最も年次移動が疑われるのは「難波宮」造営についてです。なぜなら「書紀」には実際に「七世紀半ば」という時点で「難波京」が登場するからです。つまり、「書紀」上も「七世紀半ば」には「難波」に京域が作られていたらしいこと記されているわけですが、それにも関わらず「天武紀」に唐突に「副都」宣言が出されるわけです。
「天武八年」、「十一年」から「十四年」等々、「造都」・「遷都」を示す記事が続きます。これらの記事はいずれも「難波」に関するものですが、これらの記事は明らかに「遺跡」としての「前期難波宮」に整合するものであり、推定される建設の時系列に合致することとなります。
一連の記事は、天武八年から始まります。
・「天武八年(六七九年)十一月(略)是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。」
この記事と対応すると考えられるのが次の記事です。
「大化元年(六四五年)冬十二月の乙未の朔癸卯(九日)に、天皇都を難波長柄豊碕に遷す。」
ここでは、「関塞」を「難波」の周囲に設け、「難波」防衛線を構築し、「難波」には羅城(城壁)を廻らせて新都建設(予定)地としています。日付干支である「癸卯」は天武八年では十二月には無いため、代わりに「十一月(二十七日)」となっているとされます。
・「天武十一年(六八二年)三月甲午朔に、小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。(中略)己酉(十六日)、新城に幸す。」
これは「羅城」内の造都計画を立てたという記事です。これは新宮(宮殿)に遷る約四年前のことです。造都が行われたことは翌年の記事から見ても明らかです。
「天武十二年(六八三年)十二月甲寅朔(略)庚午(十七日)(略)又詔曰「凡都城・宮室非一處。必造兩・參。故先欲都難波。是以百寮者。各徃之、請家地。
これは「難波副都建設の宣言」です。これは従来云われているような「難波宮」の「修造」などを指す内容ではありません。そうでないことは「先入観なしに」「読めば」わかるはずです。
これは明確に、「難波」に「新た」に「副都」を造るから、そのための土地を工面するように、という指示(「詔」)であるわけです。
・「天武十三年(六八四年)二月癸丑朔(略)庚辰(二十八日)、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣はして、都つくるべき(應都)地を視占しめたまふ。
「三月癸未朔(略)。辛卯(九日)、天皇京師に巡行きたまひて、宮室之地を定めたまふ。」
これに対応する記事は次のものです。
「白雉元年(六五〇年」)「冬十月に、宮の地に入れむが為に、所丘墓を壊られたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差有り。即ち将作大匠荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標を立つ。」
見るとわかるように「天武紀」記事では「應都」の地を「視占しめたまふ」とされているのに対して、「孝徳紀」記事ではそこにあった「丘墓」を「破壊」「移動」したとされ、また「宮の地を定める」意義である「堺標を立てる」ということを行なっており、これらが強く関連しているのは当然であるとも言えるでしょう。
これらの記事を「難波朝」の改修工事というような理解は「詭弁」としか言いようがなく、それまで「難波」を「副都」とはせず、「宮殿」もなかったと言うことが明白であると思われます。これらの記事を見ていると「記事移動」が行われているのは確実と思われます。またその年数として「三十四年」という年数が「正木氏」より提示されているわけですが、確かに「三十四年」という年次がもっとも整合しているらしいことが読み取れますが、まだ決定的ではありません。
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/01/25)