本サイトを初め、ギリシアの彫刻や陶器を扱った書籍などではそれぞれの陶器に対してある程度明確な年代が記されていて、特にアテナイの陶器には前500-480年、あるいは前460年頃などといったかなり限定された年代付けが行われています。しかしなぜそれが可能なのか、あるいはどのような手順によってそれが行われているのかが詳しく説明されることはあまり多くありません。ここでは陶器と彫刻を中心にこの年代付けの原則を説明していきたいと思います。

ギリシアの年代区分

 まずは一般的に用いられている年代区分を見てみましょう。

 クレタやキュクラデス諸島、そしてミュケナイを初めとするギリシア本土で栄えた青銅器文明は前13世紀末には急速に衰退し、前12盛期中頃には終息を迎えました。代わって美術品や遺物の極端に少ないいわゆる暗黒時代に入りますが、その変化は以前考えられていたほど劇的なものではなく、アテナイの陶器などには連綿と続く発展をたどることができます。最近では前代の様式を色濃く残す時代を亜ミュケナイ時代、後の様式の前段階を成す時代を原幾何学様式時代と区分していますが、その発展のスピードには地域差があって一律に述べることはできません。

 前900年頃からはその名前が示す通り、幾何学的な文様を施した陶器の生産が盛んになるとともに、各地にポリスが誕生し、その後期には地中海沿岸地域への植民活動が活発に行われました。なお幾何学様式は前期・中期・後期に区分され、さらに細かい分類が行われることもあります。前700-600年頃の東方化様式時代はオリエント世界との接触がその美術に強く影響を与えた時代で、大型の彫刻が初めて作られた時代でもあります。アルカイック時代はギリシア美術が大きな発展を遂げた時代で、東方から吸収した技術をすっかり自分のものにして、まだ粗削りながら力強い作品を数多く残した時代といえます。

 ペルシア戦争を境にして古典時代に入るとギリシア美術はまさに成熟期に入り、後代の著作家が絶賛した彫刻家や画家が華々しく活動した時代です。アレクサンドロス大王の登場あるいはその死を機にヘレニズム時代を迎え、それまでの理想美から、よりリアルな表現を追求するようになりました。

 上のような年代区分は広く認められているところですが、それぞれの区分の前後で急激な変化が見られるわけではなく、徐々に発展していくその様式を分類するための人為的な線引きであることを忘れてはなりません。

相対年代と絶対年代

 では本題に戻りましょう。年代付けの方法は大きく二つに分けられます。相対年代はその名前が示す通り、複数の遺物の相対的な比較から成り立っていて、例えばAよりBが新しい、BよりCが新しい、CよりDが新しいとなれば、当然A−B−C−Dという位置づけが成立します。しかし注意しなくてはならないのは、これはあくまでそれぞれの相対的な前後関係を示すものであって、これだけではいつ頃に制作されたものかを明らかにすることはできないということです。それを可能にするのが絶対的な年代の明らかな資料です。

 年代の降る陶器にはその時代のアルコンの名前が記されたものがありますし、神殿に付属する彫刻はその建物の建立年代が明らかなものもあります。またマラトンの塚やアクロポリスのペルシアによる破壊の瓦礫の中から発見された遺物は少なくともそれ以前の時代に制作されたことが推測されます。しかしほとんどすべての遺物が相対年代の資料となりうるのに対して、この絶対年代の資料として有用なものはごくわずかしかありません。正確な年代付けにはこの二つの手法を正しく組み合わせていくことが不可欠といえます。

相対年代

 相対的な年代は既に述べたように複数の遺物の様式的な変化をもとにその前後関係を位置付けることによって成り立っています。この様式の変化は当時の社会の流行やニーズの変化、あるいは技術的な進歩によってもたらされることが多いようです。その変化を読み取っていくことは一見かなり複雑な作業にも思えますが、同じような事例は実は現代社会にも数知れないほど存在しています。

 その代表的な例が自動車でしょう。フォードが自動車を生み出してから現代まで、様々な技術革新と流行の変化を経て、その姿は時代ごとに大きな変化を遂げてきています。数十年前の車と現在の車との新旧関係を見分けられない人はほとんどいないでしょう。自動車の中でも特殊な例であるF1マシンを見ても、空力に関する知識の増加によってその形態が変化しているのは明らかであるし、マニアにとって見ればそのその一つ一つのマイナーチェンジさえも言い当てることができるでしょう。

 またある意味で彫刻に近い事例を挙げるとすれば、リカちゃん人形などはその誕生から数代を経て現在に至りますが、初期の頭の大きくいかにも人形らしいプロポーションから、日本の欧米化にともなう嗜好の変化に伴って、バービー人形のような女性の理想ともいえるようなプロポーションに変化しています。このような例は他にもいくらでも見出すことができるでしょう。

 しかし注意しなくてはならないのは、様式的な違いがすべて年代的な違いによってもたらされるわけではないということです。例えば数十年前のリカちゃん人形と同時代のバービー人形を比べて、プロポーションがよいからといってバービー人形が新しいわけではなく、それが制作された地域の違いによっても様式の違いが現れることを忘れてはなりません。

 もう一つ重要なのは、その出来が悪いからといって古いわけではないということです。確かに年代の古いものには技術的な発展が不十分で劣った印象を与えるものもあります。しかし工業的な製品は別として、人間の手で製作されるものには作者の腕の優劣が必ず表れるもので、例えば備前焼の陶工と素人が全く同じ材料を使って制作したとして、劣っているからといって素人の作品が古いわけではないのと同じです。

 厄介なのは、芸術家や工芸家には革新的な性格のものと保守的なものが存在することです。様式的に見て同年代と思われる作品AとBがあるとして、もしAの作者が他の作品から考えて革新的な人物であり、Bは保守的な人物だということになれば、Aはより古い年代に、Bはより新しい年代に位置づけられる可能性があることになります

 いよいよ実際のギリシア美術の相対年代を決定していく様子を上に述べた点に注意しながら観察していきますが、相対年代の資料となるのは様式だけではないことを加えておきたいとおもいます。二十世紀に入って遺跡の発掘には科学的な方法が取り入れられるようになり、出土状況が細かく記録されるようになったおかげで、遺物がどの場所のどの層から出土したのかが記録されており、相対年代を決定する上で極めて重要な情報を与えてくれています。

 一般的に地面を掘り下げていけばより古い時代の層へと進んでいくことは既に自明の事実となっていますが、これは川の氾濫などによって土砂が堆積し、下の層を覆っていくためです。下の層ほど古いとなれば、当然上の層より下の層から出土した遺物のほうが古いと考えられます。しかしこれには多くの例外があります。まずAという層から出土した遺物についていえることは、その層が堆積した時代と同年代かそれより古いということだけで、例えば代々受け継がれてきた大切な陶器がついに壊れてしまって、制作から百年後に捨てられたというような可能性も考えられます。

 次の画像は実際の堆積がどのように行われ、人為的な活動によってどう変化するかを簡単に表したものです。

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 コマを進めれば分かるように、level.2の層に掘られた墓穴の上に墓標として立てられた陶器は間もなく土に埋もれましたが、level.6が堆積した時点で崩壊した神殿の一部を埋めるために穴が掘られた時に掘り返され、地表近くに表れています。次のlevel.7の層との間に挟まれたこの部分がどちらにも属さないことは発掘が綿密に行われれば明らかになることですが、攪拌されているためにもともとどこの層にあったかを推測することは困難になっています。もしこの層に新しい時代の遺物が混入していれば信頼すべきはそちらの資料であって、このような古い時代の遺物が混入する可能性は常にあることを心に留めておく必要があります。

 またlevel.4の上に立てられた彫像が埋もれたのは最後のlevel.8の時代で、やはり古い時代の遺物が混入した例の一つといえます。逆にlevel.5の上に立てられた神殿の一部が崩壊して穴に埋められ、level.3の遺物の近くから発見されることになりますが、注意深く観察すればその残骸を埋めている土がlevel.7のものであることに気づくはずです。

 下の層を発掘することは上層を破壊することでもあり、後の研究にとって必要な情報をもし記録していなければ単なる宝捜しに過ぎなくなってしまいます。遺物の相関関係を探るにはこうした記録を様式の発展に照らし合わせて細かく研究することが求められます。

 さて話を戻して、まず陶器を例にその相対年代を様式的に決定していく手順を追っていきましょう。ギリシアで制作された人物や動物の装飾された陶器は、幸運なことに二つの様式的側面からその新旧関係を探ることができます。まずその一つは器形です。この形式的側面からの研究は装飾の施されない無地や黒色の陶器にも当てはめられます。

 下の図はワインと水を混ぜるのに用いられたクラテルという器形の中でもカリュクス・クラテルと呼ばれているものです。その比較から、左から右、あるいは右から左へと発展していったことは容易に予想できると思います。層位学やその他の側面から、左から右へ発展したことが裏付けられていますが、こうしたずんぐりとした形からスレンダーな形へと発展する傾向はアルカイック時代の終わりから古典時代末期のほかの器形にも共通してみることができます。



 では、次に陶器に用いられた装飾を見てみましょう。下の三つの装飾はどれもやや角張ったロータス文と扇形のパルメット文で構成されています。研究により上から下へ発展したことが明らかになっていますが、二つの装飾要素が交差するように配置されていたのが、同じものが一つおきに並び、鎖状に繋がれているのが分かると思います。またそれぞれの要素が細長くなって、ロータス文は原形を留めないまでにスリムになっています。これは580-500年頃の黒像式/赤像式のアンフォラに用いられた文様で、年代を決定する際の重要な資料のひとつとなっています。





人物の描写についても年代による発展を追うことができます。下の図は左から六世紀末、五世紀中頃、四世紀前半の人物の頭部の表現です。鼻や口にはそれほど大きな変化は見られませんが、目の表現を見るとその展開は明らかです。左の図では、顔は横向きでありながら、目は正面から見た形で描かれています。鼻や口を隠してみると良く分かると思います。中央の図では、目の左側、顔の正面にあたるほうが開いていて、目も横から見た形で描かれていることが分かりますが、まだどこか不自然な感じがします。右の図を見ると、ほぼ完全に横向きの形を捉えていることが分かります。
六世紀には既に正面向きや斜め正面を向いた顔も試みられていますが、いずれも現実的な表現から程遠いものになっています。しかし五世紀にはかなり表現も上達して、四世紀には斜め向きの表現が多用されています。