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「善光寺如来」と「請観音経」

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 既に見たように「善光寺文書」(『善光寺縁起集註』)には「厩戸勝鬘」という人物からの手紙が記されています。

         御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上

 この人物は「利歌彌多仏利」の「夫人」であり「皇后」であると考えられ、この「手紙」は彼女が書いた延命祈願文であると理解した訳ですが、彼女が特に「善光寺」に対してこのような「祈願文」を書いた理由は何なのか、彼女達「王権」にとって「善光寺」とは何者なのかということが問題となるでしょう。
 そのヒントとなることが「縁起」の中に書かれています。

「善光寺縁起」(高野山増福院旧蔵(高野山大学図書館蔵)『善光寺縁起』)による。

「…向彼方懺悔罪障、称念名号、当請彼仏菩薩、始女如是、国中人民病患悉可消滅云云。于時月蓋長者聴聞此教、帰私宅。歓喜無極、即向西方備香花燈明諸供具、頭面作礼唱四行伽陀。願救我苦厄大悲覆切普放浄光明滅除癡闇冥南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏令称十念、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。而阿弥陀仏説大神呪。消伏毒害陀羅尼破悪業障陀羅尼六字章句陀羅尼消滅重罪、観世音大勢至応同本師化身、促広長身量、現一尺五寸形体、二菩薩同結般若梵篋印、定恵掌中納真珠薬箱、侍立本師如来左右塗薬於楊柳之枝灑国中病人。然間如是御前耆婆カ良薬無効験、陰陽法身無冥助、忽為命終之処、蒙弥陀光触六根如元平覆、嘗観音勢至良薬身心安楽。相好具足其形殆超過古。…」
( 巻一14 丁裏− 15 丁表)

 これは「月蓋長者」とその「娘」の病気が「観世音菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」ですが、これについては「請観音経」という経典との関連が考えられています。
 既に先行研究がありますが、「疫病」や「疾病」などの苦しみを救うために、「請観音経」の読経や転写などが平安時代に行なわれていることが明らかになっています。
 たとえば、「長元三年五月二十三日太政官符( 国史大系『類聚符宣抄』巻三所収)」あるいは「嘉保元年(1094)11月23日− 12月15日,長治2年(1105)3月12日− 4月23日,8月6日、嘉承元年(1106) 2月17日から3日間。『中右記』『殿暦』等の該当日条(吉原,199 8)。」等にそれが書かれています。

 そして、この「請観音経」と「善光寺縁起」との間には深い関係があるとされているのです。(※)
 「請観音経」によれば「観世音菩薩」の「名号」を称え、「懺悔」すると「罪過」が「滅」せられるとされ、特に「病気の回復」が効果としてあるとされています。

「請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經」(大正大蔵経(No. 1043 難提譯 ) Vol. 20 による)
「…聞此呪時蕩除糞穢還得清淨。設有業障濁惡不善。稱觀世音菩薩誦持此呪。即破業障現前見佛。佛告阿難若有四部弟子。受持觀世音菩薩名。誦念消伏毒害陀羅尼。行此呪者身常無患心亦無病。設使大火從四面來焚燒己身。誦持此呪故龍王降雨即得解脱。設火焚身節節疼痛。一心稱觀世音菩薩名號。三誦此呪即得除愈。設復貴飢饉王難。惡獸盜賊迷於道路。牢獄繋閉?械枷鎖被五繋縛。入於大海黒風迴波。水色之山夜叉羅刹之難。毒藥刀劍臨當刑戮。過去業縁現造衆惡。以是因縁受一切苦極大怖畏。應當一心稱觀世音菩薩名號。并誦此呪一遍至七遍消伏毒害。惡業惡行不善惡聚。如火4焚薪永盡無餘。…」

 この「請観音経」は「六世紀代」に「半島」で信仰されていたものであり、その際の本尊としては「一光三尊形式」であったらしいことが知られています。
 たとえば、旧「高麗」の地域である韓国黄海道谷山郡花村面蓬山里から出土した「一光三尊像」があります。その背面には「銘文」があり、そこには「景四年在辛卯、比丘道口、共諸善知識那婁賎奴、阿王、阿据五人、共造無量寿像一躯、願亡師父母、生生心中常知遇弥勤、所願如是、願共生一処、見仏聞法」とありました。
 この「景四年辛卯」は「高句麗平原王十三年」である「五七一年」と考えられています。それは「〜景」という中国年号そのものが存在していないこと及びこの「辛卯」と干支が表す年次が「四年」に相当する中国年号もまた存在していないことから、「景四年」を「高句麗」の「逸年号の一部」を表すとみられる事からの判断であるようです。
 ここに「無量寿像」と書かれている事から「六世紀」の後半という段階では既に半島に「阿弥陀信仰」のあったことが確認できるとされます。(注)
 この「一光三尊」という形式は「善光寺」の本尊と同じ形式なのです。
 「善光寺」の本尊は「絶対秘仏」とされ、その詳細は不明であるわけですが、伝えられるところによると「阿弥陀如来像」であり、脇侍に「観世音菩薩」と「勢至菩薩」が控えているとされます。
 この「一光三尊形式」は「請観音経」と同じく「六世紀」代に主に「百済」で流行したものであり、それが「善光寺」に存在しているということは、「善光寺」及びその「縁起」の古さの証明でもあると思われ、その内容にはかなりの信憑性があることとなるでしょう。

 また「善光寺」の創建とその本尊についても「百済」との関係が強く考えられるところでもあります。その「創建」の伝承によれば「百済」から「如来」が渡ってきたものの「難波の堀江」に「物部守屋」により打ち捨てられていたとされ、それを「本田善光」という人物が拾い上げて「信濃」に持ち帰ったものとされています。

 現在の「善光寺」は「天台宗」と「浄土宗」の両方から「貫主」と「上人」を迎えて成り立つという特殊な運営体制となっていますが、これは「善光寺」が宗派が分かれる以前のものであるためとされ、「四天王寺」や「法隆寺」などと同様「無宗派」として運営されていることからのものです。さらにこの「浄土宗」の運営は「尼寺」としてのものであり、これも原初的な性格を表していると見ることもできるのではないでしょうか。つまり「善光寺」は本来「尼寺」として開基されたと見るべきであり、それは「倭国王権」の中で「女性」の役割が非常に大きかったことの表れとも思われます。それを証明するようにこの「善光寺」では「女人」も往生できるとされ「女人禁制」とはされていませんでした。「倭国王権」では「法華三部経」が教義として重要視されていたものであり、「王権」内外の「女性」達を無視しては何も進められなかったものと思われます。そのような事を背景として「女人往生」が「善光寺」においても説かれていたものではないでしょうか。


※倉田(1991)、吉原(1998)、小林(1996,98,99,2000)等)


(この項の作成日 2014/02/02、最終更新 2014/02/02)


 

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