アルカイック時代のコイン


 世界で最初のコインは小アジア、現在のトルコの西岸地帯で生まれました。その時代は前七世紀の終わり頃と推定されていますが、最初に作った都市がどこかはまだ明らかになっていません。その素材は金と銀の合金エレクトラムで、リュディアの首都サルディス近郊の川がその採取地だと考えられていますが、最も原始的なコインはその西にあったギリシア植民都市エフェソスで作られたものです。このコインには何の図柄もなく、表裏とも打撃の跡が残るだけです。

 六世紀の中頃、クロイソス王の治下にあったリュディアではこれまでのエレクトラムに変わって金製あるいは銀製のコインを発行するようになりました。この頃のコインの裏側はやはり打撃跡のみですが、表側にはその都市を象徴する図柄が表されるようになりました。しかしリュディアは546年にペルシアによって滅ぼされ、沿岸のギリシア諸都市もその支配下に置かれました。

 ギリシア本土およびその近郊で最初にコインを導入したのはアテナイの南西にある島アイギナではないかと考えられています。540年頃にこの島でコインが作られると、まもなくアテナイやコリントス、カルキス、エレトリアといった各地でもその生産が始まりました。それとともに、打撃跡のみであった裏側にも図柄が表されるようになります。525年頃には南イタリアやシチリアの諸都市でもその生産が始められましたが、五世紀初め頃までのコインの特徴として、表のデザインを裏では構図はまったく一緒なのにその凹凸をすべて逆にしたものを表しています。

古典時代のコイン


 ペルシアがギリシアの制圧に乗り出した五世紀初頭から、ペルシアのダレイコス金貨が最も信頼できる貨幣としてギリシアでも流通するようになります。サラミスやプラタイアでの戦いでギリシア軍が勝利した後でもその影響力は衰えませんでした。

 一方その勝利の立役者となったアテネはエーゲ海の島々や小アジアの各都市とともにデロス同盟を結成しましたが、現実的にはアテネの一国支配であり、同盟の金庫をデロス島からアテネに移し、さらにアッティカ南部のラウレイオンで銀山が発見されると他国でのコインの生産を制限し、女神アテナとフクロウを表した自国の銀貨を大量に発行し流通させました。しかし431年にアテネがペロポネソス同盟に敗れてからは再びエーゲ海諸都市でもコインの生産が始められました。

 一方こうした戦争の影響をあまりうけなかった南イタリアやシチリアの都市では本国よりも優れたコインを生み出していました。中でもシュラクサは作者のサインが記されるほどで、彼らは自らを芸術家と意識していたのではないでしょうか。しかしこれらの都市も各ポリス間の争いやカルタゴ人の進入などによって衰退し、コインの質も低下していきました。

ヘレニズム時代以降のコイン


 ギリシア本土においてはアテネの敗北以降スパルタ、テーバイといった都市が権力を握りますが、全土を支配するような力はありませんでした。四世紀の後半になるとマケドニアのフィリポス二世、さらにアレクサンダー大王がギリシア全土、さらにはアジア地域を一気にその勢力下においてしまいます。それまでのギリシアのコインのデザインはいずれも神々や動物などを用いていたのに対し、マケドニアでは王の支配力を誇示するためにみずからの姿をコインに刻ませました。

 ギリシア各地ではマケドニアの支配下にあっても独自のコインを発行していましたが、銀貨よりも青銅貨のコインの生産が盛んになり、その質も低下していきました。アレクサンダー大王の死後、マケドニアはいくつもの王朝に分裂しましたが、いずれの国も王の姿を刻んだコインを発行しました。

 ローマ時代になり、各都市ともその支配下に置かれましたが、それでも独自のコインを発行する都市がいくつもありました。その一方でローマ人はギリシア各地に造幣所を作り、ローマ皇帝の姿をあらわしたコインを発行させていました。