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「伊勢王」について

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 「天武紀」の「伊勢王」他による「限分諸国之境堺」という記事についても「三十四年遡上」の可能性があるとされます。
 この記事は「天武十二年」から「十四年」にかけて、「伊勢王」等が諸国境界を確定させたという記事であり、またこれに関しては諸国・諸官に恩賞が与えられている記事もあります。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅条」「遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」

「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔辛巳条」「遣伊勢王等定諸國堺。…。」

「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔己丑条」「伊勢王等亦向于東國。因以賜衣袴。…」

 ここで出てくる「伊勢王」が「孝徳紀」にその名が出てくる人物であり、さらに「天智紀」には「死去」に関する記事がある人物であることを考えると、彼の実際の活動時期が「孝徳紀」つまり「難波副都」時代であるのは明白と思われます。
 「死去」の記事、つまり「何歳なのか」あるいはそもそも「生きているのか」というような情報は国家にとって見れば非常に重要度の高いものであり、それが「君」という高位の人物であればなお、「行政」や「軍事」などについての根幹をなす情報でもありますから、それが「数年」の誤差をはるかに超えて「三十年」以上の差になるなどということは、はなはだ考えにくいものです。
 このことから「死亡時期」は「天智紀」とされている年次から大きくはずれるものではないという可能性が高く、その活動時期としてそれをやや遡る「難波副都」時期であるという可能性が高いと思料します。
 また「同姓同名」つまり「子供」に代を譲り同じ「王名」を名乗ったと言う事もあり得そうではあるものの、他にそのような例が見あたらず、例え親子であっても「王名」は異なるものであり、そのことから考えても「書紀」に出てくる「伊勢王」は全て同一人物であると思われます。
 
 彼らは東国(我姫)の各国に新たに「評制」を施行するために、先ず「評」が示す領域(境界)を確定する必要があったと言うことでしょう。この事はそれまでの「県」(「利歌彌多仏利」時代に確定されたもの)の領域と「評」の示す領域がある程度異なっていたという可能性を示唆します。
 「評」は軍事と密接に関係していた行政制度でしたから、そこから「兵」として「徴発」される人数と「隊」の構成に齟齬があってはならなかったと見られ、「一里五十戸制」をさらに徹底し、「余り」の戸数がでないように「里」の境界を再確定したものと推量します。(余りは「余戸」として別に独立させたもの)


 以上のように正木氏の挙げた例だけでもかなりのものがあるわけですが、いずれも明らかに「書紀」の記事に「年次移動」の可能性が高いことを示すものですが、それが「正木氏」のいうように「三十四年」なのかは微妙です。これが「九州年号」の紀年に合せたものというのは華なり高い証明能力を有するものとはいうものの、さらに検討を要するものであるといえるのではないでしょうか


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/01/25)

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