「七枝刀」とは「石上神宮」に秘蔵されていた「神宝」であり、先端を含め七箇所の枝上突起を持つ「刀剣」です。この「七枝刀」には「象眼」がされており、「銘文」が書かれていました。
〔表面〕
泰■四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
〔裏面〕
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖晋 故為倭王旨造 伝示後世
(なお「■」は明確には読めない部分です)
「暦」から考えて「泰■四年」という年号表示と「五月十六日」という日付、「丙午」という干支が重なる年次は存在しないことが明確となっています。
これが「東晋」の「泰和四年」を意味するとしても、あるいはそれ以外のどの王朝の「泰■」ないし「大(太)■」年号のいずれであっても、その「四年」、と言うよりその年号の「期間内」において「五月十六日」が「丙午」となる年次は存在していません。
ただし、これについては、「刀」や「剣」を造る際の「鍛冶職人」達の「火」に対する「信仰」から出た「常套句」であり、実際の「日付」を表したものではないという説もあります。
このような「練刀」の際の常套句であったとした場合、「日付と干支」は連結して使用される事はあっても「年次」はその適用からは除外されるものと思われ、銘文の「泰■四年」という表記は実際の年次を表していると考えられます。
このようなことを踏まえて「銘文」の「泰■四年」について考察してみると、通常いわれるような「東晋」の「泰和四年」(三六九年)とするにはやや無理があるのではないでしょうか。なぜなら、その「三六九年」という時点ではまだ「百済」は「東晋」に遣使していないと考えられるからです。
「百済」からの「遣使」が「東晋」に対して始めて行われたのは「晋書」によると「三七二年」(咸安二年)のこととされています。そして「鎮東将軍楽浪太守」号を授けられたのが同年六月ですから、「三六九年」段階ではまだ「柵封」されていない事とならざるを得ません。つまりこの「泰■」年号を「東晋の泰和」と判断する限り、史書に書かれた柵封の歴史とは矛盾することとなるといえるのです。また、それは「晋」を「聖晋」の敬称であるという理解にも及び、それも「東晋」の王朝に対するものとは考えられないこととなるでしょう。(記録にはないが遣使していたというような解釈をするしかなくなりますが、それは憶測でしかなくなります)
また、一説にはこの「七枝刀」が「東晋王朝」で(つまり中国)で制作され、「百済王」に下賜されたものを、さらに「コピー」を作って「倭国王」に贈呈したという考え方もあるようですが、いずれにしても「三六九年」にはまだ「東晋」と「百済」の関係(柵封関係)が成立していないという現状には変わりがない訳であり、遣使もしていない国に対して刀剣が「下賜」されるというのもあり得ないと思われ、論理としては破綻していると思われます。
更にこの「裏面」部分についてはコピーを造った際の「後刻」であるという説もありますが、その場合はこの「年次」を選ぶ必然性が説明可能でなければなりません。つまり、なぜ「泰和四年」なのかが説明できなければならないと言う事です。
明らかに史書に記された「遣使」の年次と矛盾するものを追刻することがどのような意味を持つのか多分説明は不可能でしょう。
また、「表面」だけを「東晋」で造ったとすると、同様の「剣」(刀)が他にもなければならないこととなるでしょう。つまり、「東晋」サイドで一方的に造られたものを「遣使」した「百済国」の使者が「拝受」した事となりますが、そのことはこのようなものが「汎用」として造られたことを意味することとなります。つまり他にも拝受した「候王」が存在することとなるわけですが、そのような事例が全く見られないことは重要ではないでしょうか。そのような事例が他にあればこその想定ではないかと考えられ、「孤立」した事例からそのような汎用性のあるものが造られたと考えるのは「無理」があると思われます。(この「七枝刀」はかなり異形ですから、簡単に廃棄されたり、紛れたりするような性格のものではないことは確かでしょう)
また、もしそれが実際にあったとすると各諸国の「候王」にそのようなものを頒布する、という「事情」が「東晋」側になければなりませんが、その様なものは記録から何も感じられません。ましてこのような「異形」ともいうべき一種「呪術的」なものをこの段階で製造し、配布する意義がどこにあるか疑問ではないでしょうか。(「東晋」では「道教」が盛行しており、この「七枝刀」の文言が道教的であるという指摘から関連があるとする立場もあるようですが、各諸国に配布するというには動機として稀薄と思われます。)
以上のことから「東晋」の「泰和四年」であるとは考えにくいこととなります。すると、他に可能性のあるものは、「南朝劉宋」の「泰始四年」(四六八年)ではないでしょうか。(レントゲン写真からは「偏の「禾」の部分がおぼろげながら見えるとされますが、実際には「傷」が多く、「線刻」なのか「傷」なのか見分けがかなり困難であるのは確かなようです。「和」と読んで「泰和」年号であるとすると「年次」の矛盾が不可避なのですから、それは「解読」に問題があるという可能性が高いのではないでしょうか。)
また「書紀」(神功皇后紀)に「七枝刀記事」があるのを以て「神功皇后」の時代と推定させる考え方もあります。
「神功皇后紀」はそこに引用された「百済王」の記事から「三国史記」とは「一二〇年」ずれていることが判明しています。つまり、「神功皇后紀」は「三国史記」より「一二〇年」過去側に書かれているのですが、これを修正すると「東晋年間」に該当します。このことから「七枝刀記事」と「七枝刀」の銘文は「合致する」というわけですが、「もし」この「七枝刀」に書かれた「泰■四年」を「東晋」の年号と見て、記事を書いたとしたらそれは補強資料としては使えないということとなります。つまり「書紀」編纂段階で「石上神宮」にあったらしいこの七枝刀の銘文を見て、それに合うように「記事」を造ったとしたら、上の推定は意味を成さないものとなるでしょう。「神功皇后紀」と合うから…というようなことは論証としては使えないということです。「書紀」にはそのような「いかがわしさ」があるといえます。
このような「異形」ともいえる「刀」は、「ただならない」ものであり、この形に重要な意味があったものと考えられ、単なる「贈呈(献上)」や「下賜」というものではなく、何かを「祈念」した「呪術的」意味合いが強かったのではないでしょうか。
「呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥」という部分にはそのような「邪」を払い「吉」を呼び込む意図があると考えられます。
つまり「七枝刀」の形状と共に銘文に関しても何かの「不幸」に際しての「邪」を払う意味があったと考えられます。それを考えると、これを「南朝劉宋」の「泰始」年号と理解した場合、「倭国王」「済」と「興」が相次いで死去した事件が想起されます。
このような「倭国王の「済」と「世子」「興」が相次いで亡くなるという事件は「倭国」と連係して「高句麗」と対峙していた「百済」にとってはある意味「大事件」であったと考えられます。状況によっては「後方支援」が得られなくなる可能性もあるわけであり、倭国王家に対し「助力」意志を伝えつつ、立ち直りを願う意味で「邪」を払う呪力を持った「七枝刀」(と「七子鏡」)を贈ったと言う事は十分考えられます。
また、「裏面」の記載から見て、その贈り元として「百済王と世子」が連名で書かれているようにも見えますが、これは贈られた相手も「王」とその次代の「跡継ぎ」となった「人物」である「武」という組み合わせであったという可能性を示唆するものではないでしょうか。
また、「百済」では「南朝」から「将軍号」を授与されているにも関わらず、「南朝」の年号は使用していませんでした。「武寧王」(斯麻王)の墓に納められた墓碑銘や売地券(あの世で土地を買うためのもの)の中にでさえも「干支」でしか表記されていないという事実があります。このようなことにはいくつか理由があったようですが、それにも関わらずここでは南朝の年号が使用されています。その理由を考えると、自分たちの背後には「南朝」がいる、という「危機」に際しての一種の「注意喚起」としての機能があったのではないでしょうか。つまり、ここで「七枝刀」を「贈る」という行為はその「南朝」配下の「将軍」としての「連帯感」を誇示する意味があったものと思われるのです。
また裏面の「奇生聖晋 故為倭王旨造」という部分もかなり難解ですが、実物を精視した各氏の言によると「晋」に似た部分はやはり「晋」であるとされています。また「奇生」については「熟語」としての使用例としてはかなり後代のものではありますが「明通奉大夫湖廣左布政使撫治兩廣地方兼廣東按察司副使陶公墓道碑文」の中に「…白沙先生曰:「公之治民如治兵,因應隨機,初無定體。其治兵也,如文士作文,奇生筆端,無事蹈襲,故能使人畏之,而率以取勝,此皆公精神心術之奧之運云。」…」というような例があり、この場合は「あやしくも生まれる」意であると思われます。
また「薬師寺東塔」の「察銘」に「猗興聖王」という表現があり、これに類似しているとはいえそうです。
この「猗」という字には「感嘆」を表す意味がありますから、この部分の解釈も同様の趣旨である可能性が考えられ、また「生」は古典では「生きる」ではなく「生まれる」という例の方が圧倒的ですから、結局この部分の解釈としては以下のものが可能性として考えられます。
『「百済王」の「世子」は「驚くべき事に」「聖なる晋」に生まれたものであり、そのゆえに倭王「旨」のために特にこの刀を造りました。』
このような解釈が可能ですが、上の文章の流れからは文意が不明です。「故」という「理由」を表す字がありながら、その後ろはちっとも理由付けになっていないのです。
また「倭王旨」については「倭王」である「旨」のことと考えられ、「中国風一時名称」であると考えられます。上の推定によれば、「旨」は「済」「興」と続き「武」につながる位置にいたと考えられるものであり、そうであればこの段階で一字名称が使用されているのは大変自然です。そして、この「旨」という人物は「倭王武」の「母」(皇太后)ではなかったかと推察します。
「武」は「父王」「兄王」が死去したため即位したものですが、彼等が死去した当時まだ「未成年」であったと考えられ、その間「済」の「皇后」であった人物が「皇太后」として「称制」していたのではないでしょうか。
「武」の「成長」を待って、改めて「即位」したものと考えられ、それが「上表文」が出された「四七八年」ではなかったかと推察するものです。
そう考えるのは、「興」が亡くなったのがこの「七枝刀」の銘文に書かれた「四六八年」であったと考えられますが、その「服喪期間」が「三年」あったと思われ、「四七一年」になって、「葬儀」となったと考えられます。 (この時点で「百済資料」に「辛亥年」に「倭国天皇太子皇子」がともに亡くなったと記されることとなったとったと考えられます)
「百済王」と「世子」はこれを深く悼み、「倭国王家」の再興と絶えない支援を頼みとして、「邪」を払い「幸わう」ために、「七枝刀」を送ったと考えられます。
しかし、「四七八年」まではさらに七年あり、この間も「服喪期間」であったとすると「長すぎる」と思われ、これは「武」の成人に達するまでの期間であったのではないかと思料します。そうであれば、この間「皇太后」が継続して「倭王旨」として「称制」即位していたと考えるものです。
「倭王旨」が「皇太后」であったのではないかという考えは、この「七枝刀」記事が「書紀」では「神功皇后」の時代のこととされていることからも覗えます。実際に受領したのが同じ女性である「皇太后」であったからこそ「神功皇后紀」に入れられているのではないでしょうか。
なお、「神功皇后紀」には「七枝刀」と同時に「七子鏡」が贈られたと書かれており、これについては「ボストン美術館」に所蔵されているものがそれではないかという説もあります。(岡倉天心が京都で購入したとする)
その鏡は、周囲に丸い突起が七箇所あるもので「七子鏡」という名称と形状が合致しています。
記録によればこの鏡及び環頭鉄刀などは、明治時代に「大仙陵古墳」(「仁徳天皇」陵)から同時に発掘されたものであり、また、出土状況などから考えて年代として「六世紀前半」が想定されています。
これらの「鏡」や「七枝刀」などは贈られた「倭王旨」から次代の「倭王武」へ伝来したと考えられ、彼が亡くなった際に「古墳」に奉納される事となったものと考えれば「六世紀前半」というのは不自然な年代ではありません。(但し「七枝刀」については「埋納」されず「神宝」として「石上神宮」に入ったと思われます。それは「伝示後世」という「銘文」に拠ったものではないかと思われます。)
つまり、「七子鏡」などの年代が「六世紀初め」となると、「七枝刀」自体についてもそれと大きく変わらない時期のものではないかと考えられることとなり、「埋納」されたか「神宝」として保管されたかの違いでしかないということも考えられることとなります。
「武」はかなり長生きしたと考えられ、「その治世」は「五十年近く」に渡ったものと思料されます。
「武」の上表文が出されたとされる「六七八年」を即位の年とした場合、「梁」の天監年間(五〇二年)にも「授号」されている記事があり、これだけでも三十年ぐらいとなるわけです。
これらのことから考えて「武」が「六世紀前半」に葬られたとしても不思議ではないと考えられます。
但し、その場合は「大仙陵古墳」が「武」の「近畿」における古墳であるということとなりますが、それはあり得なくはないと考えられます。
「武」はその上表文によってみても非常に強い権力があったと考えられるものであり、「大仙陵古墳」の巨大さはそれを表すものかもしれません。
もっとも、それは「武」の統治の中心地点が「近畿」であったことを示すわけではなく、この地方に「勢威」を示したことを「証拠」として残すために「巨大」な「古墳」を「作らせたもの」と考えられます。これはこの時期の前方後円墳全体に言えることですが、外部からの「圧力」によりこれらの古墳が作られたものと考えられます。
また、「仁徳」と「七枝刀」の関係を示唆するものが、「古事記」にある以下の「歌謡」です。そこでは「仁徳」が「七枝刀」を「佩(は)いていた」らしいことが歌われています。
(「古事記」中巻の四十八番歌謡)
本牟多能 比能美古/意富佐邪岐 意富佐邪岐
波加勢流多知 母登都流藝/須惠布由 布由紀能須加良賀/志多紀能 佐夜佐夜
「ほむたのひのみこ/おおさざき おおさざき
はかせるたち もとつるぎ/すえふゆふゆきのすからが/したきのさやさや
この歌は「七枝刀」を歌ったものとする見解があり(特にしたき(下木)さやさや(枝枝)という部分など)、それを「仁徳」の「皇子時代」に「佩いていた」ことを示すものとされます。
「神功皇后紀」に「無理」に「七枝刀記事」を持って行ったため、それを受け継ぐ相手が「武」ではなく「仁徳」になってしまったということのようです。
(この項の作成日 2012/06/09、最終更新 2014/11/28)