60年代のTVCM

電話なら何でもNEC〜日本電気

 DOS/V機の浸透で、かつてのような圧倒的なマーケットシェアは影をひそめたものの、今なお、日本ではパソコンの代名詞となっている98シリーズのメーカーとして知らない人はいないのではないかと思われるNECですが、60年代には、電話機関連メーカーとして、こんなCMを流していたのであります。


 「皆さんのお父さんが子どもの頃に活躍した電話機、これもNEC、日本電気が作りました」


 「それから30年、世はスピード時代。電話機もすっかりスマートになりました。これが、現在使われている4号型卓上電話機です」


 「日本全国どこへでも居ながらにして通話のできるマイクロウェーブ。その99%は日本電気の手で作られております」


 「さて、すばらしい発達を続けている電話機の未来は…。
 日本電気が既に完成した電子交換機用の押しボタン式電話機。この電話が皆さんのお宅に普及する日も、決して、遠いことではありません」


 このCMの放映は、画面にも出ているように1961年のことであります。

 60年代初めと言えば、恐らく、当時の電話機の世帯普及率は、現在のPCといい勝負か、ひょっとすると、現在のPCよりも低かったかもしれません。


 貧乏だった我が家の場合、電話の導入はテレビよりもはるかに後で、私が中学に入ってからでしたので、60年代も末のことでありました。じゃ、それまでは、どうしていたのかというと、別に、ノロシを使っていたとか、伝書鳩を飛ばしていたというようなことではありません。頻繁に連絡を取る親戚関係はほとんど市内であり、自転車でも30分もあれば十分に行ける距離でしたし、親父の勤務先である国鉄の長岡駅は、自転車なら10分弱、歩いても急ぎ足なら15分くらいのところでしたから、別に、電話がなければないで、用は足りていたわけであります。

 それでも、どうしても、電話じゃなければ困るというような緊急の用件の時には、1軒おいて隣の食料品店を営んでいた近所の家の電話を貸していただいていたものです。いわゆる向こう3軒両隣りと濃密な御近所関係が成立していた当時、いわゆる「呼び出し電話」は、きわめて一般的なものでありましたし、別のところでも触れたように、テレビなども見せてもらったりしていました。また、別の機会にも書かせていただこうと思いますが、「もらい風呂」と言って、お隣りのお風呂に入れさせていただいた記憶さえ残っています。

 そんなわけですから、小学校の頃、電話というものに慣れていなかった私は、学校の電話や町中の公衆電話を使う局面では、きわめて緊張したのを覚えています。初めて公衆電話というものを使ったのは、小学校3年か4年の時だったと思いますが、遊びの約束か何かで同級生の女の子の家に電話をかけるため、隣りの町のお菓子屋さんの前にあった赤電話を、それこそ、赤電話と同じくらい顔を真っ赤にして(いたのではないかと思うほど)恥ずかしそうに使った記憶があります。その恥ずかしさというのは、女の子の家に電話をするということもあったかもしれませんが、それより何より、私の場合、「もしもし」という電話の常套句を口にするという大人びた行為をすることに対する恥ずかしさが大きかったことをはっきりと覚えています。

 電話をめぐっては、さらに、大学に入って東京で一人で暮らすようになってから、アパートの自分の部屋に電話を引く時にも、学生にはぜいたくだ、と親父の反対にあって、ひともめしたことも忘れられません。PHSや携帯電話が学生の必需品という今から考えると、時代を感じさせる笑い話になってしまうわけですが…。

 CMの最後に、いわゆるプッシュホンが「電子交換機用の押しボタン式電話機」として紹介され、「皆さんのお宅に普及する日も、決して、遠いことではありません」というナレーションが流れていますが、私が現在の会社に入社した1981年当時、つまり、このCMの年からちょうど20年たった時点で、会社の内線電話はまだダイヤル式でありましたし、私の部屋の電話も例のダイヤル式の黒電話でありました。

 家では、3DKという狭さにも関わらず、ファックス兼用の親機に増設電話機とコードレスの子機がつながり、自分用と家族用の2台のPHSを使い分け、カミさんから「無駄使い」と糾弾されている現在の状況は、私の貧しい電話体験に対する恨みを晴らす行為なのかもしれないと思ったりもするわけであります。 









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