60年代の広告

[少年マンガ雑誌編]

「海外にあなたの友を」(国際フレンドシップクラブ)

 「60年代の広告」の第3弾となりますのは、「海外にあなたの友を」のコピーでお馴染みの国際フレンドシップクラブの広告であります。
 私達が小学生の頃、つまり、昭和40年を挟む前後2〜3年の時期、私のように夕方遅くなるまで外で泥だらけになって遊んでいた野球少年派の系列と、その系列には入らず部屋の中で自らの精神世界の構築に勤しんでいた学究少年派の系列とに子供達を分けた場合、学究少年派の系列の子供達の間で、いわゆるブームというような言い方が出来るほど盛り上がった現象をいくつか挙げてみると、例えば、切手の収集とかプラモデルの収集、あるいは、鉱石ラジオの製作とかアマチュア無線などといったようなものがありました。
 今回、取り上げさせていただく「海外にあなたの友を」という国際フレンドシップの広告は、どちらかというと、そうした学究少年派の系列に属していた子供達に、その精神世界を“文通”によって広げてもらおうというような趣旨も色濃く漂っていたのではないかという気がします。
 右の広告の画像では、ちょっと文字が読み取りにくいかもしれませんので、例によりまして、私が、そのまま打ち込ませていただきます。
 「外国の友とのめずらしい『切手』や『絵葉書』『手紙』のやりとりはとても楽しいことです!★本会でしょうかいする海外の友は熱心な日本のファンです。★手紙(書留)で200円と10円切手1枚をそえて相手の国と年令(何才から何才くらい)を書いて申し込めば@海外の友とA海外の友あてのきれいな絵葉書1組(英文せつめいつき)やB海外ふうとうなどその他ながく海外の友と仲良くしていくためのせつめい書などを急送します」
 この文章の通りだとすれば、特に、切手の収集などをしていた子供達にとっては、海外の同じ趣味を持つ子供達と文通することで、その収集ネットワークを一気に拡大することが出来るわけですから、結構、そそられるものがあったのではないかと思います。
 私の場合、海外の子供との手紙のやり取りというのは経験がありませんが、確か、小学校3年か4年の頃に、宮城県の少年と文通を始め、それでも、中学校に入るまでは、いわゆる“文通”を続けていた記憶があります。
 この私の“文通”は、こうした広告や、この後に紹介させていただく雑誌の文通コーナーとかで相手を見つけたとかいうのではなく、私の通っていた長岡市立川崎小学校の3年3組か4年3組の全員が、宮城県の小学校の3年生か4年生のクラスの全員と手紙のやりとりをするというようなものでした。ですから、学校の方針としてそういうことをやっていたのか、あるいは、非常に教育熱心で、特に、国語教育を通した子供達の精神形成のようなものを重視されていた、私のクラスの担任だったK先生の考え方だったのか、そのどちらかだったのではないかと思われます。
 何れにしても、昭和40年前後には、子供達の間で“文通”というものが一種のファッションというか流行になっていたという側面もあったようで、次に紹介させていただく『週刊少年サンデー』(1965[昭和40]年11月28日号)に掲載されていた「みんなの広場」というページは、そうした辺りを反映するものではないでしょうか。



 この「みんなの広場」は、ご覧いただけば分かるように、すべて“文通”の相手を求める読者からの便りで構成されたページで、ページ横には、「みんなの広場」はみなさんがつくるページです。どんどん、投書してください」という説明が添えられ、題字の下には、次のような編集部からのメッセージが掲載されています。
 「これは、編集部からのおねがいです。さいきん、みなさんからのおたよりに、学年を記入してないのが多いのです。必ず学年を書いてください(編集部)」
 このページの画像も、文字は読めないと思いますので、私が打ち込みます。
 まず、「文通しよう」という大きな見出し付きの3つの囲みを、上から順に紹介します。
 「文通しよう:ぼくは、ハトをかっています。同じくらいの学年で、ハトをかっている人、文通してください。新潟県中頚城郡・KT(小六)」
 「文通しよう:ぼくは、電気工作や木材工作が大好きです。工作の好きな全国の皆さん、ぼくと、ぜひ、文通してください。静岡県島田市・MT(中三)」
 「文通しよう:メガネをかけている人、ぼくに、おたよりください。広島県戸品郡・MK(中一)」
 あとは、文通したいテーマ別に、住所と名前と学年が羅列されています。文通したいテーマとしては、「★同じ学年の人、文通しよう」「★切手ファンの人、文通しよう」「★スポーツの好きな人、文通しよう」「★どなたでも結構、文通しよう」「★絵やマンガファンの人、文通しよう」という5つがあり、それぞれの項目について、学年別の人数を紹介させていただきますと、「★同じ学年の人、文通しよう」が小三…1、小四…1、小五…2、小六…8、中一…5、中二…1、「★切手ファンの人、文通しよう」が小五…3、中一…3、中二…3、「★スポーツの好きな人、文通しよう」が小六…1、中一…3、中二…1、「★どなたでも結構、文通しよう」が小五…1、小六…2、中一…9、中二…8、「★絵やマンガファンの人、文通しよう」が小五…4、小六…1、となっています。
 全部で59人の文通希望者が紹介されており、学年別の人数では、小三が1人、小四が1人、小五が10人、小六が13人、中一が21人、中二が12人、中三が1人、という分布となります。文通希望者のすべてがこのページで紹介されているわけではないでしょうし、この文通希望者がそのまま当時の『少年サンデー』の年齢別読者構成比と連動するものとも限らないらなりとは思いますが、それでも、やはり、中一をピークとして小五から小六、中二辺りまでが、昭和40年代前後の週刊少年マンガ雑誌の中心読者層であったことは間違いないと思います。
 ちなみに、この「みんなの広場」が掲載されていた昭和40年当時、私は小学四年でありました。上の文通希望者の年令分布を見ても分かるように、中三は1人となっておりまして、当時、高校受験を控えた中三くらいになると、よく先生や親から「もうマンガは卒業だな」というような言われ方をされていたもので、この昭和40年当時は、確かに、読者ターゲット自体が中二くらいを最年長として設定されていたような雰囲気もあり、中三くらいになるとマンガ雑誌は読まなくなってしまったような気がします。
 ただ、私達の年代になると、中三になってもマンガ雑誌は読んでいましたし、高校、大学とそれは続いていくことになるわけで、ビッグコミックなどの青年漫画誌とも呼ぶべき形態のものが登場してきたのが1970年代前半であったことも考え合わせると、やっぱり、日本のマンガ文化は、その支持層のパイオニアとして私達の世代が一定の役割を担いながら、その文化としての成立に少なからず寄与してきたのではないかという自負を感じたりもするわけであります。
 ということで、またまた、今回のテーマである“文通”から離れ始めてきているわけですけれども、小年時代に、こうした“文通”のブームだけでなく、一部のレベルの高い理科系の学究少年派の系列ではアマチュア無線のブームもあったりした私達の世代は、現在、こうしてパソコン通信やインターネットという極めて身近で便利なコミュニケーション・インフラの登場を受け、21世紀に向けて、またまた、Eメールやホームページに代表されるインターネット文化の成立に貢献しようとしているわけであります。
 私のように、こんな酔狂なホームページを作っている人間は、世間的には、実生活に役に立たない極楽トンボ的な言われ方をされたり、日々、貧しい家計のやりくりに追われるウチのカミさんなどからは、非常識人扱いされるわけであり、それは、一面の真実ではあるとは思いますが、その一方で、やはり、こうした人間がいるからこそ、人類は、営々と文化・文明を築き上げてきたということが言えることも、また、一面の真実でありまして、などということを書き出すと、日ごろの会社における欲求不満も含め、色々な思いが渦巻き始めて、もう、また、何が何だか分からない状態に陥り始めておりますので、この辺でお開きとさせていただきます。
 何れにしても、皆様におかれましては、この「60年代通信」というホームページを通じて、その思いを共有していただける限り、お付き合いいただくと同時に、Eメールという便利な機能を大いにご活用いただき、私と“文通”してください。
 皆様からのお便りだけが、このホームページの元気の源、私のエネルギーとなっておりますので、何卒、よろしくお願い申し上げます。








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