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「仏教」の伝来と「近畿王権」

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 「倭の五王」の時代に、各国を服属させていく戦いの中で、「物部氏」が「先兵」となり「武力」という側面で著しい貢献を行い、各地を「平定」していったものと推定され、その後彼らは「平定」した「近畿」に武装植民のような状態で移住していったのではないかと推測されます。「常陸国風土記」の中にある「倭国王」の命により「物部氏」が筑波山麓を開拓した、という記事もそのような中で理解するべき事だと考えられます。

 前述したように「武」の時代までは「九州倭国」内では「道教」(鬼道)が支配的であり、「仏教」の勢力が余り強くなかったのではないかと考えられます。(少なくとも「国教」ではなかったでしょう)
 「武」の時代以降(「武」亡き後)、つまり「筑紫君」とされる「磐井」が倭国王となった時点から以降「仏教」に彼が傾倒するようになったと仮定すると、「倭国王」を支える勢力である各氏族(特に「物部」)から異議が出たとしても不思議ではありません。
 つまりその後発生する「磐井の乱」は「反仏教革命」でもあったのではないかと思慮されます。
 
 その後「一〇〇年」以上遅れて、「六世紀」の半ば過ぎに「近畿」に「仏教」が伝わります。
 そして、その時「倭国」に伝来したときに起きた「鬼道」と「仏教」との葛藤よりも「強い反発」が「近畿」では起きたのではないでしょうか。
 「倭国」に伝来した直後の「倭国」は「卑弥呼」以来の「鬼道」の影響をまだ強く受けていた時代の「名残」のようなものがあり、「倭国王」は「自ら」積極的な反応を示さなかったのではないかと考えられます。「倭国王」「讃」や「珍」の頃には、まだ「国内」では「仏教」は「マイナー」な存在であったと考えられ、かえって「軋轢」も少なかったのでしょう。しかし、「近畿」への伝来が「一〇〇年」以上遅れたことにより、「近畿王権」内部では「鬼道」に偏る風潮ではなくなっていたものではないかと考えられ、「近畿王」はかなり積極的に受容しようとして、かえって強い反発を受けることとなったのではないかと思慮されます。 
 「近畿王権」内部での「崇仏」「排仏」の争いは、当時「物部」により「筑紫」を制圧されていた「倭国」中央での「崇仏」「排仏」の争いを再燃させたのでしょう。

 「磐井の乱」(「物部の乱」)以降「物部」が「筑紫」を制圧している間は「筑紫」には「仏教」関係のものは強く禁じられていたと考えられます。それを示すのが「筑後」の「高良大社」であり、その「祭神」は「物部」と同祖であり、「守屋」の時代の「高良玉垂命」は「守屋」と「兄弟」であったと記されています。
 このような中で「九州」でも「近畿」でも「物部」率いる「古神道」による「排仏」勢力と、「倭国王」「近畿王」などの「崇仏」勢力が激突することとなったのでしょう。

 半島では「倭国」の勢力が減退する中で「新羅」は「筑紫」を制圧していた「物部」と通交し、「任那」の権益を分け合う形で半島の勢力を増加させていったものと推察されます。
 これに対し「圧迫」されていた「倭国」は「物部守屋」の時代になり、「守屋」が「拡張政策」を採り、(筑紫だけではなく)国内に勢力を広げる動きを示したのに対して「近畿王権」も「対抗」する事となったものと思慮され、「豊」「肥」の勢力をまとめると共に、各「海人族」を統合し、強力な水軍を作り上げた「倭国王権」と連合してこれを迎え撃つこととなったものでしょう。「倭国王権」はこれをバックに「筑紫」奪還作戦を開始する事となったと推量されます。
 まず、「物部」を援助していた「新羅」の勢力を遮るため「阿毎多利思北孤」の「母」率いる「水軍」により「海上作戦」を展開し、「物部」の背後を断つ作戦を実行します。これにより孤立した「物部」の勢力は、「近畿」方面勢力と分断され、「倭国王権」と連動することとなった「近畿王権」により、その行く手を阻まれ、滅亡することとなったのです。
 「肥前叢書」という昭和十四年にまとめられた「肥前」の古代のことなどを記した記録には「勝照二年勅シテ逆臣守屋ノ子辰子瓜連ヲ松浦ニ配流ス」とあり、 守屋の子供が「配流」つまり「遠島」になっていますが、「勅」により、とされ、当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」の意志が働いているもののようです。
 また、この年次が「勝照二年」(五八六年)となっていますが、通常の守屋討伐年次より一年早いものの、他にも「勝照二年に守屋が誅された」という記事が散見され、信憑性は高いと思われます。

 「物部守屋」は「筑紫」の地を「子息」である「辰子瓜連」に任せて、自分は「近畿」へ東征に出かけたものと推察します。しかし、「肥後」に雌伏していた「倭国」勢力により、「筑紫」の地を先に制圧され、後方からの支援を断たれたため、「戦力」不足となり、「近畿王権」と直接対決していた「守屋」の本隊も壊滅することとなったものと推量します。

 そして「六世紀」の後半になって「近畿」で再び「阿蘇熔結凝灰岩」を使用した石室を伴う古墳が作られるようになります。また、「筑後」地方で「六十年間」続いていた「蕨手文古墳」が作られなくなります。
 これは「物部」が滅びたことにより、「倭国王権」が再び「倭国代表王権」として「認知」されたと言うことを示していると考えられますが、「倭国王」「阿毎多利思北孤」はその時点で「仏教」の力による国内統一を目指したのではないかと考えられます。

 
(この項の作成日 2011/07/29、最終更新 2011/09/19)


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