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「厳島神社」と「神功皇后」の妹

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 「伊予三島神社」や「厳島神社」などの創建の社伝によれば、いずれも九州から「八幡大菩薩」が垂迹した、とされています。
 「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九二)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、「平家物語」等にも「娑竭羅龍王の娘」が「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。
例えば「謡曲」の「白楽天」にも以下のようにあります。

 「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。実に有難や。神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき。」

 これによれば「厳島神社」だけではなく、「伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田」というように多数の神社の「明神」は「娑竭羅竜王の第三の姫宮」というように考えられていたのがわかります。
 この「娑竭羅竜王の第三の姫宮」については、「法華経」第十二部「提婆達多品」の中に書かれており、それによれば「文殊菩薩」が竜宮に行き「法華経」を説いたところ八歳の竜女が悟りを開いた、と言うものです。その竜宮の主である「娑竭羅龍王」には八人娘がいて、この悟りを開いたという竜女はその三番目である、ということになっています。つまり、神社の創建伝承に「法華経」が関与しているという一種不可思議なこととなります。
 また「厳島神社」の創建の人物は「竜王の娘には妹、神功皇后にも妹、淀姫には姉」という関係に記されています。(女性とされているわけです)
 ここに出てくる「淀姫」という人物は佐賀県に祭神としてまつる神社が数多いのですが、「神功皇后」の「新羅征伐」説話中に現れ、その「神功皇后」の妹として「松浦」の水軍をまとめて加勢したと伝えられています。
 「宗像」「松浦」という地名、「淀姫」を含む「三女神」に対する信仰という点においても、九州地域との在地性が高く、また信仰の内容から言っても「海人族」に関わる信仰であることがわかります。
 これらのことから「厳島神社」創建の人物は「宗像三女神」のうちの「比売大神」(市杵島比売神)に対応する人物と考えられます。
 また「京都」の「八坂神社」の祭神は「薬師如来」が垂迹した「牛頭天皇」とされ、この「牛頭天皇」というのは起源不明ではあるものの、その后は「頗梨采天女」であったとされますが、この「頗梨采天女」は「娑竭羅龍王の娘」とされ、「南方」の「竜宮城」に住んでいたという逸話が残っています。
 つまり各地の神社に伝わる「娑竭羅龍王の娘」は「牛頭天皇」すなわち「素戔嗚尊」の后とされている訳であり、「宗像三女神」と「仏教」の融合がそのまま「日本神話」につながっていることがわかります。
 これらのことは「娑竭羅龍王」との関連で「仏教」文化が倭国内に伝搬したことを示すと考えられ、「六世紀末」という時代の「仏教文化」拡大に「海人族」が深く関与していることが推定されます。

 後でも述べますが、「法華経」に「提婆達多品」が添付されたのは「六世紀末」の「天台大師」によるものとされ、それは「南朝」が「隋」に滅ぼされる以前の(五八九年以前)であったと見られます。それが「倭国」に伝来したのはそれからまもなくのことであったと推察され、それは上に見る「創建年次」として「五九二年」という年次が書かれている事とはまさに整合すると言えるでしょう。 つまり、これらの寺院の創建の年というのは、「遣隋使」が「提婆達多品」の添付された「法華経」を持ち帰ったその年であったのではないかとさえ考えられる事となるでしょう。
 また、その「仏教」(法華経)の伝搬の発信地が「九州」であったことを示していると同時に、「厳島神社」のような「宗像三女神」に対する信仰と関連して語られていることが注目されます。
 「宗像三女神」の分社、末社やそれに関係した「寺社」が「東方」に増えていくのですから、伝播の経路としては「筑紫側から近畿側へ」というベクトルであることに留意すべきでしょう。(ひょっとするとこれは「遣隋使」の帰国の行程と関係があるのかも知れません。帰国の途次「宗像」の海人族に瀬戸内航行の護衛を頼んだことがこの「厳島」や「伊予三島」の創建説話に関係していると言う事も考えられます。)

 ところで、この「厳島神社」創建に関わって「神功皇后」が登場するのは唐突に思えますが、それは「神功皇后の伝説」を含めた「神話」がこの時造られたという可能性もあると思えます。
 古事記を見ても「推古」の時代までしか書かれておらず、それは「記紀」の原資料となった各種の記録や説話をまとめたものがこの「六世紀末」付近あるいはその後継王朝の時代に一旦成立したという可能性が高いことを示すと思われ、「隋書」で「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」か、その後継者が「勅撰事業」として編纂させたものが、後の「書紀」編纂の際の重要な根拠資料になったという可能性があると思われます。
 この時点で諸々の説話がまとめられ、成立したとすると、「神功皇后」説話が元々は「最近」の話(七世紀から遡ることせいぜい百年以内)として書かれたものであったという理解も可能ではないでしょうか。
 「記紀」(特に「書紀」)でこの「神功皇后」の時代がかなり過去のこととされているのは、「三国志」の「卑弥呼」に仮託しようとした「八世紀」の造作と考えられますから、本来の年次に書かれているかははなはだ疑問です。(そもそも「書紀」の「神功皇后」の部分は、「森博達氏」の論によれば編纂初期の「唐人」の手になる部分ではなく、「日本人」編纂者の手による部分であり、より後代の成立であって「潤色」「改定」の手がかなり入っている部分であると考えられています)


(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2014/04/11)


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