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「安閑紀」と「宣化紀」の屯倉記事

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 「書紀」によれば「屯倉」は「倭の五王」のころと考えられる時期より各地に設置され始めます。
 近畿にも「屯倉」の設置が相次ぎます。これは当然、各地の稲などをはじめとした「貢納品」の貯蔵所として機能したと思われ、「倭の五王」に代表される「倭国王権」による地方支配、地方収奪の道具としての存在と考えられます。これは「墓制」と同様、強力な服属関係を表すものと思われます。
 そして「書紀」では「磐井の乱」の直後西日本に急激に「屯倉」設置記事が多くなり、「五三六年」には、各地の屯倉から「筑紫」の「那の大津」へ「米」を運ぶよう「詔勅」が出ます。理由は「飢餓対策」ですが、なぜそのために「近畿」や「尾張」の屯倉から「筑紫」へ運ぶのか従来は全く説明できていません。しかもその詔勅の中では「以前からずーっと」そうやってきた、と書かれていますが、そのような詔勅は「書紀」の中には全くなく、「以前から」というのは欺瞞であるのは明確です。

 「安閑紀」の屯倉設置記事と「宣化紀」の、各地の屯倉から「筑紫」へ「穀」を運ぶよう詔勅を出したという記事は下記のものです。

 「安閑紀」の記事(五三五年)
 この記事は「屯倉」の大量設置記事です。

「五月丙午朔甲寅置「筑紫穂波屯倉、鎌屯倉」「豊国[月勝-力+天]碕屯倉、桑原屯倉、肝等屯倉取音読、大抜屯倉、我鹿屯倉我鹿此云阿柯」「火国春日部屯倉」「播磨国越部屯倉、牛鹿屯倉」「備後国後城屯倉、多禰屯倉、来履屯倉、葉稚屯倉、河音屯倉」「婀娜国胆殖屯倉、胆年部屯倉」「阿波国春日部屯倉」「紀国経湍屯倉経湍此云俯世、河辺屯倉」「丹波国蘇斯岐屯倉皆取音」「近江国葦浦屯倉」「尾張国間敷屯倉、入鹿屯倉」「上毛野国緑野屯倉」「駿河国稚贄屯倉」

 「宣化紀」の記事(五三六年)
 この記事は各地の屯倉から「筑紫」に「穀」を運ぶよう詔勅を出したという記事です。

「夏五月辛丑朔条」「詔曰、食者天下之本也。黄金万貫不可療飢、白玉千箱何能救冷。夫筑紫国者遐邇之所朝届去来之所関門。是以海表之国候海水以来賓望天雲而奉貢。自胎中之帝泪于朕身収蔵穀稼蓄積儲糧遥設凶年。厚饗良客安国之方更無過此故「朕遣阿蘇仍君未詳也加運河内国茨田郡屯倉之穀」「蘇我大臣稲目宿禰宜遣尾張連運尾張国屯倉之穀」「物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀」「阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」修造官家那津之口又其筑紫肥豊三国屯倉散在県隔運輸遥阻儻如須要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永為民命早下郡県令知朕心」

 この詔勅の中では、実際に「穀」を運んでいるのはそこを直接支配している豪族です。「尾張連運尾張国屯倉之穀」であり、「新家連運新家屯倉之穀」であり、「伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」です。すると「朕」が指名した「阿蘇の君」の直接支配領域が指定されていて然るべきですが、そこが「河内国茨田郡屯倉之穀」となっています。支配関係が成立していません。
 「阿蘇の君」は「未詳なり」と書かれていますが、明らかに「阿蘇の国」を支配している豪族であり、「河内の国」ではありません。(そもそも「天皇」に直結するような豪族について「未詳」というのも「不審」を助長するものです)
 原資料ではもっと多くの国から筑紫に「穀」を運ばせたと考えられます。なぜなら、この時点で「屯倉」は全国各地にあったはずだからです。そして確かに「河内の国」からも「屯倉の穀」を筑紫に運んだのでしょう。そしてそれは「近畿王権」の王(「河内の君」と呼ばれたものかと思われます)が行ったことと思われます。
 そして「朕」が運ばせたのが「阿蘇の君」だったのですから、「阿蘇の君」は彼の支配領域である「阿蘇」を含む「肥後」の国から「穀」を「筑紫」に運んだのだと思われます。「肥後」にある屯倉というのは、該当するのは「火国春日部屯倉」だと思われます。
 「朕」(倭国王)は彼(阿蘇の君)を使役して「穀」を筑紫に運んでいるのです。なぜ「朕」が「阿蘇の君」を使役するのでしょうか。それは「阿蘇の君」が「朕」に直結する人物(豪族)だったからと考えるのが普通というものです。すると「朕」はどこにいたのか、ということが問題になります。
 当然「阿蘇の君」と関係が密接な場所なのでしょう。一番可能性が高いのは「火の国」にいたというものです。

 このように「倭国王」が「火の国」にいた可能性が非常に高いと考えられるわけですが、その段階の「倭国王」が「筑紫」に「穀」を運ぶ必要性はどのようなものだったのでしょう。
 「筑紫」については、上の「詔」の中でも「筑紫国者遐邇之所朝届去来之所関門。是以海表之国候海水以来賓望天雲而奉貢」と書かれており、遠くの国も近くの国も、筑紫に「詣でる」とされているようです。この点については「体系」の「頭注」には「遠近の国々が朝貢してくるところ」とあります。(この場合の「国」というのは国内の諸国を指すと思われます)
 
 そもそもこの「詔」が出された年次については「書紀」に書かれたような「五三五年」頃のことかというとはなはだ疑問です。
 「書紀」を見ても、ここで「筑紫」に「穀」を運ぶというのは「唐突」であり、その前後にそれにつながるような記事が存在しません。
 「筑紫」に「穀」を運ぶという意味から考えて、これは「筑紫」に「都城」を造る前提の動きと推測されるものであり、そうであれば可能性があるのは「六世紀末」から「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時期のことではないかと考えられます。
 そして、この「詔」の中で「筑紫」「豊」「火」というように「国名」として「旧称」が使用されており、これは「六十六国分国」以前のことと推量されますが、それにも関わらず、「備後」という「新名称」が使用されていることは、一種の「矛盾」であり、「不審」と考えられるものです。
 「備後」は「吉備」から分かれたものであり、それは一般には「七世紀末」と考えられていますが、「備後」は「聖徳太子傳」に言う「成務天皇」の代の「三十三」国への分国に関連していると考えられ、「西日本」については「阿毎多利思北孤」以前にすでに「分国」されていたものと思慮され、(ただし九州は除く)この分国は「筑紫の君磐井」の頃ではないかと思慮されます。
  
 この「穀を筑紫に運ぶ」記事が「変改」により「七世紀」初頭の位置から「安閑紀」に時代を移動させられて書かれていると考えた場合、ここで云う「朕」は「利歌彌多仏利」を意味することとなり、これは即座に「仁徳」へ投影され、「胎中の帝」つまり「応神」が「阿毎多利思北孤」の投影であるという考え方と併せこの「説話」が「利歌彌多仏利」とその父という関係に還元されることとなります。こう考えた場合「代」として連続していることとなるわけであり、この「詔」が「自らの父」の代からの事業の継続と云うような意味合いが出てくるものとなって、かえって合理的であると考えられるものです。(記事全体として「干支一巡」遡上させられている可能性が考えられます)
 彼(利歌彌多仏利)は「六一八年」の「筑紫都城」完成までは「肥後」の旧都に所在していたものと考えられ、「阿蘇の君」を使役する立場にいたと考えてこれも「不思議」ではないものです。

 このように「筑紫」に「穀」を集積する意味について考えてみると、「筑紫」都城を完成させる為に多大な労働力が必要であったことと関係があるのではないでしょうか。それにはまずそれに対する「物資補給」が必要であり、その一環として、全国から「穀」を「筑紫」に集積させることとしたものと考えると「矛盾」がありません。
 「筑紫」の都城の築造の為にはかなりの人的資源を費やしたと考えられます。また、彼等はかなり広範囲から集められたものと思慮されます。(後の「皇極紀」に書かれた「宮殿」の建設の際の「詔」を彷彿とさせます)
 つまり、「筑紫」に多くの人を集めるとすると、彼等を養う為の「穀」をまず「筑紫」に集める必要があったこととなるでしょう。そのため、各地(各諸国)で「穀」を集積、保管する「倉」が必要となり、これが「屯倉」設置の記事となったものと思われます。
 「屯倉」設置の詔を見ても、重点としては「西日本」の比重が高いようであり、まだ「関東」(「北陸道」「東山道」「東海道」など)の存在が希薄です。この事は「東海道」「東山道」という主要幹線がまだ完成されていない段階であると考えられ、まだ西日本だけに「ネットワーク」が形成されている状態に見えます。このことは「前方後円墳」の第一次終焉が「六世紀後半」の「西日本」が先行するという考古学的事実と整合すると考えられます。

 またこの「詔」の中で「各地」では「屯倉」といっていますが、また「筑紫」には「官家」があったとされています。しかし本文の「訓」は共に「ミヤケ」となっています。しかし「屯倉」と「官家」に異なる用語を充てているところから判断してその「機能」などはまったく異なるものであったと考えるべきでしょう。これについては「体系」の補注では「半島諸国」に存在するのと同様「軍事基地」なのではないかとしているようです。これは一部当たっているのかも知れません。なぜならここに書かれた「官家」最も適合するのは「邸閣」ではないかと考えられるからです。
 「屯倉」はあくまでも各地に展開された「王権」への直送システムの「始点」であるのに対して、「官家」(筑紫の場合)はその「システム」の「終点」ともいえるものであり、当然規模も大きさも比較にならないほど壮大であったものと推量されます。また各地の「倉」から「穀」つまり「糧米」が供出されていることから考えて、この「官家」が少なくとも「三国志」などに言う「邸閣」に類するものとみられ、それは本来「軍事」に供するものでしたから、この「官家」というものが同様に「軍事システム」の一環であることとなり、「筑紫」には「軍事」基地があったこととなるでしょう。これは「一大率」の後裔とでも言うべきものではないでしょうか。

 ところで、「体系」の「補注」が言うように「半島」にも「官家」の例が確認できますが、それらは「朝貢」と密接に関係した施設とされており、「半島」内の各地から集積された「調」としての「物品」の集配センター的役割があったと見られます。
 例えば「加羅国」からの表にもそれは明確に現れています。

「(継体)廿三年(五三三年)春三月。百濟王謂下■■國守穗積押山臣曰。夫朝貢使者恒避嶋曲謂海中嶋曲碕岸也。俗云美佐祁。毎苦風波。因茲濕所賚。全壌無色。請以加羅多沙津爲臣朝貢津路。是以。押山臣爲請聞奏。
是月。遣物部伊勢連父根。吉士老等。以津賜百濟王。於是。加羅王謂勅使云。此津從置官家以來。爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。…」

 ここでは「加羅」の「津」を「百済」に割譲する決定を不服として「加羅王」が言う内容として「官家」が置かれたのは「朝貢」のためであったとされています。その中継地点である「多沙津」を「百済」へ割譲する(賜う)ことに反対の意思表示をしているわけです。このことから典型的に判るように、半島においても「官家」というものが「倭国内」と同様の機能と性格を持っていたことが推察され、「倭国」への貢納品の輸送システムの「半島」における「終点」であったと見られるものです。そして、そこに集められた「朝貢品」は「筑紫」の「官家」へ運ばれるというようなものであったと思料され、この「筑紫」の「官家」が「国内」はもとより「国外」からの貢納品の「最終地点」であったという可能性が高いと思料されます。

 この「筑紫」の「官家」については、後の「斉明朝」に「蘇我赤兄」から「悪政」の一つと指摘された「大起倉庫積聚民財」、つまり「民から収奪したものを収納する蔵を大々的に建てた」と言うものの前身的施設であったと推察されます。そして、これが後の「蔵司」につながるものであり、「大宰府政庁遺跡」の西側に柱間三間×九間の「礎石建物」の跡が確認されていて、ここが「蔵司」跡と推定されています。
 「太宰府市史」(考古資料編)によれば、この遺跡は「奈良時代から平安時代」までの間において「九州最大規模」といわれるほどの建物遺跡であるとされています。)
  また、この「屯倉」設置段階では、「倭国王権」はまだ「肥後」に本拠があったと考えられますが、この「筑紫」都城構築に際しては、「屯倉」に集積された物品のかなりのものが「肥後」ではなく「筑後」に集められたと考えられます。
 「筑紫都城」築造中には「至近」と言える距離の場所に「仮宮」や「蔵」を作り、工程の進捗を監視していたと考えられ、「彼ら」は「筑後」付近に「居在」していたと推測されます。
 ここは「本拠」である「肥後」にも近く、また「肥後」にも「筑紫」にも「船」で行くことも出来たと考えられますが、この時点で同時に「道路」(古代官道)も造成していたと考えられ、交通路の構築も同時に行おうとしていたものと考えられます。
 またこの「屯倉」という存在も「官道」と関連させて考えるべき存在と思われ、「官道」が開通し、その周辺に「兵士」により「屯田」ができ、そこから集められた余剰収穫物は「屯倉」に入り、それを「官道」を通じて「キ」ないしは「集積場」へ集める、という「租」集積システムがこの時形成されたと考えられます。


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2014/09/12)


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