モーレツからビューティフルへ(富士ゼロックス)
前回で「オー・モーレツ!」を取り上げてしまった関係上、今回は、もう、この「モーレツからビューティフルへ」を紹介せざるを得ないわけであります。
このCMの放映は、1970(昭和45)年ということで、カレンダー的には60年代ではありませんが、私の言う60年代というのは、以前にも、どこかで書かせていただいた通り、本当の60年代に前後5年を加えた20年間、つまり、1955年〜1974年辺りが対象となっておりまして、このCMが放映された1970年という年は、立派に60年代なのであります。
また、60年代的なモノへの決別を告げたCMという言われ方もされてはいますが、その一方で、CM史的な観点からは、前回の「オー・モーレツ!」とのワンセットで評価されていますから、60年代という時代にとっても深いつながりを持つCMであることも確かで、その意味でも、60年代のTVCMという括りに入れさせてもらってもいいのではないかと思うわけです。
なお、70年代のCMを紹介させてもらう今回で、このコーナーも終わりなのかなと心配される方もいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。まだ、手持ちのネタの半分も紹介していませんし、長岡の実家にも大量のビデオが埋もれていますので、今後も、延々と、このコーナーは続きます。これからも、よろしくお付き合いください。
ということで、本編の、CMの紹介に入ります。
このCMは、本来、動画で見てもらわなければ、ほとんど意味がないんじゃないかなという思いをひときわ強く抱かせる作りとなっております。もちろん、このコーナーで取り上げさせていただくCMは、すべてTVCMであり、本来的には、すべて動画で見てもらうべきなのですが、とりわけ、この富士ゼロックスのCMはTV以外では表現し得ないのではないかと言うべき作品だと思います。
CMの作りとしては、ナレーションは一切入らず、初めから最後まで、加藤和彦が自ら歌っていると思われる「ビューティフル、ビューティフル」とリフレインするだけの曲がバックに流れ、画面では、松屋の前辺りと思われる銀座の歩道を、当時の典型的ヒッピースタイルという格好をした加藤和彦がBEAUTIFULと書かれた紙と花を持って、フラフラと歩き、最後に、画面がポーズしたところで、「モーレツからビューティフルへ」「XEROX」の文字が流れていくというだけのものです。
蛇足ながら、ヒッピーは当時、フラワーチルドレンなどという呼ばれ方もしておりまして、加藤和彦が紙と一緒に花を持っている画面は、そんなことも連想させます。
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もう殆ど考えうるCMのパターンは全て出尽くしたのではないかと思われる1997年という今から振り替えれば、別に、どうということもないCMかもしれませんが、確かに、今から30年近く前の1970年という時代においては、やはり、衝撃的なCMだったのだろうと思います。当時、生意気盛りの中学3年生だった私も、ほとんど言葉を失ってしまうほどのショックを受けたのを覚えています。
XEROXは、ある一定の年齢から上の人たちにとっては、「コピー」という言葉と同義であるほど、コピーマシンの代名詞となっている会社でありますが、1970年という、まだまだコピーマシンが一般に普及する以前の時代に、企業名や商品名を強調しない、こういうCMを流してしまっていたというところに、改めて、驚かざるをえないわけであります。
ちなみに、私が初めて個人的に自分でお金を払って街中の店先に置いてあったコピーマシンを使ったのは、このCMの放映から1年後の1971年のことであります。当時、同級生とフォークバンドまがいのことをやっていた高校1年生の私は、長岡駅の表と裏を結ぶ地下道にあった印刷屋だったか文房具屋だったかで、確か「朝焼けの歌」とかいう、どこのグループの曲だったかも忘れましたが、楽譜のコピーを取ったことを、なぜか、鮮明に覚えています。まだ、普通紙のコピーではなく、感光紙のような特殊な紙を使ったコピーで、画像も決して鮮明ではなく、機械から出てきたばかりの紙は半ば湿っているような感じのものでしたが、それでも、便利な機械だなと感心した記憶があります。今のコンビニにおいてあるコピーマシンのように自分でお金を入れてセルフサービスでコピーを取るというのではなく、店のオヤジさんにお金を払って、元原稿をわたしてコピーを取ってもらうという形で、値段も、B4が1枚、多分、30円とか50円というようなところだったと思います。
後年、会社に入ってから海外の新聞などのコピーを大量に取る仕事を担当し、「コピーの帝王」と異名をとり、これまでの累計コピー枚数を考えると、地球の砂漠化に少なからず責任を感じざるを得ないほどの私のコピー人生は、この時に始まったのでありました。
このCMに登場している加藤和彦についても、色々と書かせていただこうかなと思っておりましたが、長くなってしまいそうなので、加藤氏については、改めて、別の機会に書かせてもらうことにします。
[資料編]
★モーレツからビューティフルへ(富士ゼロックス・昭和45年)
公害問題が、市民生活に影を落としはじめていた。GNP神話に崩壊のきざしが見えはじめていた。企業にとっては“成長”よりも“生存”が、大きなテーマになろうとしていた。ゼロックスの“ビューティフル”キャンペーンは、そんな状況をいち早く先取りした、戦略的企業広告の一つである。が、ビューテイフルとは、どんな生き方なのか。ヒッピースタイルの加藤和彦が“BEATIFUL”と書いたプラカードを持って銀座を歩くCMを見ていても、一向にその答えは分からない。論理よりは感覚の“フィーリング時代”に便乗したという点でも、それはすぐれて戦略的な表現であった。〔『TVグラフィティ』講談社〕
■モーレツからビューティフルへ(富士ゼロックス)
70年は、テレビCMの表現に、大きな変化が見られた年。「モーレツ時代」のツケ、環境問題、公害問題、コンシューマリズム台頭等の世論と共に、「モーレツからビューティフル」が登場する。ヒッピー姿の若者(加藤和彦)が、ただ「ビューテイフル」と書かれたカードを手に、のんびりと街中を歩いていく。その画に合わせて、「ビューティフル〜ビューティフル」と奇妙な節まわしの歌がくり返し歌われるだけという、実にシンプルで不思議感いっぱいのフィーリング型の表現。このCM、その風変わりさと、ヒッピーの登場や英語の「ビューティフル」という言葉の響き等、当時の若者達のファッション感覚を強烈に刺激し、世評をさらい、一躍流行語を産んだ。モーレツ時代を生き抜く為に忘れてしまっていた大切なもの「人間らしさ」「人間回復」を教えてくれたCMであった。時代の転換期が見事に表現されていたのである。以後、ユックリズム、ふるさと志向等の優しさ路線へとこの思想が受継がれていくこととなる。〔『テレビ史ハンドブック』自由国民社〕
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