山口百恵デビュー25周年特別企画

70年代アイドル“不死鳥”伝説

山口百恵ディスコグラフィー


(1)としごろ/青い果実禁じられた遊び

「としごろ」(千家和也・作詞、都倉俊一・作曲、都倉俊一・編曲)
1973(昭和48)年5月発売

 山口百恵の記念すべきレコード・デビュー第1弾は、1973(昭和48)年5月21日に発売された「としごろ」でありました。実は、その前月の同年4月に封切られたデビュー曲と同名の映画「としごろ」に映画初出演も果たしておりまして、プロとしての実質的な芸能界デビューということでは、1973年4月ということになるわけです。
 このデビュー曲から1975(昭和50)年9月に発売された10枚目のシングル「ささやかな欲望」まで、百恵のシングル作品は、すべて、千家・都倉コンビの手によるものですが、レコード・セールス的には、最も低迷したのが、この「としごろ」でありました。
 オリジナル・コンフィデンスの週間チャートでの最高位は36位、売上枚数も7万枚弱ということで、当時としても、中ヒットあるいは小ヒットというような感じでしたが、デビュー曲としては、まあ、それなりの成果だったと言っていいのではないかと思います。
 それより何より、特に、「(0)前史〜スター誕生」でも紹介した通り、デビュー前から山口百恵に注目していた私と同級生のG君は、デビュー曲がいわゆる大ヒットにはならず、「知る人ぞ知る」というマニアックな位置づけに収まりそうな事態の進展を密かに喜んでいたわけでありますが、その私とG君の密かな喜びは、続く第2弾の「青い果実」で、早くも、ものの見事に打ち砕かれることになります。



「青い果実」(千家和也・作詞、都倉俊一・作曲、馬飼野康二・編曲)
1973(昭和48)年9月発売

 第2弾「青い果実」は、デビュー曲「としごろ」の約3カ月後の1973(昭和48)年9月1日にリリースされました。
 所属プロダクションのホリプロ、所属レコード会社のCBSソニーにとっても、デビュー曲のレコードセールスは予想を下回るものだったことは確かで、早くも、2曲目の「青い果実」で、思い切った路線修正が図られることになりました。天地真理や南沙織、郷ひろみなどを手がけていたCBSソニーの敏腕プロデューサー・酒井政利氏は、一つの賭けに打って出ることを決意し、作詞の千家和也氏に対して、「より過激な表現」を求めたと伝えられています。
 デビュー曲「としごろ」では、
 「陽に焼けた あなたの胸に 眼を閉じてもたれてみたい」
 「あなたにすべてを見せるのは ちょっぴり恐くて恥ずかしい」
といったような表現にとどまっていた歌詞が、「青い果実」では、一気に、
 「あなたが望むなら 私 何をされてもいいわ」
 「いけない娘だと 噂されてもいい」
というところまで行ってしまいました。
 酒井氏は、この路線変更について、「中学生にこんな歌詞を歌わせていいのか」と自問したものの、「ストレートに表現することも一つの行き方であり、これでいいんだ」と思い直したと語っています。
 もちろん、教育関係者やマスコミの一部からは、ひんしゅくや非難の声も出てきたわけですが、レコード・セールス的には、週間チャートの最高位が9位、売上枚数20万枚というスマッシュ・ヒットとなり、成功を収める結果となりました。
 私と同級生のG君はというと、はっきり言って、相当に戸惑った記憶がありますが、テレビなどでこの歌を懸命に歌う山口百恵の健気で真摯な姿勢は好感の持てるものであり、レコード会社やプロダクションの営業政策を反映したに過ぎない歌詞の意味内容を議論することは意味のないことだ、というような会話を交わしたりしたものでありました。
 山口百恵自身は、「青い果実」について、『蒼い時』の中で、次のように書いています。



 「十四歳の夏も近い頃、事務所で『今度の曲だよ』と手渡された白い紙。期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで、書かれた文字を追っていくうちに、私の心は衝撃に打ちひしがれてしまった。当時は歌謡界全体がいわゆる『かわいこちゃんブーム』と称されていた頃で、流行っている歌といえば『天使』や『夢』や『花』がテーマになっているものばかりで、活躍している同世代の女性歌手たちは一様にミニスカートの服を着て、細く形のよい足で軽やかなステップを踏みながら満面に笑みを浮かべて歌っていた。そんな中で、このような詩を私が歌ったら…。そんな罪悪感にも似たものが私の意識の中で頭をもたげていた。
 『こんな詩、歌うんですか』
 言ったか言わなかったかは、さだかではないが、口に出さないまでも、気持ちは完全に拒否していた。
 皆と違うように見られたら---幼い恐怖心と防御本能が私をためらわせた。
 そうはいっても私の躊躇など、ビジネスのシステムの中では何の意味も持たず、結局スタジオへ連れて行かれ、ひとりきりの世界へ閉じ込められてしまった。ヘッドフォンから流れてくるその歌のカラオケ、それに合わせて仕方なく歌った---つもりだったが、何故だかメロディーに乗せて歌ったとたん、さっきまでのためらいはすっかり消えていた。こんな歌---と思い悩んだ時から数時間しか経過していないというのに、私はその歌がとても好きになっていた。以来、私の歌は『青い性』路線といわれ、それまでのその年代の人たちとは変わったタイプの歌を歌っていくようになっていった。」(集英社文庫『蒼い時』p34-35)



「禁じられた遊び」(千家和也・作詞、都倉俊一・作曲、馬飼野康二・編曲)
1973(昭和48)年11月発売

 デビュー第3弾の「禁じられた遊び」は、1973(昭和48)年11月21日の発売でした。作詞・作曲・編曲の担当は前作と同じですが、この曲については、古典的な名作映画とそのテーマ曲であるナルシソ・イエペスの名曲と同じタイトルを使い、いわゆる“青い性”路線と揶揄した世間を挑発するようなものではありながら、歌詞の内容は、前作を上回るほど刺激的なものではありませんでした。
 レコード発売のインターバルで言うと、「としごろ」と「青い果実」の間が3カ月と10日、「青い果実」と「禁じられた遊び」の間が2カ月と20日、となっています。
 すでに、このシングルがリリースされた時点で、山口百恵は「青い果実」のヒットにより、第6回新宿音楽祭の銀賞を受賞したのに続き、第4回日本歌謡大賞の放送音楽新人賞部門にノミネートされるなど、いわゆる年末に向けての賞レースにも遅れ馳せながら名前を連ね始めていたわけですが、レコード大賞新人賞や紅白歌合戦初出場については、当落ラインぎりぎりの線かなという状況だったと記憶しています。
 このリリース・インターバルの短縮化は、多分に、レコ大と紅白を意識して、第3弾のヒットによりその勢いに拍車をかけるという意味合いも込められていたものと思われます。
 しかし、結果的には、残念ながら、レコ大の新人賞の枠に入ることも出来ませんでしたし、紅白歌合戦の初出場も翌年に持ち越すことになりました。
 ただ、「60年代のカレンダー」の「レコード大賞受賞リスト(70年代編)」で、この年のレコード大賞新人賞の受賞者の顔ぶれを見ると、なぜ、山口百恵が受賞できなかったのかについては、大きな疑問が残るという印象は否めません。
 レコード・セールスの面では、週間チャートの最高位が12位、売上枚数も18万枚に達したものの、前作「青い果実」の実績を上回るまでには至りませんでした。
 ちなみに、この「禁じられた遊び」がリリースされた翌月の1973年12月第1週のヒットチャートのベストテンは次のようなものでありました。
(1)個人授業/フィンガー5 (2)神田川/南こうせつとかぐや姫 (3)小さな恋の物語/アグネス・チャン (4)冬の旅/森進一 (5)白いギター/チェリッシュ (6)空いっぱいの幸せ/天地真理 (7)心もよう/井上陽水 (8)夜空/五木ひろし (9)魅せられた夜/沢田研二 (10)愛さずにいられない/野口五郎







(C)1997 Kiyomi Suzuki


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