「改新の詔」の中に「戸籍」の作成、「班田収受の法」施行に関することが書かれていますが、これも「隋」から学んだ「両魏式戸籍」と「均田法」の導入を指すと考えると良く整合します。
「大宝二年戸籍」の女子人口の推移から考えて、「六二〇年」を第一回とする班田が行なわれた形跡があると思われ、また「暦」の使用は(それがどのような暦か不明ではあるものの)「天文観測」の開始と言うことから考えて「六二〇年」頃の「暦」使用開始が想定されています。この時の「暦」は「隋」で使用されていた「開皇暦」ではないかと考えられます。
そして、それと関連していると考えられるのが「孝徳紀」に存在する「禮法」制定の記事です。
「大化三年(六四七年)…是歳。壞小郡而營宮。天皇處小郡宮而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」
ここでは「寅時」(午前四時頃)というように「時刻」が書かれていますが、そのような時刻を知らせるものとして「鐘」を撞いて知らせていたようです。しかし、そのためには何か「時刻」の基準になる「時計」のようなものが必要ですが、それについては何も記載されていません。しかし、これは明らかに「漏刻」が実用化されていたことと推測できます。日時計のようなものでは「日の出前」に「鐘」を撞くことはできなかったと思われますから、ここでは「漏刻」が使用されていたと考えざるを得ないのです。
そして、この記事と関連していると思われるのが「倭国」における「天文観測」の開始記事です。
「書紀」で初めて出てくる「天文現象」記事が以下のものです。
「推古廿八年十二月庚寅朔。天有赤氣。長一丈餘。形似雉尾。」
この記事は「オーロラ」現象を記した記事と思われますが、この記事以降、各種天文現象が記録されるようになっていきます。
「天文観測」としてはもちろんこのような「異常現象」の把握も必要ですが、本来の「天文観測」の「主眼」は「太陽」と「月」の「運行」であり、各々の「入」と「出」及び「南中」の時刻を正確に把握することが必要でした。これが判らなければ「暦」を作ることができないからです。
当然、当時にあってもこれらの時刻を記録していたと考えられ、これには「漏刻」(と「渾天儀」)が必須であったと考えられます。
「漏刻」そのものは「漢代」より存在していたものであり、当然「隋」でも使用されていました。その後「唐」の時代になって大きく改良され、正確性が上がったものが作られるようになりましたが、それ以前から「倭国」で導入していたとしても不思議ではないと思われます。
「書紀」に拠れば「近江朝廷」では「漏刻」を使用していたことが記されていますが、これは「唐」の貞観年間(六二七年〜六四九)に呂才(ろさい)がそれまでの物を工夫したものが伝えられたものと考えられます。
この「漏刻」に関する情報は「白雉年間」に倭国から送られた「遣唐使」が持ち帰ったものと思われます。「遣唐使」は何回か派遣されていますが、該当する可能性のあるものは「六三一年」「六五三年」「六五四年」のいずれかと思われます。このうち「六三一年」の時点ではまだ、「呂才」による「改良」が完了していない可能性が高く、「六五三年」ないし「六五四年」の「白雉」年間の遣使の時点を想定するのが妥当と思われますが、そうであれば「遣唐使」の帰国が「六五四年」及び「六五五年」と見られることから、皇太子時代の「天智」が使用開始したのが「六六〇年」の事とすると、使用開始まで五年ほどしかかかっていないことになります。このことはある意味「驚くべき」急速な知識の吸収とその応用であると思われ、それは「以前からの」技術の蓄積があったことを窺わせるものです。
このことからも「漏刻」などの天文観測に必要な機器が既に「七世紀初め」にあったものと理解されるものであり、それがあって初めて「鐘を撞いて時を知らせる」と言うことが可能となったと思料されます。
またこの「日本最初」の「天文観測記事」についての研究によれば、この「オーロラ記録」以前にも誰にも分かるような明確な天文現象があったにも関わらず、記録されていないことが判明しています。それは「推古二十四年」(六一六年)にあったはずの「日食」(「煬帝日食」と呼ばれる)の記録や「ハレー彗星」の回帰記事です。これらは非常に目立つ異常現象であり、確かに「日食」は曇天や雨天の場合は観測されなくて当然ではあるものの、「ハレー彗星」の場合などはかなり長期に亘って観測できたはずのものであるわけですが、実際には記録されていないのです。この事から「漏刻」を使用した観測は「ハレー彗星」の出現年である「推古十五年」(六〇七年三月から四月)以前には行われていなかったことが推定できます。(晴天率を考慮しても観測数がないのは異常と考えられます)
つまり、限りなく「六二〇年」に近い時点で「天文観測」が始まったと考えざるを得ません。
(後でも述べますが)その「観測」に使用されたのが「占星臺」であり、ここに「漏刻」も「渾天儀」もあったものと考えられます。そして、それはそれが置かれという「天武紀」の年次から「六十年」(干支一巡)遡上する「六一五年」のことではなかったかと考えられます。
ところで、「隋書?国伝」に書かれた「裴世清」の「来倭」と「書紀」に書かれた「裴世清」の来倭記事とは「異なる年次」に行なわれた別の「来倭」記事であると考えられることとなりました。さらに「書紀」では明確ではありませんが「元興寺縁起」に残る「丈六光背銘文」によると、この時は「副使」として「尚書祠部主事」という「遍光高」なる人物が同行していたとされています。
(以下「丈六仏像」の光背銘を抜粋)
「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰、以銅二萬三千斤、金七百五十九兩、敬造尺迦丈六像、銅繍二躯并挾侍。高麗大興王方睦大倭、尊重三寶、遙以隨喜、黄金三百廿兩助成大福、同心結縁、願以茲福力登遐諸皇遍及含識、有信心不絶、面奉諸佛、共登菩提之岸、速成正覺。
歳次戊辰、大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清、使副『尚書祠部主事』遍光高等來奉之。
明年己巳四月八日甲辰、畢竟坐於元興寺。…」
彼の職掌である「祠部」とは「僧尼簿籍」を管理するなど「仏教」などの宗教関連の窓口とされると共に、「天文」「漏刻」「国忌」「諱」「墓制」「医薬」などについて管掌しているとされています。このような人物が「六二〇年」という年次に「来倭」している事を考えると、この年次に最初の「天文観測」記事があり、そこで「漏刻」が使用されたのではないかという事が推定されるのは偶然ではないように思われます。
つまり「漏刻」は彼から学んだのではないでしょうか。
(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2013/08/25)