1960(昭和35)年春
1960(昭和35)年4月8日
皆様、お待たせをいたしました。と言っても、誰も待ってなんかいなかったと思いますが、ようやく正真正銘の1960年代に入ってまいりました。でも、やはり、聖母幼稚園関係者の皆様にとっては、いよいよ懐かしい写真の数々が登場してまいります。
まず、輝く60年代の1枚目となる右の写真は、1960(昭和35)年4月8日、つまり、めでたいお釈迦様の誕生日である花祭りの日に撮影されたものであります。私と手をつないでいるのは、私のお袋でございまして、別に、花祭りのイベントにおかめのお面をかぶって踊ってきて、そのままお面を外し忘れているとか、そういうことではございませんで、生まれつき、こういうめでたい顔をしていた人なのでございます。
アルバムのキャプションには、「幼稚園入園式より帰って」とありますから、長岡市稽古町にあった聖母幼稚園の入園式から帰ってきたところを、自宅の玄関前で親父が写真を撮ったもののようであります。
これまで、自宅前の写真と言えば、右隣のお宅の外壁前で撮られているパターンがほとんどでしたが、これは、入園式を終えて、お昼前後に撮影されたものであるため、左隣のお宅の外壁前は、すでに日影になってしまい、こういうアングルの写真になったものと思われます。
1960(昭和35)年4月18日
左の写真は、上の写真から10日後の、1960(昭和35)年4月10日に撮影されたもので、「聖母幼稚園(入園記念)」とありますから、恐らく、私が幼稚園から帰ってきたところを、自宅前で撮影されたものと思われます。上の写真は私服ですが、今度は、ちゃんと制服を着て、いかにも幼稚園児という趣きであります。
アングル的には、上の写真が左隣の家の外壁が入る角度だったのに対し、こちらは、右隣のお宅が写るような角度になっています。また、家の前を流れていた福島江の向こう側に木々が並んで、ちょっとした林のように見えています。
上の写真では、あまりよく分かりませんでしたが、実家の古い家が取り壊された後の更地には、すでに、かなりの雑草が生えているのも分かります。
知らない人には、別に、どうということもない写真でしょうが、実家の古い家が取り壊された後の更地が、ただのダダッ広い空き地となっている風景は、私にとっては、極めて懐かしいものであります。この空き地には、私が小学校の高学年くらいの時に、近所の魚屋さんのガレージができ、さらに、今は、そのガレージも取り壊されて、コンクリートで固められた地面の上には、実家の車庫と左隣のお宅の車庫と、2つの車庫が建てられています。
右の写真は、上の写真と同じ日に撮影されたものですが、撮影された場所が変わっています。上の写真は、自宅の玄関の前で撮られたものですが、右の写真は、再び、左隣の家の外壁の前で、しかも、かなり道路際で撮影されています。私の左手を見ると、異様に硬直した感じとなっていまして、何か緊張感が漂っているようにも思えますので、右の写真は、幼稚園に出掛ける前の朝に撮ったものかもしれません。左手に持っている袋も、右は、どうやら内履き入れのような感じですし、上の写真は、道具袋のようなものになっています。再び、ザウルスのカレンダー機能で確認してみますと、1960年4月18日というのは月曜日でありまして、月曜日の朝に上履きを持っていき、土曜日に家に持ち帰るというようなパターンだったんではないかと思われます。
それと、この写真で注目していただきたいのが、ちょっと分かりにくいかもしれませんが、川縁りの柵が、鉄の棒を横に渡しただけの簡単なものだったということであります。今に思えば、結構、危ない感じがするわけですが、当時は、こんなものでありまして、しかも、その鉄の棒は、ところどころで止め具から外れて、川の方に垂れていたりして、農業用水だったため、1年の大半は水量が極めて少なく、その垂れた鉄棒を伝って、よく川底に降りて遊んだりしたものでありました。
1960(昭和35)年6月4日
左の写真は、上の3枚の写真から約2カ月後の1960(昭和35)年6月4日に撮影されたものです。わずか2カ月という時間しか経っていないわけですが、幼稚園の集団生活でもまれたせいか、あるいは、既にガキ大将としての頭角を現し始めていたせいか、4月の写真に比べると、自分で言うのも何ですが、それなりに自信を感じさせる表情をしているような気がします。とは言え、親父と面と向かっているせいか、右手の指先の反り返るほどの伸ばし方には、緊張感もみなぎったりしているわけです。
続きまして、右の写真は、さらに10日後の1960(昭和35)年6月14日に撮影されたものであります。これまでの写真に比べると、私の表情が非常に柔和でありまして、この年にして、女の子と並んでニヤけている自分が悲しくなったりもするわけです。並んで写っている女の子は、一つ年上のKHちゃんで、私の家から幼稚園に行く途中に家があったため、一緒に幼稚園に行ったり、幼稚園が終わった後、お互いの家に遊びに行ったり、とても仲良くしていた記憶があります。
実は、私の家の裏の方に、私が幼稚園に入る直前くらいに、長岡の地場企業大手であるツガミ製作所の社員分譲住宅ができ、そこに住んでいた同い年のKHくんという男の子とSOちゃんという女の子も、同じ聖母幼稚園に通っていて、最初は彼らと一緒に幼稚園に通ったりしていたような記憶もありますし、年上だったKHちゃんが卒園してからは、やはり、ツガミ組の2人と通園したり、一緒に遊んだりしたはずですが、なぜか、彼らと一緒に写っているスナップ写真がないので、紹介できないのが残念です。
それと、この写真では左隣のお宅がかなりしっかりと写っておりまして、昔は、こういう風に、お隣の庭と私の実家の前の空き地が渾然一体とした雰囲気を醸し出し、お互いに夕飯のおかずが何だということはすぐに分かるような仕掛けになっていましたし、私が小学校2年くらいになるまで家風呂がなかった我が家は、上の写真の右隅に写っているお隣の家のお風呂を使わせていただいたりもしていました。その「もらい風呂」をする時でも、お隣の家の道路に面した玄関からではなく、この写真にも写っている裏庭の勝手口の方からお邪魔していたように記憶しています。昭和30年代には、そういう極めて濃密なご近所関係が成立していたのでありました。

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