パルテノン神殿とその特徴


パルテノン神殿はギリシア神殿の典型として語られることが多い。しかし実際には極めて特異な例であって、ギリシア神殿の様々な要素と高度な技術を結集して始めて為し得たものなのである。

ギリシアの神殿にはごく小さな、社のようなものから、世界の七不思議に数えられるような壮大なものまで大小様々であったが、大型の神殿の典型は円柱を正面と背面にそれぞれ6本、側面に12本前後の円柱を配するものであった。イオニア地方では一部の大型の神殿をより荘厳なものとするために、その外周にさらにもう一列円柱を配列したものが現れる。また同じイオニア地方で、その豪華さを残しながらコストを削減するために、外周を残したまま内周の円柱を取り除いた神殿も登場する。

さてパルテノン神殿だが、こちらでは正面と背面にのみ六本ずつの円柱を配列し、その外周にもう一列円柱を置く8×17のプランを取る。しかしはじめからこの新奇なプランが企画されていたわけではない。

現在神殿の建つ場所はもともと丘の斜面に当たる。この神殿建立のために丘の周壁を拡大し、神殿の南側には10mを超える基礎が必要となった。そしてマラトンの戦いの直後にその建立が始まったのだが、この時点では6×16という、やや細長い点を除けばほかの神殿と変わらないプランが計画された。しかし再びペルシア軍が来襲し、アクロポリスも占領、炎上し、神殿建立も中断され、再建が始まったのは447年のことであった。

それと同時にプランも変更されたが、その理由は完全に明らかにはなっていないけれども、デロス同盟からの豊富な資金を元にアテネの富と権力を誇示するためというのもその理由の一つであろう。

プランを変更したことによって、基礎も変更する必要が生じた。しかし新しくやり直すのではなく、北側の基礎を拡大することによって対処した。

外周および内側正面背面の円柱にはドーリス式が採用された。しかしずんぐりした重厚なドーリス式をこれまでにないほど細くすることにより、柱を八本に増やしたことで生じる重苦しさから解放された。後室にはイオニア式の円柱が四本採用されているが、二つの様式が一つの神殿に用いられることは少なく、パルテノンを特異な神殿としている要素の一つである。

その外周の梁にはドーリス式に従ってトリグリュフとメトープが交互に配されているが、全周のメトープすべてに浮彫りが施されることは希で、92面を数えるメトープの彫刻にはかなりの労力が費やされたことであろう。

さらに特異なのがイオニア式に用いられるフリーズ状のレリーフが内周の梁に用いられていることで、ドーリス式神殿にフリーズ彫刻が用いられるのはパルテノンを除けば唯一アッソスのアテナ神殿のみである。

この縦1m全周160mに及ぶこのフリーズにはパンアテナイア祭に参加するアテネ市民が表わされているが、神の家である神殿に人間を表現することは前例がなく、したがってこの場面も当時の市民たちではなく、パンアテナイア祭の起源を表わした半神話的な場面であるとか、マラトンの戦いで命を落した戦士を表わしたものであるといった様々な解釈が成されており、現在でも決着を見ていない。

破風にはアテナの誕生と、アテナとポセイドンのアテネの領有をめぐる争いが表わされている。これは当時の彫刻の最高傑作であるばかりでなく、ギリシア彫刻の最高傑作ともなっている。

通常の神殿の瓦にはテラコッタが用いられていたが、パルテノンではすべてが大理石で作られている。なおこれはパルテノン神殿に限られたことではないのだが、神殿の各所には赤や青などの色彩が惜しみなく用いられており、我々の思い描く白亜の神殿というイメージとは程遠いものであったと考えられている。

ところで、パルテノンの特徴として語られるものの一つに人間の視覚の特徴を意識した設計がなされているという点がある。最も外側の柱はほかの部分に比べて隣の柱との間隔が狭くなっているとともに内側に傾いている。これは等間隔にならべると人間の目には外側に行くほど間隔が広がって見えるという特徴と、外側の柱は外に傾いて見えるという特徴を補うためであると説明される。このほか床の中央部が外側よりもわずかに盛り上がっているのも同じような理由で説明されている。

最後に神像について述べておこう。本尊はギリシア最高の彫刻家フェイディアス作のアテナ・パルテノス像で、台座を含めた高さは10mを超え、基本的には木造だが、肌の部分にはすべて象牙が用いられ、衣服や装飾には金がかぶせられた。金の総重量は約一トンといわれ、これほど豪華な彫刻は同じフェイディアス作のオリュンピアのゼウス像だけである。

アテネがペロポネソス同盟に敗れ、他国の勢力に脅かされるなかで以前のような繁栄を取り戻すことはなく、パルテノンやパルテノス像に用いられていた金は次々と取り去られてしまった。キリスト教時代には教会として、イスラム時代にはモスクとして用いられながらもほぼもとの姿を保っていたが、1687年、トルコの火薬庫となっていたパルテノンをベネチア軍の砲弾が命中し、パルテノンは爆発炎上して大きな被害を受けた。19世紀初頭、イギリスのエルギン卿が残っていた彫刻のほとんどをイギリスに持ち去り、そのコレクションは現在大英博物館に展示されている。パルテノンの復元作業は現在も続けられており、少しずつ旧来の姿を取り戻しつつある。