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「兄弟統治」について

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 「書紀」で「皇祖大兄」という表記がされている「押坂彦人大兄皇子」について、「隋書倭国伝」に「倭国王」として出てくる「阿毎多利思北孤」と重なる人物であると推定したわけですが、その「阿毎多利思北孤」の最初の遣使(「六〇〇年」)では「天を以て兄とし日を以て弟とする」と語られており、これを「隋皇帝」(高祖文帝)から「無義理」とされ「訓令」により改めさせられたとされます。(下記記事)

「隋書倭国伝」「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩■彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是訓令改之。…」

 これは従来「兄弟統治」を表すと理解されています。確かにこれを単なる「観念的」なものと受け取るには、「天」と「日」、「兄」と「弟」というように「対称型」で語られ、「阿毎多利思北孤」単独で「統治」しているというようには受け取れない論理性を有しているようです。
 またすでに述べたように、この時点で「強い権力」が行使されるようになり、非常に多岐に亘る改革が行なわれたと推定される訳ですが、そのようなものが「一人」の改革者により行なわれたとは考えにくいと思われます。
 有力なブレーンを複数抱えなければこのような改革はおぼつかない訳であり、信頼に足る人物が傍で支えていたという可能医が高いでしょう。というより「共同」で事に当たっていたという可能性を考えてみるべきであり、「弟王」がいたという想定はあながち無理なことではありません。それが「夜明け前」と「日の出後」という「時間差」で分担しているというのが「リアル」な話かどうかは不明ですが、「双頭体制」ともいうべき権力構成であったと推定できるものであることは確かです。
 ここでいう「兄弟」のうち「兄」については既に「皇祖大兄」と尊称される「押坂彦人大兄」であると考えたわけですが、このように「兄」当たる人物が「書紀」の中に表されているとすると、「弟」に当たる人物も同様に「書紀」の中にいる可能性が高いと思われます。それを「書紀」の中に探してみることとします。

 この「弟」が実際の兄弟であるとすると「阿毎多利思北孤」の投影ともいうべき「押坂彦人大兄皇子」の兄弟の中に候補を捜すこととなりますが、その場合「同母兄弟」はいませんが、「異母兄弟」であれば「三人」存在しています。それは「難波皇子」「春日皇子」「大派皇子」の三名です。このうち最も年長と思われるのが「難波皇子」です。
 この「難波皇子」は「書紀」にほとんど「動静」や「事績」が書かれていません。(それは「兄」である「押坂彦人大兄皇子」も同様ですが)
 その「経歴」等については彼ら兄弟については全く情報が欠落しています。ところが、このようにいわば「存在の希薄」な彼らですが、それと反するように見えるのが彼らの子供達です。
 「押坂彦人大兄」の場合は「舒明」でありまた「皇極」です。彼らは何と言っても「天皇位」についています。しかもその後の「新日本国王権」につながるような各天皇の「祖」ともいえる位置にあります。
 また「弟」である「難波皇子」(難波王)にはその子供達として「栗隈王」「石川王」「高坂王」「稚狭王」「大宅王」がいるとされます。(「古代氏族系譜集成」などによる)
 彼等は各々かなり高位の存在として扱われていたことが「書紀」から窺えます。
 例えば「栗隈王」は「筑紫大宰」という地位にありました。その彼は「壬申の乱」の際に「近江朝廷」からの「援軍」要請を拒否しています。このとき「彼」は「筑紫の城」は「外敵」に対するものであって内乱には与しない」ととしていますから、この「大宰」時点で既に「軍事」に関する権能を有していたこととなるでしょう。また後に「兵政官長」をも兼務しています。この「兵政官長」は後の「兵部卿」に相当する役職であり、国内全体の「軍事部門」のトップとも言うべき存在です。

「(天武)四年(六七五年)二月是月条」「新羅遣王子忠元。大監級?金比蘇。大監奈末金天冲。弟監大麻朴武麻。弟監大舎金洛水等。進調。其送使奈末金風那。奈末金孝福。送王子忠元於筑紫。」

「(天武)五年(六七五年)三月庚申(十六日)諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。」

 「栗隈王」はこの人事時点で既に「筑紫」における民生部門のトップと軍事部門のトップを兼ねていたわけですが、さらにここで「兵政官長」という国内全体の軍事部門のトップを兼ねるという相当強い権力を保有することとなったものです。彼やその補佐である「大伴御行」などと協議を行ったのは、「新羅王子」である「忠元」と彼が引率してきた「大監」等軍事部門の責任者であったと見られ、ここで両国軍事トップによる本格的な「対唐戦略」を含めた打ち合わせが行われたものと考えられます。
 このことから、「栗隈王」と「忠元」とは同等の立場で会談に臨んでいたことが推定され、「忠元」が「新羅王」の「皇子」であり、また「新羅王」の代理であるわけですから、それに対応する「倭国側」も同様の布陣であったと考えると、この「栗隈王」が「倭国王」の代理であり、また「王子」(皇子)の位に相当する可能性が考えられることとなります。(でなければ「非礼」にさえ当たるものと思われます)

 また、「石川王」については「吉備惣領」であったという記事や「吉備大宰」であったという記事があります。

(「備前国風土記揖保郡」の条。)「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」

(天武紀)「天武八年(六七九年)己丑条」「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

 つまり「難波王」の子供達のうち(少なくとも)二人までが「大宰」となっているのです。

 また「高坂王」は「壬申の乱」の描写中で「倭京」の「留守司」とされています。

「六月辛酉朔…
甲申。將入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇從之。思欲返召男依等。即遣大分君惠尺。黄書造大伴。逢臣志摩于『留守司高坂王』。而令乞騨鈴。因以謂惠尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。惠尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子逢於伊勢。既而惠尺等至『留守司』。擧東宮之命乞騨鈴於『高坂王』。然不聽矣。」

「己丑。天皇往和■。命高市皇子號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先秦造熊令犢鼻。而乘馬馳之。俾唱於寺西營中曰。高市皇子自不破至。軍衆多從。爰『留守司高坂王』及興兵使者穗積臣百足等。據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫運兵於近江。時營中軍衆聞熊叺聲悉散走。仍大伴連吹負率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和。軍士亦從乃擧高市皇子之命喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下。有人曰。下馬也。時百足下馬遲之。便取其襟以引墮。射中一箭。因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝。物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚『高坂王。稚狹王』而令從軍焉。」

 上に見たように「高坂王」は「留守司」とされているわけですが、通常「留守司」とは「天子」が行幸している間「京師」に残る、文字通り「留守」を預かる職掌です。しかも後の例から見ると、多くの場合「兵部卿」など「軍事関係」の重要人物がその任に当たっています。(危機管理という観点で考えると、当然とも言えますが)
 彼の場合も「駅鈴」を管理しているわけであり、このことは「官道」の管理を行っていたと推測され、その「官道」が後の「養老令」では「兵部省」の管轄下にあったことから「軍用」であったものと推定されますから、それを考えると、彼は「軍事」部門の高位にあったという可能性が高いと思われます。また、これについては後の「養老令」においても「留守官」には「駅鈴」がいつもより臨時に多く支給されるとしていますから、「留守官」はそもそも「兵部省」と深い関係にあったことが判ります。

「公式令 車駕巡幸条 凡車駕巡幸。京師留守官。給鈴契多少臨時量給。」

 上に見たように「栗隈王」は、「近江朝」から(「吉備」へと同様)の「援軍」要請を拒絶しており、これは彼の協力がなければ「反乱」を制することはできないことの裏返しとも言えます。つまり、「栗隈王」が(留守司である「高坂王」も含め)「倭国王権」全体の軍事的方向性を決めていたと言っても過言ではないと言えるでしょう。
 また、それについては「近江朝廷」としては制御できていなかったことを示します。それは彼等「栗隈王」等「難波皇子」の子供達の専管事項であり、「近江朝廷」側には何も指示・命令する権限がなかったことを示すものです。

 また、この時「栗隈王」の身辺は彼の子息である二人の「王」が守護していました。(「三野王」(美奴王)と「武家王」)彼らについては詳細は書かれていないものの、既にこの段階で「成年」に達していたという可能性が高いと思料されます。(でなければ「護衛」の役は難しいでしょう)つまり、この時点で彼には成年に達するような子供が二人いることとなります。
 「栗隈王」が「筑紫」へ「近畿」から「派遣」されている人間であるとすると、彼の周囲に「成人」に達するような子供が一緒にいるというのは不思議ではないでしょうか。
 例えば後の「大伴旅人」は「筑紫大宰率」として赴任する際に、子供である「家持」と「書持」を「妻」である「大伴郎女」と共に「筑紫」へ同行していますが、それは子供がまだ幼かったからという事情があったというべきでしょう。しかし、彼ら「成人男子」の場合は別行動が基本ではないでしょうか。彼等は既に「冠位」を持っていたという可能性もあり、その場合は「父」と連動して「筑紫」へ派遣されたこととなりますが、それもまた他に例がなく、考えられないと思われます。
 つまり、この時の情景から考えて、彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、彼の「本拠地」ともいうべき場所は実は「筑紫」であったと考えられるものです。

 また、「難波王」の子供の一人である「稚狭王」は「留守司」である「高坂王」と行動を共にしており、「高坂王」と共に「大海人軍」に帰順しています。
 この部分の描写は「微妙」であり、「大海人」側は「高坂王」には「駅鈴」を「乞」とされており、「敬意」を以て臨んでいるようです。これを「高坂王」は拒否している訳ですが、断られても、これに対し攻撃を加える風ではありません。それに対し「近江側」は「栗隈王」に対する使者に、「栗隈王」が「援軍」に対して断るようなら「殺す」ように指示しています。(吉備の「当麻臣広島」に対しても同様の指示を出しています)
 これらのことから「倭京」の「高坂王」や「筑紫」の「栗隈王」は、少なくとも元々「近江方」ではなかったということがわかります。というより、彼らも含めて各地に配置されているポストに就いている人物達については、その任命権者が「近江朝廷」つまり「大友皇子」あるいは「天智」ではないこととなるでしょう。そのような彼等が「近江朝」から「敵」と明確に断定されず、重要なポストに就いていたということは、彼らが「利用」するに値する人物であり、兄弟であったと言うこととなるでしょう。

 「近江朝廷」側は、彼等のようなある種「高貴」であり、また「権威」と「権力」を有している勢力を傘下に入れることで、他の勢力に対する「牽制」ともなると考えたものでしょう。当然、彼等を「正面切って「敵」とはしたくなかったものと考えられます。
 逆に言うと、「大海人」側からはそもそも「敵」とは見なされていないこととなり、また「栗隈王」達も「大海人」という人物を「敵」とは認識していなかったという可能性があるでしょう。そのことから、彼らないし彼等の「父」である「難波王」と「大海人」という人物が「近しい」関係にあったことが想定されます。
 
 また、「大宅王」については情報がなく消息不明ですが、その死去記事において「薨」という用語が使用されていますから、(下記の記事)「三位」以上の高位にあったことが推定できます。

「天武八年(六七九年)己酉朔癸酉条」「大宅王薨。」

 ここでは「冠位」は書かれていないものの、「三位以上」でなければ使用されない「薨」の字が使用されていますから、(四位以下は「卒」で表記される)かなり有力な人物であったことが推定できます。
 ところで、「書紀」ではこの「薨」と「卒」の使い分けはかなり厳重に為されているように見えますが、唯一の例外が「栗隈王」であり、「書紀」では「四位」とされているのも関わらず「卒」ではなく「薨」の字で表記されています。これは「四位」という「官位」表記が「虚偽」であることを推定させるものであり、もっと高位の人物であったことを推定させるものです。

「天武五年(六七六年)六月。四位栗隈王得病薨。」

 これらのことから、少なくとも「難波王」の皇子達はいずれも「軍事関係」の「要職」に就いていたこととなり、「軍事・警察」に力を持つ一大勢力を形成していたこととなるでしょう。
 しかし、この時代は能力主義ではなく血縁が非常に重視された時代であったと思われます。しかしそうであれば、彼等の父とされる「難波皇子」という人物については、特に何か「書紀」内で特記すべき事績などが書かれておらず、重視されている形跡が見あたらないことと矛盾するといえます。
 「物部守屋」を滅ぼした「丁未の戦い」の中にその名が出てくる以外は全く記録に残っていないような人物の子達が、多くこのように高位にいると言うことははなはだ理解しづらいことであり、不思議というより「不審」であるといえるでしょう。

 彼らの主要な勢力である「軍事・警察」という力が彼らの「父」から継承したものと考えると、「難波皇子」の「兄」である「押坂彦人大兄」の持っていた勢力と重なることが推測できます。つまり「栗隈王」達の権威の源泉は「難波皇子」とその兄である「押坂彦人大兄」につながるものであると考えられ、このことから、この「難波皇子」が「兄弟統治」における「弟王」を指すものであり、この時点では「日の出以降」という時間帯を制していたのは「弟王」ですから、彼が「実質的」な「倭国王」である(と考えられていた)可能性があると思われます。

 ところで、「難波皇子」の子供が「栗隈王達」であるとすると、「年齢」に矛盾があることに気づきます。「難波皇子」は「守屋討伐」に参加していますから少なくとも当時「聖徳太子」と同じ程度(十五−六歳)にはなっていたと考えられます。しかし、それでは「難波王」の「子供達」とされる「栗隈王」や「石川王」の死去した年次についての「書紀」の記録などと整合しないようであり、これは何らかの錯誤が「書紀」にあるとされています。
 確かに「難波皇子」が「五八七年」という時点で死去していたとして、この時点で既に「栗隈王」達が全員生まれていたとすると、「書紀」に書かれた年代には九十歳になるほどの長寿になることとなってしまいますが、にも関わらず「大宰」や「留守司」という現役の官人として活躍していることとなって矛盾するのは明らかです。
 それについては「公卿補任」や「尊卑分脈」では「大俣王」という人物が「難波皇子」の子供におり、彼の子供達が「栗隈王」達であるとされています。しかしこの両記録とも相当後代のものであり、その真偽(正確性)にはやや問題があるとされます。たとえば「公卿補任」では「天平十年条」の「橘宿祢諸兄」のところには以下のように書かれています。

「天平十年条 右大臣 正三位 橘宿祢諸兄 正月十三日任。叙正三位。元大納言従三位。年五十五。敏達天皇之子難波親王〔男〕大俣王男贈従二位栗隈王男治部卿兼摂津大夫従四位下美努王一男。母縣犬養東人之孫。大夫人贈正一位三千代刀自(光明皇后兄弟也)。天平十年叙正三位。任右大臣。元大納言従三位。」

 この中の〔男〕というのは後代の補注であり、本来はなかった字ではないかと思われます。それを含んでこの記録を読むと、この「大俣王」は「難波親王」の子供(男)であるとは断定的には言えないと思われます。
 また「尊卑分脈」にも「大保(俣)王」なる人物が書かれていますが、「贈正二位」と書かれているものの「官職」などが書かれていません。それはその次の「栗隈王」についても「在職官位」などが書かれておらず、また「贈従一位」という表記があり、それは上の「公卿補任」の記事とも異なっている事が注意されます。また「美奴王」が「美好王」となっているなどその記述について信憑性にやや疑いを持たざるを得ない部分があるのが事実です。つまり、この「大俣王」は「難波皇子」の弟である「大派王」が誤伝したという可能性もあると思われます。(「大派王」を「大俣王」と書いた資料もあるようです)
 この点については既に「古事記」において「混乱」が見られ、「敏達」の子供として「春日中若子之女老女子郎女」との間に「難波王 次桑田王 次春日王 次大股王【四柱】」と言うように「大股王」がいるとしながら(「書紀」によればこれは男性)、「日子人太子」の妃に「漢王之妹 大股王」がいるとされています。(これは当然女性)
 全く同時代に同名の人物がいると言うこと自体が疑わしいものであり、しかも「男女」の別も不明となるとかなりの混線と思われ、資料として信頼を置きにくいと言うことはいえるでしょう。
 これらの点については「書紀」などの資料の成立時点で、すでに年代に「矛盾」があることが既知となっていたことを示すと考えられ、この点については「書紀」の記述に合理性を与えるため後代資料において「修正」が施されているのではないかと考えられます。
 しかし『古代氏族系譜集成』などには、この「大俣王」なる人物は出てきません。「難波皇子」から直接「栗隈王」達につながる形となっています。
 つまり、ここでは「書紀」の記事に何らかの「改定」が行われている可能性が強いと考えられますが、「大俣王」という人物を挟むと整合するということは、「一世代」分どちらかの時代(年次)がずれている(移動されている)という可能性を示唆します。
 しかし、「難波皇子」が「押坂彦人大兄」の弟であることを疑わせる史料は存在しません。そう考えると、実際には「栗隈王」の時代が上ると理解すべきではないかと考えられます。
 つまり「栗隈王」達兄弟の時代が一世代つまり三十年程度遡上すると考えると年齢の問題はクリアできることとなるわけですが、当然それは別のしかも重大な問題を引き起こします。つまり「壬申の乱」の実際の年次についてです。 
 このあたりの詳細は現時点では不明であり、なお研究が必要ではあるものの、「六世紀末」には「押坂彦人大兄王」と「難波王」という「兄弟」により、それ以前とは「権威」「権力」の次元が異なる「強力」な政権が造られたものと推定できるでしょう。
 彼らは強力な「刑事」「警察」等の治安維持機能を保有し、その「力」によりこの「倭国」を「直接」統治していたものです。(それはこの時「部民」から解放された下層の人々の強い支持を受けていたと考えられます)
 そのような「力」を「倭国」の隅々まで行き渡らせるために「郡県制」という階層的行政制度を施行し、各々の「郡」「県」には中央から「官」(国宰)を任命・派遣するなどの施策を実行していたものです。
 さらに、広く「隋制」を採用し、「戸籍」「暦」「班田制」を導入すると共に、「屯倉」「屯田」など以前からの制度を拡充・拡大するなど多くの「地方」統治及び収奪の制度等の整備が行われたものと思料され、それまでの「倭国」とは全く異なる状況が作り出されたと考えられます


(この項の作成日 2013/06/07、最終更新 2013/11/19)

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