60年代の遊び/おもちゃ

メンコ その2


“華麗なる版ズレ”こそメンコ文化の神髄


 「60年代の遊び/おもちゃ」「メンコ」の部パート2であります。
 メンコは、60年代における遊び道具として、恐らく、ビー玉と共に、そのチープさにおいては右に出るモノがなかった王者であることは、誰もが認めるところではないかと思いますが、そのチープさゆえに、又、懐かしさも一入でありまして、特に、右の画像に見られるような「版ズレ」は、そのメンコのチープさの最も象徴的な部分だったのではないかと思うわけです。このフレームにまで色がはみ出してしまっている“華麗なる版ズレ”こそ、メンコ文化の神髄だったと言ってもいいのではないかと思ったりもするほどです。
 3枚の画像は何れも、日本マンガ史においてもレアな存在だったカーレースものの代表的な作品と言っていいのではないかと思われる「マッハGoGoGo」です。原作の吉田竜夫さんやアニメの制作に当たった竜の子プロの皆さんには誠に申し訳ありませんが、メンコの世界では、こういう商品としては到底許されないようなレベルのものが、立派に商品としてまかり通っていたのでありました。私の手元に残っている当時のメンコのうち、特に版ズレの著しいものが、たまたま「マッハGoGoGo」に集中してしまっているため、この3枚をご紹介させていただいているだけで、他意はありませんので、関係者の皆様には悪しからずご了承いただきたいと思う次第です。
 この「マッハGoGoGo」も、何れ、「60年代のマンガ」のコーナーで詳細に紹介させていただこうとは思いますが、一応、簡単に作品について説明させていただきますと、マンガの方は、1966(昭和41)年7月から私の愛読書だった月刊マンガ雑誌『少年ブック』で連載が開始され、テレビアニメも、翌1967(昭和42)年4月からフジテレビ系で1年間にわたって放映されました。特に、この作品で特記されなければならないのは、日本国内での人気もさることながら、カーレースがスポーツとして日本などよりも早くから認知されていた海外において、高い評価を得たという事実であります。私も、たまたま、海外旅行の業界専門誌に就職した関係で、海外への出張は少なくありませんが、1981年に初めて出張で米国に行った時、レコード屋さんのビデオコーナーに、この「マッハGoGoGo」が沢山置いてあってビックリしたのを覚えています。そういう日本アニメ史上においても燦然と輝く名作だけに、こういうメンコの版ズレというような文脈で紹介させていただくには偲びないものがあるわけですが、逆に、それほどの作品であっても、こんな版ズレの商品がまかり通っていたところに、メンコ文化の凄ま じさを感じていただけるのではないかと思ったりもするわけです。

 さて、前回のパート1では、メンコの絵柄として、テレビ黎明期の少年向け活劇ドラマの主人公などの人気が高かったということを紹介させていただきましたが、そうした人気キャラクターと同じくらい、あるいは、それ以上に人気が高かったかもしれないと思えるものにプロ野球選手の写真メンコというものがありました。左の画像は、昭和30年代の日本プロ野球を代表するスーパースターである、稲尾、野村、長島の3人でありますが、こういうスーパースターだけでなく、今はもう忘却の彼方に消え去ってしまっているような、あるいは、記憶の片隅にようやく残っているようなプロ野球史上ではマイナーな選手も数多くメンコの絵柄として登場していたものであります。とは言え、もちろん、当時としては、人気のあった選手達がメンコの絵柄になっていたわけで、外人選手のものも少なくありませんでした。私の手元にも、もう残っていませんが、覚えているままに羅列させていただきますと、大洋の桑田、中日のマーシャル、南海の杉浦、大毎の山内、東映の毒島などといった選手の名前が浮かんできます。ちなみに、メンコではありませんが、私が小学校に入ったばかりの頃に使っていた下敷き の絵柄は南海ホークスの下手投げの名投手・杉浦忠でありました。



 前回のパート1でも、メンコの遊び方については色々と書かせていただきましたが、書き忘れたこともあったりしましたので、もう少し、説明をさせていただきます。
 自分の好きなキャラクターのメンコに色々と工夫を凝らして、戦いでも強いメンコに改造することは前回も書かせていただきましたが、そうしたメンコの呼び方として、確か「得意っぱ」とか何とかいうような特別な言い方があったことを思い出しました。昭和30年代に長岡で少年時代を過ごされ、私よりも年令の上の方なら、その辺りをもっとご存知ではないかと思いますので、ご教示くださる方がいらっしゃらないかなと思っております。
 それから、そういうメンコを取られてしまったりすると2〜3日はそのショックから立ち直れないということも書きましたが、そういうメンコを取られた場合には、普通のメンコ3〜4枚、あるいは、相手の好きな絵柄のメンコなどと引き換えに、自分の手元に取り戻すというようなことも行われていたという記憶も甦ってきました。
 また、こうしたメンコの売られ方ですが、若い方はご存知ないと思いますので、説明させていただきますと、メンコは新聞紙で作られた袋に1枚1枚入れられており、その袋を束ねたものに簡単な表紙がつけられ、その束が駄菓子屋さんの天井から下がっている針金の鈎型のフックにぶら下げられており、それを1枚1円とか5円というような値段だったと思いますが、新聞紙の袋ごとひきちぎるというような買い方をしていました。ですから、袋から出すまで、どういう絵柄のメンコが出てくるかわからず、どきどきしながらメンコを取り出したものです。
 また、くじ付きのメンコというのもあって、メンコの裏に「一等」、「二等」、「三等」というようなハンコが押されていたら当たりで、一等は12枚、二等は4枚、三等は2枚のメンコが貰えるというのが一般的だったと思います。賞品のメンコは、上の「ナショナルキッド」と「海底人8823(ハヤブサ)」の画像のような感じで1枚のシートになっていました。三等だと横並びで2枚、二等だとこの下にさらに2枚で合計4枚、一等だと横に4枚、縦に3枚、合計12枚が1枚のシートになっていたように記憶しています。その賞品のメンコは、あらかじめ、駄菓子屋さんの店先に飾られてあり、洟垂れ坊主どもは、それを横目で見ながら、一等が当たることを祈りながら、メンコの入った新聞紙の袋を引きちぎったのでありました。
 新聞紙の袋を開けて、自分の好きなヒーローの絵柄で、しかも、裏に当たりのハンコでも押してあろうものなら、その喜びたるや大変なものでありまして、あの時の感動を上回るような感動というものは、40歳を過ぎてしまった今となっては、もう二度と味わえないのではないかと思われるほどでありました。
 せっかく当たりが出ても、ハンコがかすれていて、二等なのか三等なのか区別がつかない時などは、駄菓子屋のオバさんやオジさんがセコい人だったりすると、何とか交渉して、二等の4枚シートを貰うべく悲しい努力をしなければならなくなったりするわけです。
 この当たりの「一等」や「二等」、「三等」のハンコが裏に押してあるメンコは、また、友達仲間に対しても自慢のタネになるものでありまして、絵柄の善し悪しとともに、メンコのプレミア基準として非常に重要な役割を果たしていたものでした。

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