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「国宰」について(補論)

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「前項」で述べた「国宰」について、更に「補論」を述べてみます。

 「国」(クニ)の国内における「成立」とその「変遷」を考えると、「従来説」のなかでも「有力」なもののひとつは、「七世紀」以前から「クニ」があって、そこには「国造」が存在しており(それは「ヤマト政権」の版図としてであるとされますが)、ある時点でその「クニ」がいくつか合わさった「広域行政体」としての「国」が成立し、そこに「国宰」が「派遣」されることになったものとされ、それが「天武紀」であるとするものです。そして、その「根拠」としては「書紀」の「天武紀」の「諸国境界限分」記事が挙げられています。つまり、この記事をそのまま「信憑」した結果としての「立論」であるわけです。
 しかし、このような「立論」とそれを巡る「議論」については疑問を持たざるを得ないものです。それはその「成立」時期を「天武朝」としていることが挙げられます。これは「書紀」をそのまま信憑した結果であるわけですが、このような「階層性」を伴った行政制度が確立するためには「強い権力」が必要であり、その様な強さを「天武朝」で「発現」している実績がないと思われるからです。
 たとえば、(後述しますが)「古代官道」というものがあります。これは「幅」も非常に広く、しかも道路は「直線」であり、各地方拠点を「最短距離」で結びつけることを意図しているとみられます。
 このように造られた「官道」の総延長は「六三〇〇キロメートル」ほどあると見積もられ、これは「現代」の高速道路の総延長(六五〇〇キロメートル)とほぼ同じ距離であるとされます。
 この「官道」の造成の時期は、遺跡自体からは判定しがたく、現在まだ未確定ではあるものの、推定によれば「七世紀」のはじめまで遡るとされますが、あるいはそれを更に遡る時期も考慮すべきかもしれません。それは「阿毎多利思北孤」の事業と思われる「寺社」創建の中に「信濃」の「善光寺」が含まれていると考えられるからです。
 「平家物語」の「善光寺炎上の段」は「平家物語」の「巻二」に書かれており、この「巻二」は全て「治承元年」(安元三年、一一七七年)のできごとを記したものと考えられていることから、ここに書かれた「善光寺炎上」の年次として「一一七七年」が想定され、そのことから「創建」されたのは「五八八年」から「五九六年」の間のこととなると考えられます。
 この年次の範囲の中には他にも「厳島神社」、「四天王寺」、「法興寺」などの創建とされる年次が含まれています。
 この時点でほぼ同時に各地で「仏教」に関する動きがあり、そのなかで「善光寺」などが創建されたと考えられるわけですが、このように「信濃」という地にまでも「仏教」の波が押し寄せている「条件」として「東山道」の整備があったと推定できます。これは後代の「高規格」のものと同一とは思えませんが、その「先蹤」となるものがこの時点で作られたものではないかと考えられ、それは「阿毎多利思北孤」という「強い権力者」の出現と軌を一にするものと考えられるものです。
 
 このような高度に集権的である構造物を造る事、企図して実現させる事が出来るのは、当然「統一権力者」的人物と想定しなければならず、その意味でも「阿毎多利思北孤」とそれ以降の各「倭国王」がそれに該当すると考えられるものです。
 これら「官道」は複数の路線からできており、全体完成はかなり遅い時期を想定すべきですが、「段階的」な完成としては第一に「阿毎多利思北孤」までの「六世紀代」、続いて「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」そして「七世紀半ば」というように、各「倭国王」の時代に「官道」が延伸され、それが即座に「統治強化」に結びついたものと思料されます。
 その中でも「最初の統一王」と考えられる「利歌彌多仏利」の時代が一番路線強化が成されたものと考えられ、それは彼が実施したと推察される「国県制」施行と「六十六国分国」という事業そのものが「大幅な」統治強化であり、この方策が「官道」整備と表裏を成すものであったことは確実と考えられるからです。
 そもそも、彼(及び父である「阿毎多利思北孤」)は「遣隋使」を派遣し、「隋」の各種制度と技術を積極的に導入する姿勢を示しましたが、そのような中には「道路」に関するものもあったものと推察します。
 「隋」では「大興城」の至近に「幅」が「百メートル」もあるような道路を造るなど、全国に道路網を張り巡らしていました。この「情報」を帰国した「遣隋使」から受けた彼は、それが「統治強化」に必要であり、また有効であることを重視した結果、「倭国内」にも実現しようとしたのではないでしょうか。つまり、彼の時代に「古代官道」という「高規格道路」の整備事業が一気に本格化したものと推定されます。
 これらのことから「天武」以前に「官道」整備はかなりの部分行なわれていたものと考えられ、彼の時代を遡ることは間違いないと考えられます。

 また、「石神遺跡」や「飛鳥池遺跡」から、この「諸国境界限分」記事以前の「紀年」を持った木簡が発見され、これらから「令制国」と同様の広範な領域を持つ「国」がその当時存在していたことが確認されています。

「石神遺跡出土木簡 」
「(表)乙丑年十二月三野国ム下評」
「(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
          口人田部児安」

「飛鳥池遺跡出土木簡」
「(表)丁丑年十二月三野国刀支評次米」

 これらの「木簡」に記載された「干支」については従来「七世紀半ば」のものとして理解するのが常でしたが、「評制」の施行時期や「国県制」の施行時期などからの帰結として、「六十年遡上」させて理解すべきものと思われ、「丁丑年」は「六七七年」ではなく「六一七年」、「乙丑年」は「六六五年」ではなく「六〇五年」という七世紀初頭の時期を想定すべきこととなります。
 この段階で「ム下評」や「刀支評」という「評」を下部組織に持つ「三野国」が存在していたこととなり、これは後の「令制国」である「美濃国」と同等の広さを持つと考えられ、このようなものがすでにこの時代に成立していることが明らかとなったわけです。
 この「木簡」から「素直」に考えれば、「広域行政体」としての「国」の成立は「阿毎多利思北孤」や「難波皇子」の時代のものであることは確実と言えます。そのような「広域行政体」が「政治的」、というより「行政執行」の一環として「中央」と強力に結合していたであろうことは間違いないと考えられますが、それを成立させる要件の一つは「古代官道」の整備がある程度整ったことにあると考えられるところです。

 さらに問題なのは、この「天武朝」の「諸国境界限分」記事については「正木氏」の「三十四年遡上」研究の適用が検討されています。つまり、本来「難波朝廷」に関連する記事であったと見るわけです。もしそうであれば、それだけで既に「天武朝」と「国宰」を結びつける考え方の「全体」が否定されるものではあります。
 ただしその場合、「国宰」を「難波朝廷」から制定されたものと見る別の立場からは、「一見」整合的であると思われるかもしれません。つまり、「難波朝廷」から「評制」が施行された際に「国宰」という制度も成立したと見る事ができそうだからです。
 それは「常陸国風土記」で「難波長柄豊崎大宮臨軒天皇」という「一見」「孝徳」を意味すると思われる天皇名の表記が見えている中で、「我姫」の地を「八国」に分けたという記事がある事とも「整合する」ことであると、かなりの数の論者が考えている事とも繋がります。
 「通念」的解釈の多くもこの「木簡」に関する見解から、この「三野国」のような「広域行政体」としての「国」が成立した時代を「難波朝廷」の時のこととする見解にシフトしているようです。

 また、「難波朝」と「国宰」を結び避ける考え方では、「評制」の施行と同時期に「広域行政体」としての「国」も成立したこととなりますが、この二つを同時に成立させるというのは実は「至難」の事業ではないでしょうか。
 なぜならどちらも「境界策定」を伴う作業であり、またその際には「既得権益」を持つ勢力の間の「調整」という作業も伴うものと推測され、そのような事を行なう「技術的」「政治的」な困難さを考えると「国」という外枠を決めながら、その内部の「細部領域」についても区画していくという事が同時並行的に行われたとは考えにくいものです。
 これが別々に行なわれたとすると考えやすいものと思われます。たとえば、既に「外枠」については「線引き」が終了していて、その「内部」についての「境界」の見直し作業であったとする場合、その「外部領域」(国)自体の線引きを動かすとなると、その間「内部領域」(評)は全く手をつけることができなくなる可能性もあり、「境界策定」という作業自体が停止する或いは破綻するという可能性もありえます。少なくとも順調に進むとは思えないものです。
 「書紀」の記事を見ても、「皇太神宮儀式帳」によっても、その「難波朝廷」段階での境界策定の実際は「評制」に伴うものに限定されると考えられ、また「風土記」の記事でも「評制」施行の際に策定した境界線について見直しを求めているのはいずれも「国」の内部の話であり、「国」そのものの領域についてのものではありません。
 上に見たように「評制」施行やその「範囲」変更は「戸数」変更と関連しています。つまり、「評制」施行と「国制」施行を同時に行なおうとすると「戸数」変更をも同時に行なう必要があることになり、そのような「大改革」が「企図」されたとは考えがたいものです。
 これらのことから、「難波朝廷」段階、つまり「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」は、「評」という制度の全面施行を企図したものであり、それは「上部組織」である「国制」に先立つものであったと見られるのです。そのことは「国」と「国宰」制度の施行がこの段階ではなく、これ以降に行なわれたものであることを強く示唆するものです。
 
 また、注目すべき事は「従来説」においても「広域行政体」としての「国」の成立とそれを管掌する「国宰」の制定は「同時」であると考えられていることです。それは「国」の成立・制定がされたその時点において、「責任者」としての人間(役職)の「任命」も同時に行なわれたはずであるという、ほぼ「常識的感覚」によるものですが、それについては充分首肯できるものです。
 出土した「木簡」や「三十四年遡上研究」により「天武紀」であることは否定されたわけであり、「難波朝廷」まで遡って考えるべきとする論調が増えたようですが、それも「問題がある」と考えられるのは上に指摘したとおりです。
 その時期を判定する材料として有力なものとしては、先ほどの「古代官道」の施工時期の関連や、他に「書紀」の「大宰」の初出が「推古朝」であること、「東日本」の「前方後円墳」の築造停止時期がやはり「推古朝」(七世紀初め)であること、また「法興寺」等「古代寺院」の築造や「移築」なども「推古朝」に多数が確認されること等々、「統一王権」の存在を想定すべき記事、出土資料等が一致して「推古朝」の時代を示していることから、「国制」施行と「国宰」任命の時期としては「七世紀第一四半期」の末ぐらいまで「遡上」して考える必要があると思料されるものです。

 また「隋書?国伝」の記事から判断して「逆」に「隋使」が「来倭」した「六〇八年」段階以降である(この時期が下限である)と推測することも可能です。この「隋書?国伝」には「国宰」以前、つまり「国造」の治める「クニ」が多数国内に分立している時代のことが描写されていると考えられ、その後、これらの状態から進展して「行政制度」の「再編成」が行われたと考えられますが、ここで「行政制度」再編成に応用された制度は「国県制」であったと思料されるものであり、この制度は「隋」の時代にしか行われていなかったものです。
 「隋代」以前には「国郡県制」であったものであり、それを「隋」の代になって「県」を「国」が「直轄」するように変更したものですが、これは「唐」に変わって以降まもなく「郡」が再度復活することとなりました。この「制度」の変遷を考えると「国内」に「国県制」が導入されるのは「遣隋使」による情報以外にはないと考えられ、そうすると「行政制度」改定時期は、「遣隋使」が帰国した時点からそう遠くない時期であることを推察させるものです。そう考えると「難波朝廷」の時代や、ましてや「天武朝」などでは余りに遅すぎるものであり、「制度」として「反映」させるのにそれほどの「時間」がかかったと想定するのは「恣意」に過ぎると言えるものです。これは派遣された「遣隋使」の帰国後十年以内程度に改定が行なわれたものと推察するのが「自然」な理解というものであり、「遣隋使」の帰国がいつ行なわれたかは定かではありませんが概ね「派遣期間」として十年程度を想定するべきでしょうから、「唐」の時代に入ってすぐ程度の時期に帰国したというのが下限の時期と思われます。
 そもそも「僧」などとは違い、「制度」等を学ぶのが与えられた使命の人間ならば、その学んだ制度を国内に適用・応用するというのが彼の「使命」であり、そうであれば「数年」で帰国するのが本旨であると考えられ、これが十年以上の滞在となると、派遣の趣旨と齟齬してしまうと思われます。
 つまり、この「隋書倭国伝」記事からは、「広域行政体」としての「国」が成立し、その「主」(責任者)として「国宰」という「官僚」が任命・派遣されるようになったのは「七世紀前半」という時期しか想定できない事を意味するものであり、それは上で行った想定とも合致すると思われることとなります。
 
 ところで「国宰」という表記は「書紀」にはありませんが「宰」単独ならば「神功皇后紀」と「敏達紀」に存在します。

(仲哀)九年
十二月戊戌朔辛亥(中略)一云,禽獲新羅王詣於海邊,拔王?筋,令匍匐石上,俄而斬之埋沙中.則留一人為新羅宰而還之.

ここでは「新羅」に残してきた「留守居役」のような立場の人物について「宰」と表現されています。

(敏達)六年(五七八年)
夏五月癸酉朔丁丑。遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。
冬十一月庚午朔。百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。

 この記事では「百済」への使人を「宰」と称したと書かれており、これを「書紀」編纂者の「注」では「古之典」にあるものであり、今は「使」というと書かれています。
 これらの「宰」の用例は「百済」や「新羅」という「半島」の「諸国」に対する「倭国王」の「代理者(代弁者)」という意味があると思われますが、これを「拡大解釈」して「国内」にも適用したというのが「国宰」ではなかったかと推察されます。
 一般に「国宰」が「一時的」に派遣される立場の官僚であり、「常駐」ではなかったという理解がされているのは、このような用例から帰納したものであると考えられますが、そのような「古之典」の用法から「脱却」したのがこの「七世紀前半」ではなかったかと推察されるものです。
 それについて念頭に置くべきものとして「牧宰」があります。「漢代」以来「牧宰」と「刺史」は「州」の長官を意味するものであったものであり、軍事権のあるなしで名称が異なっていたとされています。
 「隋書倭国伝」においても「軍尼」という「官職」名について「牧宰の如し」と書かれています。
 「倭国」は「行政制度」の改定においても「隋」を模範としたと推定されるものであり、そこに「牧宰」とその職掌が共通していると考えられる「役職」が「国宰」という名称で制定されたと考えるのはそれほど不自然ではないと思えます。
 この「牧宰」は基本的に「常駐」するのが普通であり、臨時に派遣されるような役職ではありません。
 「国宰」がこのような「牧宰」との類似からの発想で定められたとすると、同様に「臨時」の役職ではなかったという可能性が高いと思料され、「古之典」にある「宰」が遺存したというより、それに「新しい意味」が吹き込まれたのが「七世紀」の初めのことであったと思料されるものです。


(この項の作成日 2012/07/16、最終更新 2014/02/18)

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