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「漢皇子」と「阿曇比羅夫」の関係

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 「唐」「新羅」連合軍により「国王」以下が捕虜となって「唐」に連行される事態となった「百済」はその後「唐」の占領するところとなり、事実上「滅亡」することとなりました。
 しかし、「書紀」によれば「六六二年」になって「百済遺臣」である「鬼室福信」などの奏上がなされ、長く「倭国」に人質になっていた「百済王」の王子「豊璋」(扶余豊)を送り届け、王位を継がせるという事となった模様ですが、その際に「阿曇比羅夫」という人物が登場します。彼は「旧百済遺臣」や「扶余豊」などに対して、絶対的上位者として振る舞い、「豊璋」(扶余豊)や将軍「鬼室福信」なども彼の前にひれ伏し、「阿曇連比邏夫」も彼らの「背中をなでて」励ますなどの行為を「ごく当然」のように行なっています。
 しかし、このようなことが「一介」の将軍にできることでしょうか。
 この行為は「倭国王」ないしそれに次ぐような地位の人物でなければ不自然なのではないかと思われ、この部分では名前の書き換えが行なわれていると見た方がいいと思われます。ただし、それにしても、ここで「阿曇比羅夫」という名前が出るのはあながち理由がないわけではないと考えられます。

 「阿曇連比邏夫」は古代の「阿曇氏」の中でも著名なわけですが、実際には「阿曇氏」の系図の中には出現しないのです。この事実は「阿曇連比邏夫」という存在自体が「書紀」による「造作」である、という可能性を示唆します。
 そもそも「阿曇比羅夫」は「生年」が不詳であり、「舒明天皇」の死去した際(六四一年)、「百済」の弔使を伴って帰国したこととなっています。(ただし派遣された記録は残っていません)
 また、この時「百済」の王子「翹岐」を自分の家に迎えている等、「百済」に太いパイプがあったように書かれています。

 前述したように「皇極」(宝(寶)皇女)は「舒明」と結婚する前に「高向王」と結婚し、「漢皇子」を儲けたとされています。この「高向王」として比定されるべき人物として「蓋然性」が最も高いのは「我姫総領」の「高向某」であると考えられ、「漢皇子」はその時点の子供と考えられるでしょう。
 この「高向氏」の本拠とも言うべき場所は本来「筑紫」であったと考えられ(現在も「高向姓」は「筑紫」に多く見られます)そのことから、この「阿曇氏」とほぼ同じ領域が勢力圏であったと考えられるものであり、彼等が元々「類縁関係」にあったと考える事にはさほど無理がないと思われます。
 彼は「我姫」に長く滞在していた時に、妻である「寶女王」(中津王)が「兄」である「田村帝」(この人物は「書紀」の「厩戸皇子」に擬されていると見られる)に改めて嫁ぐこととなったため、残されたまだ幼い子供である「漢皇子」を「同族」ないしは類縁関係にあった「阿曇氏」に預けたのではないでしょうか。その「阿曇氏」は「寶女王」が幼い頃を過ごした「宗像氏」とも「友好関係があったと見られ、「高向」「寶」両者にとって安心して預けられる氏族であったものと見られます。そして、その「漢皇子」が成長したのが「阿曇比羅夫」ではないかと考えられるのです。

 ところで、「阿曇」族の祖先であり、祭神として祭られているのは「阿曇磯良」という人物です。この人物は「書紀」では「神功皇后」の説話中に現れ、船の舵取りをするのですが、海中から海草や貝などをくっつけて登場するなど、普通の人物ではないように記述されています。
 彼については「書紀」や「太平記」には「磯良」の登場する説明の中に「あとべ」の磯良、という名前も使用されていて、この名前は「阿曇比羅夫」と目される「漢皇子」の父親である「高向某」の先祖(たぶん父親)の名称である「阿多部」(あたべ)とほとんど同一です。つまり、阿曇族とは同族であったという可能性が強いと考えられ、このことから「漢皇子」が「阿曇氏」に預けられる理由となったと考えられます。

 また、「大海人」の壬生(乳部)と伝えられる「大海宿禰菖蒲」が「阿曇族」の一員として系譜に出てくるのも、「漢皇子」が「阿曇」に預けられていたときの子守役だったと考えれば、非常にわかりやすい話です。(彼は「天武」の葬儀の際に「壬生」についての「弔辞」を読んでいますが「天武」(薩耶麻)も「阿曇」に預けられていた時があったという可能性もあると思われます。そのことから「漢皇子」も「阿曇氏」を通じて「倭国王家」に仕えることとなったと推量され、そのことが「薩耶麻」の腹心の部下として活躍することとなる理由の一つではなかったかと推察されます。

 また「寶女王」の「寶」(宝)は「高良」を意味すると思われ(謡曲では今でも「高良」を「たから」と発音するようです)、そもそも「高良女王」であったと推察されるものです。
 彼女は「高良山」という伝統と格式のある場所が出身の地であると考えられ、しかも「高良山」は元々「物部」の勢力範囲であり、「物部守屋とご兄弟」とも考えられていたようですが、その「物部」が「新羅」に深い関係のある氏族であることもまた「著名」であり、この事は「寶女王」についても「親新羅系」の人物であることが推察される有力な明証となると思われます。そのことと「押坂彦人大兄」が「六世紀末」に失脚ないしは死去することとは関係しているのではないかと考えられ、彼も「守屋」に連座して死去か流罪となったかの処罰を受けたのではないでしょうか。

 それらを含んで考察すると、「寶女王」とは「利歌彌多仏利」の「双子」の「妹」にあたるものであり、(万葉集に「難波天皇の妹」という人物の歌が出てきますが、これが「寶女王」の歌であるという可能性があると思われます)、また「日本帝皇年代記」によれば共に「五九三年」の出生と推察され、そのことは「書紀」では「斉明」は「六六〇年」の死去時点で六十歳を超えていたとされていることと整合するものであったと思われます。

 彼女の子供である「漢皇子」は「阿曇族」の手で育てられたものであり、「九州倭国王朝」下の将軍としての地位を強固なものにしていったものと思われます。つまり「薩耶麻」と「阿曇比羅夫」は「叔父」−「甥」の関係であったと推量されます。
 そして、「阿曇比羅夫」は「薩耶麻」と共に「六六一年」(実は「六六〇年」)に行われた「百済を救う役」に参戦した際に「戦死」し、「薩耶麻」も「身柄を捕らえられる」という事態が発生したものです。
 「阿曇比羅夫」は長野県阿曇野市の穂高神社に「阿曇連比羅夫命」として今も祀られていますが、ここでは毎年「九月二十七日」に「お船祭り」が行われますが、これは「阿曇比羅夫」の命日であるとされ、「百済」で戦死したと伝えられているそうです。
 この「九月二十七日」というのは「何年」のことなのかと考えると、「薩耶麻」が「補囚」の身となった最初の戦いである「『百済』を救う役」とされる「六六〇年八月」以降の時点と考えられ、この直後のことであったのではないかと思料されます。
 この「伝承」は真実に近いかもしれません。「薩耶麻」も捕虜になるぐらいの激しい戦闘が行われた模様であり、「阿曇比羅夫」が戦死したとしても不思議ではありません。そのためかこの戦い以降は「書紀」には全くその名が見えなくなります。


(この項の作成日 2010/12/29、最終更新 2013/05/22)

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