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コンブとワカメ

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 以下は「奈文研」木簡データベースから「軍布」という語をキーワードとして拾い上げたものです。

連番   本文 KWIC   型式番号   出典   遺跡名
0000001 海評中田里支止 軍布 ? 031 荷札集成-185(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
0000002 海評海里人小宮 軍布 ? 031 荷札集成-172(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
0000003 海評三家里人日下部赤 軍布 ? 031 荷札集成-182(飛20-27 藤原宮跡北面中門地区
0000004 次評新野里 軍布 ? 031 荷札集成-191(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
0000005 里上部← 軍布   039 飛22-21上(藤原宮1-21 藤原宮跡北面中門地区
0000006 知夫利郡由良里 軍布 → 039 木研5-85頁-(71)(奈良 藤原宮
0000007 知夫利評三田里石部真佐支 軍布 筥? 031 荷札集成-170(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
0000008 海評海里 軍布 廿斤 031 荷札集成-174(奈良県 藤原宮跡北辺地区
0000009 海評海里 軍布   031 荷札集成-175(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
0000010 海評三家里日下部日佐良 軍布 ? 031 荷札集成-183(奈良県 藤原宮跡北辺地区
0000011 次評鴨里鴨部止乃身 軍布   031 荷札集成-188(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
0000012 里人大伴部知真利尓支 軍布 廿斤 6033 奈良県藤原概報 藤原宮
0000013 評〈〉男田若 軍布 筥? 031 荷札集成-201(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
0000014 周吉郡〈〉 軍布 筥? 031 木研5-82頁-(20)(奈良 藤原宮
0000015 水江 軍布 十六斤 031 木研7-121頁-(22)(平 平城宮
0000016 海評佐々里阿田矢 軍布 ? 031 荷札集成-179(藤原宮2 藤原宮跡大極殿院地区
0000017   軍布 廿斤 031 藤原宮3-1214(飛5-12 藤原宮跡東面北門
0000018 次評部里 軍布 ? 031 藤原宮3-1178(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
0000019 海評前里 軍布 ? 031 藤原宮3-1177(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
0000020 布西里 軍布 ? 039 藤原宮3-1642(飛6-21 藤原宮跡東面大垣地区
0000021 隠伎国周吉郡上部里日下部礼師 軍布 六斤霊亀三年? 031 木研10-90頁-1(3)(城6 平城宮左京二坊坊間大路西側溝
0000022 海部郡前里阿曇部都祢? 軍布 廿斤 031 平城宮7-11311(木研24 平城宮内裏西南隅外郭
0000023 鮑六十具鯖四列都備五十具?須志毛十古?割 軍布 一古? 011 日本古代木簡選(大宰 大宰府跡(政庁地区正殿後方築地
0000024 隠伎国海部郡作伎郷大井里阿部呂麻御調 軍布 六斤天平九年? 031 木研5-11頁-1(16)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
0000025 隠伎国海郡佐吉郷阿曇部多 軍布 六斤 031 木研5-11頁-1(15)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
0000026 隠伎国智夫郡大井郷各田部小足 軍布 六斤? 031 木研5-11頁-1(17)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
0000027 隠伎国海部郡佐々里勝部乎坂? 軍布 六斤 031 城21-32下(354)(木研1 平城京左京三条二坊一・二・七・
0000028 依地郡奈具里 軍布 ? 039 木研15-23頁-1(1)(飛1 藤原宮内裏東接官衙跡
0000029 隠地郡村里三那部井奈 軍布 六斤 031 城27-20下(290) 平城京左京三条二坊一・二・七・
0000030 須二古心太二古 軍布 小二古荒 081 藤原宮3-1391(飛12-10 藤原宮跡東二坊大路・宮東面・東
0000031 隠伎国周吉郡奄可郷吉城里服部屎人 軍布 六斤養老四年 031 木研20-41頁-4(5)(城3 平城京右京三条一坊三坪 朱雀大
0000032   軍布 廿斤 039 飛鳥藤原京1-932(荷札 飛鳥池遺跡北地区
0000033   軍布   032 飛鳥藤原京1-229(飛14 飛鳥池遺跡北地区
0000034 次評上部五十戸巷宜部刀由弥 軍布 廿斤? 031 飛鳥藤原京1-196(荷札 飛鳥池遺跡北地区
0000035 依地評都麻五十戸 軍布 ? 031 飛鳥藤原京1-133(荷札 飛鳥池遺跡南地区
0000036 前 軍布   031 木研25-48頁-(60)(飛 飛鳥京跡苑池遺構
0000037 川内五十戸若 軍布   031 荷札集成-198(木研26- 石神遺跡
0000038 役道評村五十戸忍 軍布 廿斤 031 荷札集成-199(木研27- 石神遺跡
0000039   軍布   031 飛鳥藤原京1-228 飛鳥池遺跡北地区
0000040 和 軍布 十五斤 011 木研29-41頁-(26)(飛2 石神遺跡
0000041 交 軍布 嶋成百卅四連長寸六十九連布二准【「年魚二 011 観音寺1-58 観音寺遺跡

 以上の「軍布」がなんと発音するかについては、ヒントになりそうなものがいくつかあります。
例えば「連番0000023」は「太宰府政庁正殿後方築地」の基壇天場の下層土層から発見された木簡ですが、これは以下のようなものです。

(表)十月廿日竺志前贄駅□□留 多比二生鮑六十具/鯖四列キ備五十具
(裏)須志毛(十古)割軍布(一古)

 この中に出てくる「割軍布」は「わかめ」と読むのではないかと推測されます。「割る」は「分かつ」であり「軍布」は「め」と読むと考えられるからです。
「軍布」を「め」と読むことに関しては、以下の「歌」があります。

「然之海人者軍布苅塩焼無暇髪梳乃小櫛取毛不見久尓」(万葉二七八番歌)
「志可の海人は藻(め)刈り塩焼き暇(いとま)なみ髪梳(けづり)の小(を)櫛取りも見なくに」

 この歌は「万葉集」の「第三巻」にあり、この巻は「八世紀半ば」頃の時代のものとされています。
 つまり、ここでは「軍布」を「め」と呼称しているようです。
 しかし、「軍布」は「め」とは読めないのは明らかです。この「軍布」は「藻」のことであることが分かりますが、「藻」とは「海草一般」を指すものであり、その「代表」として「わかめ」が考えられていたと思われます。

また以下は「連番0000037」の石神遺跡から出土した木簡です。

□□〔川内ヵ〕五十戸若軍布
隠岐国隠地郡河内郷〈隠岐国隠地郡川内五十戸〉

これは明らかに「ワカメ」であると思われ、「軍布」で「め」と発音するらしいことが推定できます。

 また、「連番0000038」の「石神遺跡」からの木簡は「評制下」のものであり、また「五十戸制」ですから、「六九〇年以前」のものと推察されます。

「役道評村五十戸忍 軍布 廿斤」

 また「藤原宮」出土木簡の「連番0000012」について。

「里人大伴部知真利 尓支軍布 廿斤」

 ここで「尓支」(爾支)(「にき」)とは「若い」あるいは「近い」「少ない」などの意味があり、ここでいう「爾支軍布」とは「ワカメ」であると考えられます。
 「書紀」の「斉明紀」にある「伊吉博徳書」の中に「唐」の皇帝に「蝦夷」を連れて行った記録がありますが、その中に「天子問曰 蝦夷幾種 使人謹答 類有三種。遠者名都加留、次者粗蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。??、入貢本國之朝。」という部分があり、「体系」では「熟蝦夷」に「『にき』蝦夷」と読みが振られています。つまり「にき」とは「近い」という意味で使用されているわけであり、これと同様の意味であると思われます。

「連番0000040」の石神遺跡十八次調査出土木簡について。

「和軍布十五斤」

 これも同様「ワカメ」であると思われます。

 以上「軍布」が「め」と呼ばれ、それは「藻」の意味であり、その「藻」の代表が「わかめ」であるとされていたらしい事がわかると思われますが、そもそも「軍布」という字面は上でも述べたように「め」とは発音できないものであり、これは明らかに「アイヌ語」の「コンプ」の音写であると考えられ、これがまずかなり早い時期に日本語の中に取り入れられた事を示すものと考えられます。
 ここでは「軍」が「コン」「布」が「ブ」ないしは「プ」を示すと考えられますが、例えば「万葉集」の中で「クン」や「コン」に「軍」を充てた例が「皆無」であり、「軍」は「いくさ」としか読みが振られていません。その他現存している万葉仮名を記した史料中には「軍」は見あたらないのです。この事から「万葉仮名」が固定化し、一般化する以前の段階で「コンブ」は「軍布」と表記されるようになったと考えられ、「万葉仮名」の成立時期にほど近いことが想定されます。
 既に考察したように「万葉仮名」(文字)の成立は「五世紀終わり頃」つまり「仏教伝来」から「六−七〇年経過」した時点と考えられ、「武」から「磐井」にかけてのことと推察されます。
 そして、その時点以降「コンブ」に対して「軍布」と表記するようになっていたものと考えられ、この時点では「コンプ」と発音していたと考えられます。
 「コンブ」は基本的に北海道等の北方圏に分布、生育するものであり、そこに居住していた「アイヌ」による呼称が起源であると考えられ、当然そう考えると「東国」以東や以北にその言語環境が限られていたものと思料されます。
 「コンブ」を「軍布」と表記したのは、当然「アイヌ」側ではなく、「倭人」側であったと考えられ、「コンブ」という発音を耳で聞いて「軍布」という「漢字」に当てはめたわけです。(中国などで「外国語」を無理に「漢字」に当てはめているのを見ますが、よく似ていると思われます。)
 しかし、その後「軍布」という単語が広がるにつれ、それが「普通名詞」化していったものと思料されます。つまり「コンブ」の実体を見たことがない地域の人々については、「軍布」という「漢字」について、「海藻」一般を意味するというある種の「誤解」が生まれ、「海藻」の代表である「ワカメ」を表すのにもっぱら使用されると云うこととなったものと考えられます。
 それは「筑紫」などから「西国人」達が「東国」に移動した(武装植民)の際の出来事であると考えられ、彼らは「軍布」の実物を知らずに「藻」(海草)であると認識し、その「藻」の発音である「メ」をその「軍布」の実体に「充てた」という経緯と考えられます。
 このような推移があったと考えると、「軍布」を「め」と読むようになるのは「筑紫」の勢力が「東国」に進出した「五世紀」の「倭の五王」の頃ないしはその後の「六世紀後半」以降の時期が想定され、可能性がより高いのは「阿毎多利思北孤」「利歌彌多仏利」の改革に伴う時期である「六世紀終末」から「七世紀始め」にかけてのことと考えられます。
 この時点では「軍布」という字面と「ワカメ」という発音の乖離については余り問題にされていなかったと思われますが、「蝦夷」が服属し「調」として「コンブ」を持ってくるようになり、「コンブ」というものの実態を知った結果「軍布」が示す「ワカメ」とは異なることが理解され、そうなると「軍布」の示す字面は「ワカメ」ではなくかえって「昆布」に近い(当然ですが)ということが問題になった結果、「ワカメ」は「若布」と表記されることとなり、「コンブ」は「蝦夷側」の表記として「昆布」が使用されたこともあり、以後「昆布」と表記されるという経過が考えられます。

(また、このことは「隋書倭国伝」に出てくる「軍尼」という官職様のものの名称の「読み」についても示唆を与えるものです。この「隋書倭国伝」自体が「隋代」のことであり、また「編纂時期」は「初唐」の頃ですから、基本として発音は「漢音」であると考えられます。そうすると「こんじ」ないしは「くんじ」と発音するのがいちばん「近い」と考えられますが、それが正しいと考えられるのは「コンブ」が「軍布」と書かれている事からもいえると思われます。)


(この項の作成日 2012/07/10、最終更新 2012/10/14)


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