1956(昭和31)年夏
1956年7月30日
左の写真は、私が写っている写真としては、現存する最古のものであります。中央にチョコンと座って、ビスケットと思しきものを左手に持ち、幼いながらも、何か品格のようなものさえ漂わせているのが私であります。
アルバムには、「S.31.7.30鯨波浜茶屋にて」のキャプションが添えられております。昭和31年7月30日、つまり、生後1年3カ月余の時に、父と母と姉と一家四人で、長岡から信越本線に乗って電車で1時間ほどの鯨波海岸へ海水浴に行った時の写真と思われます。東京の辺りでは「海の家」と呼ばれている海水浴場にある脱衣場兼休憩所のような場所は、長岡の辺りでは「浜茶屋」と呼ばれていました。鯨波というのは、私が中学の頃に反対運動が盛り上がっていた東京電力の原子力発電所がある柏崎の一つ隣の駅です。
この写真は、私のアルバムの第1ページの一番最初に貼り付けてあるもので、小さい頃から何度も見ている写真ですが、今、改めて、よく見てみると、あまり海水浴には似つかわしくない、結構、しっかりしたボストンバッグが持ち込まれているのが分かります。
当然、私は、この頃のことなど何も覚えていませんが、『1億人の昭和史[15]昭和史写真年表』によりますと、流行語にまでなった「もはや戦後ではない」と謳った『経済白書』が発表されたのが、この月の17日のことでありました。また、『新潟県の昭和史』(新潟日報事業社)によりますと、第1回県農業文化展というのが、まさしくこの写真が撮影された7月30日から8月3日まで長岡市で開かれたそうでありますが、父親が国鉄職員だった我が家は、そんなこととは全く関係なく、恐らく駅前に飾られていたであろう「第1回新潟県農業文化展」という横断幕か何かを横目で見たりしながら、海水浴に出かけたわけでありました。
1956年8月16日
続きまして、鯨波海岸での海水浴から約2週間後の8月16日、終戦記念日の翌日の写真3枚をご覧いただきます。
右の写真は、背景から想像するに、土間だったと思しき台所で撮影されたもののようであります。実は、私の家は、私が生れた翌年の昭和31年に建て直されておりまして、「新築途上の我が家」(31.8.29)というキャプション付きの写真も残っておりますので、この写真は、まさしく、建て直しの最中に撮影されたものということになります。
私は古い家のことは何も覚えておりませんが、私が育った新しい家というのは、道路から15メートルほど引っ込んだところにありまして、新しい家というのは、古い家の裏庭に作られたものでした。したがって、古い家は新しい家が出来てから完全に取り壊されたようで、新しい家が建築中も、私たち一家は、古い家にそのまま住んでいたようです。
古い写真をスキャニングした画像では、背景がぼやけてしまって、よく分かりませんが、かまどの上に置かれた釜や鍋と並んで、ランプと思しきものも見えており、やはり、時代を感じさせます。
左の写真も、アルバムのキャプションによると1951年8月16日に撮影されたものですが、上の写真と着ている服が違っているので、時間的には、結構、間が空いているのか、あるいは、ひょっとすると、私の親父がアルバムのキャプションを書く時に、日付を取り違えたのかもしれません。
何れにしても、道路がすぐ前に写っていますので、これは、古い家の玄関で撮影されたものでしょう。お袋に聞けば、すぐ分かるのでしょうが、恐らく、玄関の土間はそのまま台所に続くような作りだったものと思われます。私の家の前には、福島江という農業用水の川が流れており、私の後ろに見えている道路は、その川沿いの道で、川の向こう岸には、私よりも2〜3歳年上のツトムくんという男の子がいたヤナセさんというお宅の家が見えております。お袋によると、私は非常によだれを大量に垂らす子供だったそうで、この写真のように、いつも、大きいよだれかけをしておりました。
右の写真も、アルバムのキャプションによれば、昭和31年8月16日のもので、「自宅前にて」という親父の文字が添えられております。アングル的には、上の写真の玄関を出て、2〜3歩ほど左に寄った位置で撮影されたものと思われます。
今は、道路も舗装されており、撮影地点は、国道のバイパス道路につながる大きな道路から10メートルほど入ったところで自動車も頻繁に通りますが、当時は、舗装もされておらず、砂利だらけの道で、車もさほど通らなかったのでしょう、道路の真ん中で三輪車の脇に得意そうに立って写真を撮ってもらっています。道幅も狭い道路で、現在は一方通行ですが、私が子供の頃は、一方通行ではなく、しかも、路線バスも走っていた記憶がありますが、この写真が撮影された頃は、まだ、路線バスなんかも通っていなかったのかもしれません。
何れにしても、三輪車の型といい、私の服装といい、いかにも、昭和30年代というよりは昭和20年代というか、戦後という雰囲気が濃厚に漂っております。
『新潟県の昭和史』(新潟日報事業社)によりますと、この年の1月には、「県が県議会厚生委員会で、未帰還県人1776人と報告」されており、経済白書は「もはや戦後ではない」と謳いましたが、この昭和30年代の前半というのは、庶民の暮らしにおいては、まだまだ戦後そのものだったのではないかと思われるわけであります。
皆さんも蘇ってきた記憶や思い出など、ぜひ、お便り下さい。

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