「新唐書」には以下のような記述があります。
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
長安元年〔二〕,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」
つまり上の記事によれば、「天武」の前代である「天智」は「蝦夷」を引率した「遣唐使」を即位の翌年派遣したとされていますから、これは「伊吉博徳」が参加した「六五九年」の遣唐使を指すと推察できます。
また「天武」の次代の「總持」(持統か)は「咸亨元年」つまり「六七〇年」に使者を派遣したとされていますから、その即位は「六七〇年」以前のこととなります。そうすると結局「天武」の統治期間としては「新唐書」による限り、「六五八年」以降「六七〇年」までのどこかの年次区間を推定する必要があるという結論になります。
ところで、「伊予三島縁起」では「壬子」という干支が「大長九年」と記されています。
「大長」という年号は「九州年号」中に存在するものですが、史料によりその場所(年次)が異なり、「二中歴」によれば「大化」の後に入れられています。現在の「多元史観論者」の多くはこれを「正統」としているようですが(「古田史学の会」などでも同様のようです)、「常色」と「白雉」の間、つまり「七世紀半ば」に入れている史料もあります。(「如是院年代記」、「開聞古事縁起」、「伊予三島神社史料」など)
上の「新唐書」記事によれば「天武」の統治期間は「七世紀半ば」となるわけですが、「伊予三島神社史料」などによれば「天長年間」に「天武」の治世があるとされ、さらにその「天長」が「大化」よりはるか以前の「七世紀半ば」を指すということとなれば、それを単なる偶然とすることはできないものであり、重要な一致であると考えるべきと思われます。
これらからは「大長」についてその元年が「壬辰」(「六四四年」)であり、「六五二年」までの九年間継続したと見ることもできることが推定できます。その場合「伊予三島縁起」の「壬子」という年は「六五二年」と考えるべき事となるでしょう。
「運歩色葉集」に記された「柿本人麻呂」の死去に関する記事もこれと整合していないということではないこととなります。
「(柿本人丸)大長四季丁未於石見国高津死」(運歩色葉集)
これによれば「大長元年」が「壬辰」となりますから、「伊予三島縁起」と一致します。そして上の推論に従えば「柿本人麻呂」の死去は「六四七年」のこととなります。
もっとも、これは従来の常識とまったく反していますから、これを不審とすることは簡単ですが、「柿本人麻呂」の生きていた実年代が別の史料から証明されない限りはこの説もすぐに消えることはありません。
この死去年次から考えて、「太后天皇」(利歌彌多仏利の皇后)の治世の終わりの時点と一致しており、彼は「殉死」したということも考えられます。また、万葉集に彼の「死」に際した歌が出てきますが、このように「臨死歌」が載せられているのは「有馬皇子」「大津皇子」と彼「柿本人麻呂」の三者だけであり、前二名は「刑死」した人物ですから、彼も「刑死」したと云う可能性さえ考えられます。
あるいは「皇子」に続くほどの高位の人物であったともいえるかもしれません。
また以下の史料では「三論宗」の国内への展開を「持統紀」としていますが、これは後代の「書紀」などによって得た知識に基づく「挿入」と思われ、「大長」という年号だけが初期の形を表していると思われます。
「持統天皇ノ御時大長元年壬辰三論宗広マル文武ノ時大長九年庚子倶舎宗広マル」(八宗伝来集 一六四七)(※)
この史料の趣旨は「三論宗」の普及と展開が「七世紀後半」から「八世紀前半」に掛けてのものであるとしている訳ですが、「三論宗」の倭国における始源は「七世紀前半」に来倭した「高句麗」の僧である「慧灌」によってもたらされたらしいことが以下の史料から推定されます。(ただし、彼は来倭後「三論宗」の講義を多年に亘り行わなかったとされ、「福亮僧正」への講義により、一般化したらしいことが以下の記事から理解できます。)
「三国仏法伝通縁起(中巻)」
「……孝徳天皇御宇大化二年丙午慧師慧輪智蔵三般同時任僧正。是三論講場日之勧賞也。智蔵上足有三般匠。乃道慈智光禮光也。…乙酉歳慧灌来朝。来朝之後二十一年未廣講敷。大化二年丙午初開三論講塲是即仏法傳日本後。経九十五年始講三論。其第二傳。智蔵僧正。未詳時代。応勘?史。…」
この「三国仏法伝通縁起」によれば「慧灌僧正以三論宗授福亮僧正」とされており、ここでいう「慧灌僧正」については「推古三十三年」(六二五年)来日とされており(同じく「三国仏法伝通縁起」による)「三論宗」が七世紀前半に伝来したことが窺えます。
そして「七世紀半ば」という時期に「講義」が広く行われた結果、一般に普及・拡大したものと推定されますから、この「大長元年」を「持統紀」つまり「七世紀末」とする事とは少なからず整合しないこととなります。
さらに「伊予三島縁起」には次のような記事も見られます。
「天武天皇御宇天長九年壬子六月一日為東夷征」
ここに書かれた「天長」が「大長」の誤記とすると、ここでは「天武天皇」が「東夷征」したとされています。この「東夷」が何を意味するかは不明ですが、「書紀」には「天武」が「東夷」を「征」したというような記述は見あたりません。これがいわゆる「蝦夷」を指すとすると、「書紀」を見ても「蝦夷」への武力対応は「斉明紀」に最も明確であり(「阿倍比羅夫」の遠征として描かれています)、それは「六五〇年代」ですからまさに「七世紀半ば」の出来事となります。その場合「壬子」とは既にみたように「六五二年」を指すこととなります。
「天武紀」にある「伊勢王」の「東国分限」記事がそれであるという可能性がありますが、それは「正木氏」の「三十四年遡上」研究に重なるものであり、この事も「書紀」の潤色・改定がこの記事により露見しているといえるのではないでしょうか。
以上より「大長」の実使用期間は「二中歴」にあるような「八世紀」代ではなく、「七世紀半ば」が想定されるものです。
(※)古田史学の会のホームページにて(九州年号資料)確認。
(この項の作成日 2013/08/03、最終更新 2014/11/28)