「卑弥呼」が「魏」の皇帝に「使者」を送った背景は、自分が「共立」されることとなった「不安定さ」があったものでしょう。彼女は「帥升」が施行した「郡県制」を維持しようとしたと思われますが、そのためには「邪馬壹国」自体の「てこ入れ」が必要と考えたわけです。
「邪馬壹国」とその「王」が「強い権力者」として存在しなければ、「郡県制」は維持できず、また「群雄」が割拠する事態となってしまいます。しかし、その時点では「不安定要因」だらけであり、それを少しでも減らすべく、外国勢力にバックアップを求めたのだと思われます。
しかし、「朝鮮半島」は「公孫氏」に制圧されていました。彼等は「後漢」の勢力の衰退に乗じ「朝鮮半島」を制圧し、それまでの「楽浪郡」に加え「帯方郡」を「分治」したのです。それを「魏」は認めていたものですが、「公孫淵」の時代になって、密かに南方の「呉」と連係することとなったようです。そして「公孫氏」と「魏」、「魏」と「呉」などの間の確執がピークに達して、ついに「魏」により「公孫氏」が滅ぼされるいう事態が発生することとなるわけですが、この時点に至って「邪馬壹国」は頼るべき相手を見極めたうえで、「魏」に使者を派遣したものです。
それも「朝献」、つまり「皇帝」に面会することを求めた、と言う事で、これは単なる「朝貢」であれば出先機関である「帯方郡」に持って行けばいいわけであり、直接使者(「難升米」と「都市牛利」)を「魏」のキまで派遣した、ということには別の意味があったはずであり、「倭国内」の主導権を握るための最後の方策であった事を示唆させるものです。
この時「魏」の皇帝は「倭国」の「遠方からの朝献」に強く感激し、多量の下賜物品を与えていると同時に「親魏倭王」という称号を与え、それを彫り込んだ「金印」を持ち帰らせています。(後に「帯方太守」が持って行ったもの)
そしてそれ等の下賜品について「魏」の皇帝は「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」というように「国中に示すように」指示しています。
これこそ「卑弥呼」が望んでいたことであり、自分のバックに「魏」がいることを「国中」に示し、国内事情を安定化させようとしたのでしょう。
このような努力にも拘わらず、敵対する卑彌弓呼率いる「狗奴国」というものがあり、彼の統治範囲であった「東方」の諸国が「卑弥呼」の率いる」倭国」に対して反旗を翻していたというわけです。これに対して軍事力を行使するにもかかわらず、戦果はかばかしくなく、やむを得ず再び「魏」に仲裁(というかバックアップ)」を頼んだというわけです。
「…其八年(二四七年)太守王斤到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。…」
これをみると、「魏」からの使者(塞曹掾史張政)が「詔書、黄幢」を持参し、「檄」を「告諭」したとされています。つまり、皇帝の「手紙」と「魏の軍」であることを示す「黄色」の「旗」、そして「檄」つまり(「卑弥呼」の国は「魏」の国の一部であること、「卑弥呼」に逆らうことは「魏」に逆らうこととなること、よって直ちに戦闘を停止すること、という一種の「命令」が書かれた文書ないしは「木札」)を戦争当事者である両国首脳に告げた、と言う事でしょう。
ただし、この「檄文」について『属国同士の戦いを禁じた「法」に違反しているから、双方に対して戦闘を止めるよう諭す』という内容であったとする説もあります。しかし、ここでは「詔書、黄幢、拜假難升米」とされ、「魏軍」を示す「黄幢」が「難升米」に手渡されていますから、明らかに「魏」は「邪馬壹国」側に立っています。「張政」という人物の存在や「黄幢」の存在は、「仲裁」と云うより「邪馬壹国側」の援軍として機能していたと云うべきでしょう。
「狗奴国」と「女王国」との争いについては、互いに中国の影響を考えるべきと思われます。「卑弥呼」は「魏」と連係して「狗奴国」との対立を解消しようと試みたようですが、「狗奴国」も「呉」などの勢力をバックに対抗していたと見られます。「狗奴国」の動きにはそれを感じさせるものがあるようです。
「狗奴国」は「卑弥呼」が「魏」から「金印」などを下賜されたことを知っていたはずであり、「魏」と「卑弥呼」とが親密であるとわかっていたのにも関わらず行動を起こしているように見えます。彼らのこの行動力の源泉としては「魏」のライバルであった「呉」の存在があると考えられるでしょう。「呉」は「魏」に滅ぼされる「二八〇年」まで、「魏」に対抗して勢力を維持しており、海外でも「呉」側につく勢力がかなりあったものと推量されます。
この「狗奴国」のような強力な国が「卑弥呼」の「倭国」の外に存在しているわけであり、「倭国内」をまとめる困難さに加え、そのような国内事情を見透かした上で軍事的圧力を加えてくる勢力もあったわけですから、「卑弥呼」の「統治」は非常に困難であったものと考えられるものです。このような困難さの中で「卑弥呼」は死去し葬られたわけです。
「其八年(二四七年)…卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩臺與、臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」
ところで、この「倭人伝」の「其八年」以降の記事は「一連」のものと考えられ、「卑弥呼」の「死」についても「其八年」の年次の出来事として書かれているのではないかと思料します。
従来この「卑弥呼」の死や、「壱与」の貢献はもっと後の事と解釈されているようですが、この記事の書き方からも「其八年」の年次の項として書かれていると考えるのが妥当でしょう。
「張政」は「詔書」を携えており、このことは「帯方郡」からではなく「洛陽」から派遣されてきたという可能性もあります。
分注には確かに「遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状」とあり、「帯方郡」へ窮状を訴える使者を送ったようですが、それに対し「太守」が独断で「張政」を派遣したとは考えられません。彼は「洛陽」に使者を送り、「皇帝」の指示・決裁を仰いだものと思料します。それに対して「皇帝」は「詔書」を下し、「張政」を派遣したものではないでしょうか。
彼が派遣された目的(趣旨)は「倭国王」からの「支援要請」に応えることですが、より重要なことは「魏」の大義名分を「倭国内」の諸国に認めさせることであり、「檄」を告諭し、それを「狗国」が飲むか飲まないか択一を図ったものと思料します。それに対し「狗奴国」としても「魏」と全面的な対決姿勢を取ることまでは考えていなかったと見られ、(「魏」が「本気」で介入してくる可能性を考慮したか)「檄」の意味するところを受け入れ、戦闘」はその時点において停止し、「和議」が交わされたものと思料します。そうであれば、その時点において彼は「職責」を果たしたものであり、その時点で速やかに帰国することとなったはずです。その彼(張政)の帰国に、「壱与」の貢献のための使者が同行したものですが、従来はこの「壱与貢献」記事部分だけを「西晋の泰始二年」(二六六年)の貢献記事(※)と見て、それまで「張政」が「倭国」に滞在していたとする説が多いようですが、そのような長期間の滞在というものは考えられません。そのようなことは「朝命」に反しているといえるでしょう。彼(張政)には「皇帝」から与えられた「任務」を速やかに終え帰国して報告する「義務」があったはずであり、「勅使」など「皇帝」の命を受けている場合、「復命」は絶対であり、可及的速やかに帰朝して報告することは彼に課せられた「義務」でもあったはずです。
「明帝」が死去後「斉王」「曹芳」が即位し「正始」と改元されました。この「曹芳」から「張政」は「朝命」を下されたと考えられますが、彼の代は「二五四年」まで続き、その後「曹髦」が即位します(二五四年)。この時点で「張政」に「詔書」を与え、「朝命」を下した「皇帝」は変わってしまっています。もし「張政」が「倭国」に長期間滞在していたとしても、少なくともこの時点以降速やかに「帰国」し、「新皇帝」に拝謁し、「前皇帝」から受けた「朝命」に対する帰朝報告を行い、また新任務を拝命されるのを待つこととなるべきではないかと感じられますが、それが「西晋」成立まで遅れたとすると、彼はほとんど「今浦島」状態ではないでしょうか。
皇帝の代変わりがあったり、新王朝が始まると「冠位」や「制度」が変更になることがあるのは当然であり、そのような中で「倭国」へ「行ったきり」になって帰国しなかったとは措定できないこととなります。(当然彼の「位階」もとっくの昔に変更になっているはずでしょう)
そのような中で長期間に亘って「夷蛮の地」に滞在し続けたということを措定することは全く不可能であると思われます。
そもそも彼は「単独」で「倭国」に来たわけではありません。それは「張政等」という表現にも現れており、彼の他にサポートメンバーとでも言うべき人員が随行したと見られます。
後の例から考えても、彼のように「戦地」へ赴いて「告諭」するという「告諭使」の場合彼を含めて十名前後の「告諭使節団」が形成されていたと思われます。たとえば(ずっと後代ですが)「隋」から派遣された「裴世清」は「宣諭使」であったわけですが(これは「告諭使」とほぼ同様の職務があったと思われます)、彼の場合も彼を含め十名ほどが派遣されていたものと見られます。そもそも危険地帯と見なされている場所へ行くわけですし、また彼らの「告諭」に関係者が応じず、逆に攻撃に晒されるという可能性さえ考えられるわけですから、兵士を含む「軍関係者」をその中に当然含んでいたものと思われます。それらのことを考えると、彼らが一斉に長年月倭国に留まったとはとても考えられないと思われます。(後の「宣諭使」や「会盟使」などにも長期滞在した例がありません)
また、この文章が書かれたのが「魏志」の中であることも重要であり、「晋朝」への「貢献」はここに書くべき事ではないと考えられ、そう考えれば、この部分についても「正始年間」の記事として書かれたと理解するのが正しいと思われます。
つまり「張政」は「停戦」と「卑弥呼」の死及び「新倭国王」の即位という一連の事象を見届け、「その年の内に」帰国したものであり、「壱与」はその「張政」の帰国に合わせ「感謝の意」とさらなる支持を求めて貢献したものでしょう。その後「西晋」朝廷の成立に合わせ(二六六年)に再度「貢献」を行ったと理解すべきなのではないでしょうか。つまり「西晋」への貢献はこの「張政帰国」に合わせて行ってものとは別の時点の話と考えられるものです。(中国側の「王朝」交替に併せ、使者が別途遣わされたと考えるのが通常ではないでしょうか。)
逆に言うと、「卑弥呼」は「支援」を要請して「張政」が倭国を訪れたその年(二四七年)の内に「死去」したと考えられることとなるでしょう。
ここでは「卑弥呼以死」と書いてあります。それが「戦死」(あるいは「戦中死」)か宮殿内での病死なのか死因としては一切不明です。
ここで使用されている「以」の語義については従来から「諸説」があり、「理由」の意義として考える場合や、「とにかく」という「軽い」状況の説明としての使用法であるという考え方もあるようです。しかし、「辞書によると『「古」は「已」と同じ』とも書かれており、「已」の項目では「already」に相当する用例などがあります。つまり「張政」が来倭した時点では「已に」「卑弥呼」は「死去」していたということを言わんとするものという解釈も当然可能であると思われます。
(漢籍に使用例を検索すると「漢書」と「旧唐書」に「既に」という意味のものが確認できます)(※)
考えてみれば「病死」なのか「戦死」なのか、「張政」が来てからであれば何か「死因」らしき事を書いても良さそうなものですが、それらは一切書かれていないのも不審です。それは「卑弥呼」の「死」が「張政」の来倭の前の出来事であったために書いてはいない(書けなかった)と考えるのが妥当ではないかと思われることを示します。(皇帝からの詔書が当初「卑弥呼」ではなく「難升米」に渡されたことも、彼が来倭した時点で「卑弥呼」が「不在」であることを示すものであり、既に死去していたことを示すものと思われます。)
「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(大いに冢(ちょう)を造る)と書かれており、多くの人手を要したものと推察されますが、さらに「殉葬者」が「奴婢百餘人」であったと書かれています。
「吉野ヶ里遺跡」の場合は「歴代」の王のため(つまり何代にも渡る遺跡と言うこと)、「殉葬」と思われる「甕棺」の数が非常に多いのと、「濠」の内側の甕棺と外側の甕棺とで「身分差」のある「複数」の階層の人たちによる「殉葬」があったようにも思われ、「卑弥呼」のように「奴婢」だけではなかったことと考えられます。
このことは「卑弥呼」の墓を造った際には「倭国王」としてはかなり「少人数」の「殉葬者」であったこととなるわけであり、それは「狗奴国」との戦闘の中という時点の死去といういわば「非常時」であることを反映しているようです。
つまり、「周」や「殷」王朝の場合などの場合は「殉葬者」は生前に側近くで仕えていた人々も含まれるものであり、通常であればこのような階層の人たちは主君である「王」の近くに葬られるものと考えられ、「吉野ヶ里」遺跡はそのような「平時」の「墓」の状態を示していると考えられます。しかし、「卑弥呼」の死に際してはそのような側近達も共に葬られるというわけにはいかなかったと見られます。なぜならば「狗奴国」との戦闘はまだ継続していたか、停止していたとしても直後であったと見られ、「卑弥呼」の後継者選びもままならない中では「主君」と共に死んでるわけにも行かなかったものと思われるものです。
※以下は「晋書」の「倭国」貢献記事です。
「晉書/帝紀 帝紀第三/世祖武帝 炎/泰始二年
「二年十一月己卯,倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。罷山陽公國督軍,除其禁制。」
※以下は「以」が「既に」という意味に使用されている例です。
「漢書/列傳 淮南衡山濟北王傳第十四/淮南脂、長」
「…爰?諫曰:「上素驕淮南王,不為置嚴相傅,以故至此。且淮南王為人剛,今暴摧折之,臣恐其逢霧露病死,陛下有殺弟之名,奈何!」上曰:「吾特苦之耳,令復之。淮南王謂侍者曰:「誰謂乃公勇者?吾以驕不聞過,故至此。」乃不食而死。縣傳者不敢發車封。至雍,雍令發之,以死聞。上悲哭,謂爰?曰:「吾不從公言,卒亡淮南王。」?曰:「淮南王不可奈何,願陛下自ェ。」上曰:「為之奈何?」曰:「獨斬丞相、御史以謝天下乃可。」上即令丞相、御史逮諸縣傳淮南王不發封餽侍者,皆棄市。乃以列侯葬淮南王于雍,置守冢三十家。」
ここでは「淮南王」が「既に死んでしまった」ということを聞いた、という意味と解釈できます。
「舊唐書 志第三十/刑法
「…及太宗即位,又命長孫無忌、房玄齡與學士法官,更加釐改。戴冑、魏?又言舊律令重,於是議絞刑之屬五十條,免死罪,斷其右趾。應死者多蒙全活。太宗尋又愍其受刑之苦,謂侍臣曰:「前代不行肉刑久矣,今忽斷人右趾,意甚不忍。」諫議大夫王珪對曰:「古行肉刑,以為輕罪。今陛下矜死刑之多,設斷趾之法,格本合死,今而獲生,刑者幸得全命,豈憚去其一足?且人之見者,甚足懲誡。」上曰:「本以為ェ,故行之。然?聞惻愴,不能忘懷。」又謂蕭?、陳叔達等曰:「朕以死者不可再生,思有矜愍,故簡死罪五十條,從斷右趾。朕復念其受痛,極所不忍。」叔達等咸曰:「古之肉刑,乃在死刑之外。陛下於死刑之?,改從斷趾,便是以生易死,足為ェ法。」上曰:「朕意以為如此,故欲行之。又有上書言此非便,公可更思之。」其後蜀王法曹參軍裴弘獻又駁律令不便於時者四十餘事,太宗令參掌刪改之。弘獻於是與玄齡等建議,以為古者五刑,?居其一。及肉刑廢,制為死、流、徒、杖、笞凡五等,以備五刑。今復設?足,是為六刑。減死在於ェ弘,加刑又加煩峻。乃與八座定議奏聞,於是又除斷趾法,改為加役流三千里,居作二年。」
この場合は「太宗」が「既に死んでしまった者を生き返らせることはできない」と言っていると解釈できます。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2014/09/09)