後で、また「扶余豊」を「百済国王」にするためという目的での「派遣」であるなら、「新羅」を直接攻撃するという意図が曖昧になり、「違和感」はぬぐい得ないこととなるでしょう。
 このことから考えても、先ず「海戦」に経験豊富な人物を将軍として人選している意図が理解できます。 
 このような意図で、彼等水軍の結うとも言うべき人物(「阿曇比羅夫」と「阿部比羅夫」の両名)を将軍として派遣し、「新羅」に対する「背後」からの攻撃を加えたものと思われますが、これはあまり効果がなかったのかも知れません。それはこれがやはり「海戦」を主体としたものであり、「上陸作戦」ではなかったためではないでしょうか。そのため「全面的」「本格的」軍事行動と言うより「威嚇」が主たるものになってしまったという可能性があります。それであれば、「新羅」側は余り多くの兵力を「倭国軍」側に割く必要がなかったということとなったとも考えられるでしょう。このため、「倭国」としてはさらに引き続き軍を派遣することとなったと思料されます。

 この様な経過により「阿曇比羅夫」を「大将軍」とする部隊が続いて派遣されることとなったものであり、この場合はかなり大量の「地上戦闘員」を乗船させていたものと見られ、これも「新羅」本国への攻撃を行なう事の他、「上陸」して「地上戦」を行なう予定であったと思われますが、この戦いに「倭国王」も「親征」したと考えられ、この時は「倭国王」自ら戦地に立つことで危機を打開しようとしたものと考えられます。
 「阿曇比羅夫」はそのまま「倭国王」を警護する形で付き添って「新羅」の領内にとどまったものと思料され、その後「戦い」の中で「倭国王」は補囚となり、また「阿曇比羅夫」は「戦死」することとなったものかと推定されるものです。(これは、これ以降一切「阿曇比羅夫」の記事が見えなくなることからの推測です)
 これに対し「阿部比羅夫」は以下のように「続日本紀」に「大錦上」という冠位が書かれ、「斉明朝」の際には「筑紫大宰率」であったとされています。

「(靈龜)四年(七二〇年)春正月甲寅朔(中略)大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。」

 彼は「蝦夷」や「粛慎」遠征の際には「越国守」とされていますから、「筑紫大宰」への就任はその後のこととなると考えられ、「百済を救う役」の軍派遣段階の時点の事かと推察されますが、そうすると自ら「遠征」しているのは「不審」であるとも考えられるものです。
 「壬申の乱」の際の「栗隈王」の言葉にもありますが、「筑紫」は防衛上の要点であり、ここを「不在」にするようなことは「本来」してはいけないことであったと考えられますが、そうせざるを得ない事情があったものでしょう。それは「倭国王」の「親征」という意向であったと思われます。
 「倭国王」が「自ら」戦地に赴く以上、配下の人員が後方に留まることはできなかったものと考えられ、「筑紫大宰率」といえど、戦地に赴かざるをえなくなったのではないでしょうか。そして、その結果「筑紫」を含む「西日本」に「軍事的空白」が生まれたものと考えられ、後述するようにその「空白」を「天智」は「衝いた」形となったと思われます。

 この時「倭国」から派遣された合計三回の「総兵員数」は「七万四千人」にまで膨れあがり、派遣に要した「船」の数は「四六〇隻」以上という計算になります。
 「唐」の記録(旧唐書)にある「白村江の戦い」の場にいたという「倭船」「四〇〇隻」という数字はこの「総数」を書いたものと考えられ、「白村江」に停泊していた「船」の総数が「四〇〇隻」以上であったと考えられますが、一回目と二回目の要員はほぼ全て上陸したものと考えられ、「第三派」で送られた「二万七千人」が「白村江の戦い」という「海戦」に参加したものと思料されます。
 この戦いは周知のように「倭国側」の大敗北で終り、多くの人間が失われたものであり、「百済王室」関係者の多くは「倭国」に避難してきたものですが、「阿部比羅夫」もこの時に「倭国」に無事逃げ帰ることができたものでしょう。

 上で見たような「総数」で「七万四千人」という兵力を送って戦ったわけですが、これは上で見たように「戸数」とほぼ比例して兵士を送り出したと推定すると、「七万四千戸」から「兵士」を出したこととなり、「七五〇戸」が「評」の平均戸数と考えると「約一〇〇」の「評」から「兵士」を出したこととなります。
 この「評」の数は「隋書倭国伝」にある「軍尼」の支配している地域の数である「一二〇」と大きくは異ならないことを示します。つまり「倭国」の本国を中心に兵力が整えられたことを示し、「東国」からは(上毛野君の軍など少数を除き)余り多くの兵が派遣されていないという想定と合致しています。

 また、最後に出動した「海戦」における死者が一番多かったのではないかと推測され、先に「陸上戦」に送られた「兵力」は捕虜等になりながらもかなり生存したものと推定されます。彼等の内かなりの数のものが本国に帰国したものと推察されますが、喪失した兵員数は二−三万人程度はあったものと推定され、多大な損失を受けたと推定されるものです。
 
 ただし、このような中でも「東国」(我姫)からは「兵力」が多くは派遣されなかったと推測され(全くいなかったという訳ではないことは「唐」から帰国した元兵士を記録した史料に「陸奥」の兵士について書かれていることでもわかります)、その結果国内の軍事バランスは大きく崩れた結果となり、「西に薄く東に厚い」状態となって、「東国」(我姫)の勢力の進出を許す形となったものと思料します。


(この項の作成日 2012/05/29、最終更新 2014/11/25)

前へ 次へ
「唐」・「新羅」との戦いについて に戻る