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「磐井の乱」以降の「倭国」

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 「磐井の乱」は実は「物部の乱」であると考えられるわけですが、それが「五三一年」に発生して以来、「書紀」の記事はほとんど朝鮮半島に関する記事しか見えなくなります。国内関係の記事が極端に少なくなるのです。
 それは「倭国王権」の「宮廷内記録」(起居注)が残されていなかった可能性を示唆します。このことは「代々」続いてきていた「倭国王家」が正常に「継承」されていたのか、という点においても確実なことが言えない状況ではなかったでしょうか。
 彼等の統治範囲も一時的にせよ、ほぼ「肥後」を中心とした「北部九州」付近に限定されていたものと考えられ、このようなことから、後に「書紀」編纂時点で「資料不足」という形になったものと思われ、そのため「百済本紀」など「百済系資料」に準拠して「書紀」を構成すると言うこととなり、この時期(欽明・敏達紀)は「百済」、「任那」関連の記事で埋め尽くされてしまう事となったと思料します。しかも、それら「百済系資料」はその後失われ、その他の史料でもこの時期朝鮮半島側にはほとんど「倭国」関係記事が見あたらなくなります。それらの史料では「五〇〇年」付近から突然「六〇〇年」ぐらいまで記事が飛んでいるようで、「三国史記倭人伝」などに至ってはこの期間の倭国情報が全く記載されていません。このことから判断して、この時代には朝鮮半島と倭国の交渉がほぼ途絶えたと考えられることとなるでしょう。

 「書紀」によれば、この時期の記事は「百済」に対して「任那」復興(つまり、新羅から取り戻す事)を促すようなものが続きます。しかし、記事によると「任那」は「新羅」の影響を強く受け、倭国からも「百済」からも離反していく様が見て取れます。
 そもそも「新羅」は「倭の五王」の頃から「倭国」の軍事的支配下にあり、そのことは「南朝」からも認められていたもので、それは「新羅」という国の形成が遅かったこともそれらの要因としてあったものと考えられます。
 「新羅」には五世紀段階では「王」の存在が確認されず、「高句麗」の好太王碑文にも「新羅」には「王」ではなく「酋長」のような存在である「寐錦」の存在しか書かれていません。
 しかし、六世紀に入り、急速に国作りが進み、それと共に周辺地域への武力行使が頻発するようになっていったものと考えられます。このことは「倭国」との関係が「大きく」変化したことを示していると考えられます。

 それまでの「倭国」は「百済」と連係する形で「新羅」に対しては「圧力」と「搾取」という「強圧」的態度で接していたものですが、「六世紀前半」以降は「新羅」に対して「倭国」からの圧力が減少し、かわりに「友好的」関係が新たに構築されたものと考えられ、それと対象的に「百済」と「倭国」の間は「積極的」な「友好」が失われたと見られます。
 「百済」側から(主に「聖明王」)からは「新羅」・「高句麗」などの侵攻に対して、「倭国」に援軍要請などがあった模様ですが、これに機敏に応えている風情は感じられず、結局「聖明王」は戦死してしまいます。
 そして、「任那」はその後徐々に「新羅」に支配されるようになり、「五六二年」になり最終的に「新羅」に「完全に」併合されることとなり「滅亡」に至るのです。このため、倭国は「倭の五王」以来保持し続けてきた朝鮮半島の拠点をことごとく失うこととなったようです。しかもそのことに「倭国」の人間が深く関与しているように見られます。

 これらのことは、「筑紫」の倭国が「物部」に占拠されていた「六十年間」に起きたことであり、半島で「新羅」の勢力が強くなる原因を成しているようです。つまり、「物部」と「新羅」の勢力が「連係」していたのではないかということが疑われるものです。
 この期間の「倭国」の外交は、「半島情勢」の変化に対して、特に「百済」からの訴えに対して有効な方策が全く打てていない(或いは打っていない)ように見えます。「倭国」から派遣した官人が有効に機能せず、いたずらに解決を引き延ばしたり、私的に利潤をむさぼったり、統制がとれていないように思えます。
 これらのことは、「物部」に「筑紫」を乗っ取られるなどの影響が対外的にも出ていると考えられ、それまで朝鮮半島にも確固たる影響力を行使していたにも拘わらず、ここに来て一気に混乱が発生しているようです。

 またこの時期の天皇である「欽明」についても、その自体の存在が不明瞭であるように感じられます。「継体」の皇子として書かれていますが、即位寺の年齢が「若干」、死去時の年齢も「若干」とあり、「年齢不詳」となっています。しかし、在位年数は三十二年の長きにわたったようですから、死亡時年齢などが「若干」であるはずがありません。このことは「欽明紀」全体の信憑性に疑義を呈せざるを得ないものです。

 つまり、この時期は「倭国王朝」としても雌伏の時期だったと思われるものであり、「対朝鮮半島」に対する外交なども「物部」の思惑が優先した形となり、「肥後」の「倭国王権」の意志は全く透徹しなくなってしまったものと思料されるものです。
 「倭国王権」からの政治的圧力や支援が継続されなくなると、一時的に形成された「倭国王権」の「統治」という行為そのものが頓挫してしまったものと見られ、「部民」なども地場ないしは「近畿」などの至近の王権により「私有化」され「私奴婢」のような扱いとなってしまったものと思料されます。同様に各地の「屯倉」に集積された産物も順調に「肥後倭国」へ集められたかは、はなはだ疑問であり、やはり「至近」の勢力へ集められ、運ばれるというようなことが起きたのではないかと考えられます。
 「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」の革命でそれらは再び「倭国王権」の手に戻されることとなったものと見られ、その時の大義名分というものが「公」という用語で表されていると思われます。


(この項の作成日 2011/01/18、最終更新 2013/10/06)


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