「古代官道」はその「規格」、その「延長距離」など、どこを取ってみても高度に集権的な構造物といえるものですが、そのようなものを造る事や、これを企図して実現させる事が出来るのは、当然「統一権力者」的人物と想定しなければならず、その意味でも「倭の五王」の時代の各王、特に「武」及び、「阿毎多利思北孤」以降の各「倭国王」がそれに該当すると考えられるものです。
一部にはこの「官道」が「天武」により作られたと言う事を考える向きもあるようですが、「書紀」の記載からは「壬申の乱」の時にこの「官道」が既に存在していると推察されるものであり、そうであれば「天武」が造らせたものでないことは明白と思われます。
「(天武)元年(六七二年)六月辛酉朔丙戌条」「旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神。是時。益人益到之奏曰。所置關者非山部王。石川王。是大津皇子也。便随益人參來矣。大分君惠尺。難波吉士三綱。駒田勝忍人。山邊君安摩呂。小墾田猪手。泥部胝枳。大分君稚臣。根連金身。漆部友背之輩從之。天皇大喜。將及郡家。男依乘騨來奏曰。發美濃師三千人得塞不破道。於是天皇美雄依之務。既到郡家。先遣高市皇子於不破。令監軍事。遣山背部小田。安斗連阿加布。發東海軍。又遣稚櫻部臣五百瀬。土師連馬手。發東山軍。」
ここでは「東山道」「東海道」を経由した人員の移動を行う事を想定していると考えられ、「不破」で「道」を塞げと指示しています。この「道」は「東海道」と「東山道」の分岐点付近であり、ここを止めることで「東国」からの援軍を阻止しようとしていると考えられます。この事は「東海道」や「東山道」が大量・高速に人員と物資が移動可能であったことを暗に示していると考えられ、これら「官道」がこの時点で既に「高規格道路」であったことを示唆するものです。
「東海道」や「東山道」から「徴発」された「兵士」が「招集」されたことも書かれていますが、それもこのような整備された「高規格道路」があったからこそであると考えられるものです。
更に「倭京」の「留守官」とされる「高坂王」に「駅鈴」を要求しています。この「駅鈴」も、「官道」を移動する際に各「駅」に繋がれている「馬」の使用に関するものであり、これが存在していると言うことは「駅路」(官道)が既に実用されていたことを示すものです。
このように「官道」は「壬申の乱」以前から存在していたと考えるべき事を意味するものですから、「天武」の手になるものでないのは明白です。
では「天智」が造ったのかというとそれもまた違うと思われるものです。それは「天智」の「治世期間」がこれらを構築するには「期間」が短すぎると考えられるからです。このような大規模な構造物が数年で構築できるようなものではないものは明らかであり、完成が彼の時代であったとしても、それが創建されたのはかなり遡上する時代のこととなるでしょう。
また(後述するように)、彼は「百済を救う役」に出征した「倭国王」の隙を狙って「革命」(クーデター)を起こしたものであり、その際の戦いにも「官道」が利用されているものと思料されますから、既にその時点(六六〇年時点)で使用可能な状態となっていたと思われます。このことは完成はそれ以前を想定すべきことを意味するものです。
そもそも「百済」をめぐる戦いで多大な人員と経費を投入し、しかもそれを相当程度失ったわけですから彼の時代にこのような「大規模」なものを構築することができるような人的、経済的余裕などなかったと考えるが妥当ではないでしょうか。
ではそれ以前のいつかということですが、「奈良盆地」地域で最初に作られた「古代官道」がいわゆる「太子道」と呼ばれる「斜め通り」であることが判明しています。この道は、それ以前に存在した「非直線道路」(自然発生的なものも含め)の中に現れた「初めて」の「直線道路」であり、この「道路」の敷設された時期の「王権」はそれ以前とはその「質」が異なることが分かります。それは「太子道」という名称にも現れており、「聖徳太子」と関連づけて考えられているという事に中に半ば回答が隠されているといえます。つまり「阿毎多利思北孤」ないしは彼の「太子」である「利歌彌多仏利」の時代に整備された「直線道路」なのではないでしょうか。
この「太子道」はその後の「東西南北」に敷設された「正方位道路」により寸断されることとなっていることから、「奈良盆地」に「方格地割」が敷設されることとなった時点以前のものであることが推定され、そのような「方格地割」が「奈良盆地」に造られるのは「藤原京」時代の事と考えるのは時期的に遅過ぎるといえるでしょう。なぜなら「書紀」の「壬申の乱」には「上ツ道」などが舞台として登場しますから、そのことと時期的に齟齬してしまいます。
これについては、近年の調査により「前期難波宮」の周辺など「上町台地」から「河内平野」にはかなり以前から「条坊制」が施行されていた形跡が確認され、そうであれば「太子道」の寸断時期と「壬申の乱」などとの「齟齬」が解消することを示します。つまり、「藤原宮」を遥かに遡上する段階で「難波宮」の条坊などと同一規格で「直交道路」が造られたものであり、「太子道」などがそれにより「上書き」されるという事態となったらしいことが推察されるわけです。
この「難波大道」は「官道」として最初に手がけられたものであり、それに引き続き「山陽道」及び「丹比道」「大津道」などが造られたものと推量します。それ以外の「道路」は「阿毎多利思北孤」以降の産物と考えられます。特に彼の時代に路線強化が成されたものとみられ、それは「官道」が統治強化に結びつく具体的施策を実施したことと関係していると考えられます。
彼は「遣隋使」を派遣し、「隋」の各種制度と技術を積極的に導入していますが、そのような中に「道路」に関するものもあったものと思われるのです。
「隋」には当時すでに各地に「高規格道路」が造られており、「宮殿」前には「幅」が百メートルもあるような広い道路が存在していました。「遣隋使」はこれらを目の当たりにしたものであり、帰国した際にはそれを子細に報告したと考えられます。
(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2014/08/14)