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「熟田津」の歌について

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 万葉集に「額田王」の歌として「熟田津の歌」が書かれています。

(万葉八番歌)「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜/熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」

 この歌の解釈は古今、諸説が入り乱れていますが、これを「伊予」の「道後温泉」のある地とする従来の解釈に対して近年「九州島」の中にこれを求める考え方が提出されています。しかしいずれもこの「熟田津」を「発進地」として理解しているように見えます。しかしこの「熟田津」は「目的地」として書かれているのではないかと思われるのです。
 この歌の最大の問題は「熟田津尓」の「尓」(に)という助詞ではないでしょうか。この助詞の意味するところがこの問題を解く鍵ではないかと考えます。

 コラムでも触れたように、この「に」は色々意味がありますが、ここでは目的地や到着地(方向)を表すものとして使用されていると考えます。
 「船乗りせむ」という言葉からは、「陸」あるいは「浜」から「海」へという「方向」が内蔵あるいは暗示されていると思われ、これは「万葉集」に確認できる他の例からも「to」の意義で使用されていると思われます。
 この「熟田津」の歌に使用されている「に」とほぼ同義の「に」が万葉集の中にいくつか確認できます。

03/0323(山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首[并短歌])反歌
「百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久/ももしきの大宮人の熟田津『に』船乗りしけむ年の知らなく」

03/0327或娘子等<贈>L乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
「海若之 奥尓持行而 雖放 宇礼牟曽此之 将死還生/海神の沖『に』持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ」

03/0359(山部宿祢赤人歌六首)
「阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念/阿倍の島鵜の住む磯『に』寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ」

 上の例のうち「三二三番歌」は「熟田津」の歌を踏まえた「本歌取り」ですから、これは別としても、「三二七番歌」は「海人の沖まで」という意味であり、また「鵜の住む磯に向かって」という意であると思われ、いずれも「持ち行く」であるとか「寄する」というような方向性を内蔵した動詞が述語として選ばれています。
 つまりここでは「尓」は「方向」や「目的地」を表す意の助詞として使用されており、これは「熟田津尓」と同様の使用法と思われます。
 それに対し異なる用法の「に」も確認できます。

01/0040 幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌
「鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 D嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香/嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか」

 この「尓」は場所を示す「で」の意味であり、「at」の意と思われます。「熟田津」の歌についてもこれと同義であるというのが通常の理解のようです。つまり「熟田津尓」と「月待てば」が対応しているとみて、この「尓」をその「場所」を表す「で」の意味で理解しているわけです。しかし、月を待っているのは船出するためであり、どこから船出するのかと言えば(彼らの解釈では)「熟田津」しかないわけですから、この「尓」には「から」の意として使用されていると考えるのが正しいはずです。しかも他の例では「熟田津」の場合と違い「方向等」を内蔵した語が使用されていません。このようなものとは明らかに異なるものといえるでしょう。

 元々「に」という助詞は「方向」や「着点」を示すのがその本義と思われ、それ以外の意味はそこからの派生であると理解されています。それに対し従来の全ての説はこの「熟田津」を「出発地」として「から」の意で理解していることとなるわけであり、本義からはずれた解釈と言えるでしょう。
 「出発地」として歌うならば本来もっと適切な助詞があります。

02/0234 ((霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王<薨>時作歌一首[并短歌])或本歌曰)
「三笠山 野邊従遊久道 己伎<太>久母 荒尓計類鴨 久尓有名國/御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに」

03/0318 (山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌])反歌
「田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留/田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」

03/0366 角鹿津乗船時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]
「越海之 角鹿乃濱従 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎/越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真楫貫き下ろし 鯨魚取り 海道に出でて 喘きつつ 我が漕ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海女娘子 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見る験なみ 海神の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を」

 「出発地」(発進地)を示す助詞としては上の例にみるようにこの当時は「従」(ゆ)を使用していたと思われます。
 これらの例における「ゆ」という語には「従」という漢字が使用されており、これは「漢語」において「起点」「基点」を表す「語」であり、「より」「から」という方向性の意味を表す語として使用されています。
 「熟田津」の場合も出発地を表すなら「従」を使用するはずですが、そうはなっていないのですから、ここで使用されている「に」は「着点」などを示す「に」の本義としての用法と考えられることとなります。

 この時の「斉明」達の行動に関しては「書紀」に記事があります。

(六六一年)七年春正月丁酉朔壬寅。御船西征。始就于海路。

 この歌には「左注」が付いており、そこには以下のように書かれています。

「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁<酉>十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔<壬>寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」

 問題はこの「左注」の内容と歌とが全く合っていないことです。
 「昔のもの」というのが何かが不明であることや、それに対する「哀傷」というものとは全く異なるトーンでこの歌は作られています。この「熟田津」の歌が「哀傷」の歌ではないのはその内容や語調からも素人目にも明らかです。
 これは「百済」から援軍を請う使者が来て、それに対し「斉明」は「難波宮」から在筑紫の将軍達に対して「百道」(これは筑紫の地名)からの発進指令を出し、自分も押っつけ駆けつけるという形となったものであり、その際に読まれた歌と考えるのが正しいと思われます。
 つまり当初の出発地は「近畿」であると思われ、またこのような軍事船団の出発を言祝ぐために歌うなら、出発地である「近畿」で歌われたと考えるのが妥当と思われることとなります。
 「書紀」の記事の「御船西征。始就于海路」という言葉の調子と「船乗りせむと〜今は漕ぎ出でな」という言葉の調子は互いに響き合っていると言え、この段階で全軍に対しての士気を鼓舞する意味も込め船出する際に歌が詠まれたとする方がよほど首肯できるものです。

 また「書紀」によれば「御船還至于娜大津」、つまり「筑紫」の「那大津」に「還り至る」とあります。この「筑紫」に「還り至る」という表現については従来から解釈に苦しんでいたわけですが、素直に解すれば「斉明」の本拠が「筑紫」にあることを示す言葉であると思われ、当初の発進地が「那大津」であったことを如実に示すものといえるでしょう。
 そもそもここは当時も「主船司」があったと思われる地であり、又「大津城」があったと考えられる場所です。(※1)
 ここが出発地としてふさわしいのは言うまでもありません。それは筑紫」に「本宮」があったという「二中歴」の記述からも言えることです。
 この時「斉明」がその「筑紫本宮」から「近畿」に出向いていたのは「近畿」の「別宮」(これは「難波宮」かあるいは離宮としての「明日香岡本宮」かいずれかと思われるものの現段階では不明です)への「行幸」を行っていたものであり、それはまさに「湯治」のためであったという可能性が高いでしょう。

◇左注との食い違い
 このように「万葉集」の中には「に」が「方向」や「目的地」を表す助詞として使用されている例はいくらもあり、「熟田津尓」の「に」についても同様の解釈は可能であるわけですが、従来はそういう方向には傾かず、「に」を「内在的」には「from」の意味で使用しながら、体裁(外面)としては「at」の意味であると強弁しているのです。
 そこにはそうは言えない理由があるわけです。それは「左注」との齟齬です。
 「左注」には「山上憶良」の「類聚歌林」からの引用として「伊予石湯」に到着後の歌という意味のことが書かれており、従来の研究者達はこれを無条件に重視あるいはそれに依拠していて、その結果この「に」を「目的地」とすることが出来なくなったわけです。
 そもそも「左注」と「本文」(本歌)は本来別であり、「左注」に引きずられて解釈をねじ曲げるというのは本末転倒以外の何者でもありません。
 古田氏も主張されているように(※2)「左注」から「本文」を解放するべきであり、独立して研究の対象とすべきでしょう。
 
 ところで、上で考察したようにこの歌が「難波」から軍事行動を起こす際の歌であるとすると、行き先がなぜ「娜大津」ではないのか、なぜ「熟田津」なのかが問題となるでしょう。それはそこがこの海域の「潮流」の「潮目」であり、「西行」から「東行」へと変る場所であるため、「西行」してきた船団にとっては一旦小休止が必要であったものだからと考えられます。
 ここまでは「潮」の流れに沿ってくることが可能ですが、そこからは流れに逆らって運行する必要があり、この時点で漕ぎ手を増やして対応したと思われます。場合によってはここで船を乗り換えたという可能性もあるでしょう。
 ちなみに半島に向かった船団のほとんどは九州「吉野」からの発進と思われます。ここは干満の差も大きく、軍用の大型船であっても干潟に置いておけば満潮になれば自然に浮くわけであり、軍団の発進地としては最適であると思われます。(そこから一旦「筑紫」の「百道」に集合したもの)
 また船の建材として著名な「樟」は九州原産であり、九州島の中ではどこからと言っても良いほど産出されますが、「筑後川」の上流には「玖珠(くす)」という地名を持つ場所が存在するほどであり、この周辺は「樟」の自生する山林が豊富にあったことを示すものです。そこから切り出してそれを「筑後川」で下流に運びそこで船として加工するとした場合、軍事基地と見なされる「吉野」が非常に至近の地にあることも深く関係していると言うべきでしょう。
 それに対しこの時の「斉明」達はいわば「大本営」であり、彼女たちは「筑紫」へ行くだけであったと思われますから、それほどの大型船でもなくまた多数の船団を組んでいたわけではなかったとも思われます。
 さらに「難波津」から出航するに当たって「熟田津」が目標とされていたと思われることから、以前から「熟田津」は中継地としての機能があったと思われることとなるでしょう。
 たとえば「難波津」から船出した「六五九年」の遣唐使一行も「熟田津」で小休止したという可能性が考えられる事となります。
 その時の「伊吉博徳」の記録によれば以下のようになっています。

「…以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。…」

 この記事は巧妙に「難波」から「筑紫」までの所要日数を伏せていますが、少なくとも1ヶ月程度あるいはそれ以内の期間であったと思われ、「筑紫」で若干の小休止を含んでいるとすると、「斉明一行」の場合に比べ「博徳」達の行程は日数を要していないようではあるものの、それなりに時間がかかっている感があります。これはこの「熟田津」そのものが「中継地」としての機能を有していたものであり、ここで筑紫への航海の体制を整える意味があったものでしょう。

 この経路を「筑紫」から「伊予」へというように理解する向きもあるようですが、それは困難と思われます。理由はこの「熟田津」の歌が語調が良すぎるからです。これは明らかに「戦闘開始」に近いものであり、軍発進の号令としては首肯できますが、「石湯」へ行くためには大仰すぎるでしょう。
 また「熟田津」が「伊予」であるとした場合、「筑紫」から「伊予」へ一旦向かう理由が不明となります。「新羅」への軍出動を指示しながら、自らは後方へ移動していることとなり、これでは軍の指揮や連絡がスムーズに行くはずがありません。
 このことは「熟田津」が「筑紫」そして「新羅」へ向かう中継地点であったことを示していると思われ、進行方向のベクトルとしては同一であったことを示していると言えます。そう考えると、出発地点は近畿(難波)であると考えざるを得ません。

 ところでこの歌の中では「月を待つ」という行為が為されています。この意味についても従来諸説がありますが、もし潟や陸地に船があるとすると満潮にならなければ船出できないこととなるでしょう。
 地球は自転しており、月はその地球の周りを29.5日で自転しています。このことから、地球上の一地点に注目すると、一日一回は月にその地点が向くこととなり、月が地球の真裏に来るときと合わせて一日二回満潮があることとなります。(真裏の時も海水が反対側に持ち上げられて満潮となります。これを「潮汐の原理」と言います。)
 しかし、潮汐は月の引力だけではなく太陽の引力でも起きています。つまり、「太陽」と「月」の引力が重なると満潮の中でも最大の状態となり、これが「大潮」です。
 出航する船が大型であれば満潮の中でも「大潮」であることが必要となるでしょう。それは一月に二回しか来ませんから、タイミングが重要です。
 「大潮」は太陽と月が一直線になったときですから、新月か満月の時であり、新月の場合はそのタイミングがわかりにくいものですが、満月なら夜半過ぎに上ってきますから、それを見て判断できます。
 皆船に乗り込んで準備していて、潮が満ちたその瞬間を選べば、通常は大型の船が出入り出来ないような遠浅の港からでも容易に外洋に出られます。
 軍用船は遣唐使船に比べ装甲(「矢」などのための防御板)などが船体各所にあったと思われ、重量があった可能性があるでしょう。そうであれば通常より「喫水線」が高かった可能性があり、これを進水させようとすると水位を高く保つ必要があったかも知れず、それには「大潮」が必要であったとも考えられます。
 そう考えると「遣唐使船」の船出とはやや状況が異なっていると思われるのも首肯できます。
 ただし、難波(大阪湾)は「潮流」が遅くさらに干満の差も小さいため大型船と言うより中型船が出入りするのに適した港であったと思われます。その場合それほど干満の差が大きい必要性はなかったものと思われ、その意味でもこの歌が「難波津」で歌われたとすると整合すると思われます。
 「難波津」ではありませんが同じ近畿の「住吉」の岸に船が到着する際には「潮が満ちる」タイミングを利用していたらしいことが「謡曲」から窺えます。

 以下謡曲「岩船」からの「抜粋」です。

「…久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\『潮の満ちくる浪に乗つて』。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」

 ここでは「潮の満ちくる浪に乗」って、「住吉の岸」に到着したように書かれています。ここに出てくる「磐船」も「かなりの大型船」であると思われ、金銀財宝を満載しているという書き方からも喫水線はかなり高かったと思われますから、「満潮」を待って岸に着けたものでしょう。「熟田津」の歌ではちょうどこの逆を行おうとしたものではないでしょうか。


(※1)佐藤鉄太郎『実在した幻の城 ―大津城考―』中村学園研究紀要第二十六号一九九四年
(※2)古田武彦『新・古代学』第四集(一九九九年十一月)及び「失われた『万葉集』─黒塚と歌謡の史料批判─」(大阪市天満研修センター)一九九八年六月等


(この項の作成日 2014/09/03、最終更新 2014/11/29)


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