60年代の子供達

1959(昭和34)年夏


1959(昭和34)年8月18日


 右の写真は、1959(昭和34)年8月18日に撮影されたもので、アルバムのキャプションは「悠久山公園にて」と書かれています。
 もう既に、このコーナーでは何度も出てきた悠久山公園でありますが、やはり、何度も書かせていただいているように、長岡市民の手軽な行楽地として、昭和30年代前半には、輝く行楽地大賞として揺るぎない地位を維持していたものと思われ、だからこそ、我が家のような貧乏な家でも、その気になれば徒歩圏内でもあった悠久山公園というのは、休日のお出かけ先としては、定番スポットのナンバーワンだったのだろうと推測されます。
 私は、4歳と4カ月ちょっとですが、この頃というのは、着ている服にもよるのかもしれませんが、結構、子供っぽく見えたり、意外と大人びてみえたり、写真ごとに、かなり、表情も雰囲気も変わって見えるような気がします。
 長岡に住んでいた皆さんはお分かりになるかもしれませんが、このブランコは、栃尾鉄道長岡線の終点だった悠久山駅から蒼紫神社の参道をゆるゆると上り、蒼紫神社を通りすぎて、右手の方に上ったところにあった広いグランドの周辺の、さらに、一段、高くなっている場所にあったものだと思います。神社の方から上ってくると、ちょうどグランドに出る辺りの右側の下手の方にはお猿電車があり、上手の方には小さな観覧車があったと記憶しています。観覧車は、このブランコなどがあったのと同じグランドから一段高くなったところにあり、神社の方から上ってくるグランドの入り口から反対側の奥まったところに、孔雀や熊や猿などのオリがあって、猿のオリの隣に博物館もありました。このブランコは、その孔雀や熊のオリがあった辺りの一段高いところにあったものだと思います。この周辺には、茶屋のようなものも数軒あって、ピンクと白と薄緑の三色だんごなんかが売られていたのを覚えています。

1959(昭和34)年8月30日その1

 左の写真は、上の写真から約2週間後に撮影されたもので、キャプションは「柏崎市御野光(立?)公園にて」と書かれています。親父が字をくずして書いているので、野光なのか野立なのか、判然としませんが、何れにしも、私が幼稚園に入る前の家族4人揃って撮影されている写真はこれだけで、既に親父が4年前に亡くなっている私達家族にとっては、“家族の肖像”とも呼ぶべき貴重な写真なのかもしれません。
 柏崎市というのも、新潟県あるいは長岡市に住んだことのある方以外には、あまり馴染みのない都市かもしれませんが、この「60年代の子供達」の一番最初のページである「1956(昭和31)年夏」の1枚目の写真で登場している信越本線の鯨波の隣の駅で、長岡市民にとっては、最もポピュラーな海水浴場の一つだった鯨波海岸に行く時には、必ず、通る駅でした。その「1956(昭和31)年夏」でも書かせていただきましたが、柏崎というのは、東京電力の原子力発電所のあるところで、私が中学3年生の時にブルーコメッツ・ショーを柏崎市民会館まで見に行った時には、原発建設反対の宣伝カーなんかが走っていたのも覚えています。ですから、柏崎という町は、東京電力のサービスを受けている首都圏の皆さんにとっても、実は、関係の深い所なのであります。
 それはそれとして、この写真は、その柏崎の海岸縁の公園で撮影された写真でありまして、たまたま側にいた方に撮っていただいたのか、自動シャッターで撮られたものなのか、今となっては知る由もありません。また、細かいことですが、私は左足に包帯を巻いておりまして、4カ月前には、自宅の部屋の出窓から転落して左手を骨折したばかりであることを思うと、結構、怪我をしがちというか、要するに、腕白坊主だったのだろうと思われます。
 このくらいの男の子は、基本的には、そういうことなのでしょうけれども、多分、この頃だったのではないかと思いますが、家の近所の農機具置場みたいな小屋の屋根で遊んでいた時に、滑って下に落ちそうになり、屋根を葺いてあったトタン板にしがみつき、左手の中指と薬指の先が皮一枚でかろうじて残るような深い傷を負ってしまったこともあります。この時も、医者にもいかず、お袋にオロナインを塗ってもらい包帯を巻くだけという治療しかしませんでした。そのせいかどうか、それから40年近く経った今も、私の左手の中指と薬指には、その時の傷跡がはっきりと残っています。



1959(昭和34)年8月30日その2


 右の写真は、上の柏崎市での写真と同じ1959(昭和34)年8月30日に撮影されたものですが、写真のキャプションを見ると、「新潟市大和デパート屋上遊園地にて」と書いてあります。
 いかに親父が国鉄職員とはいえ、1日のうちに、長岡から柏崎、さらに、柏崎から新潟というのは、幼い姉弟を連れて一家四人で移動するには、結構な距離だったのではないかと思います。それとも、どこかに旅行に行っていて、たまたま、柏崎経由で新潟まで行くような行程だったのかもしれませんが。
 ちなみに、駅すぱあとで調べてみますと、長岡/柏崎間は、信越本線で10駅、36.7キロの距離があり、所要時間1時間29分(乗車53分、その他36分)です。さらに、柏崎/新潟間にいたっては、越後線で28駅83.8キロもあり、しかも、途中、吉田という駅で乗り換えなければならないため、所要時間は2時間54分(乗車117分、その他57分)もかかります。自分の家族ながら、この精力的な動き方には感心せざるを得ません。何れにしても、当時としては、結構、ひんぱんに出かける一家だったようです。
 ということで、余計な話が長くなってしまいましたが、本題の写真そのものに戻りたいと思います。
 東京ディズニーランドやピューロランドなどのテーマパークはもちろん、常磐ハワイアンセンターも船橋ヘルスセンターも長岡観光会館もなかった昭和30年代前半、貴重な遊園地としてデパートの屋上というのは、子供達にとっては、夢のパラダイスでありました。

 長岡にも昭和30年代の半ばに大和デパート長岡店というのが誕生し、長岡で初めての本格的な(?)遊園地として脚光を浴びたものでありますが、この昭和34年8月の時点で、長岡に大和デパートがオープンしていたかどうかは、手元の資料が不十分なため定かではありません。
 何れにしても、子供達だけではなく、大人にとっても、というか、一家揃って出かける新たなスポットとして、最上階のレストランと屋上の遊園地を備えたデパートという存在は、昭和30年代の半ばには、一躍、人気ナンバーワンに踊り出たのでありました。
 そのデパートの登場というものが、どのくらい斬新は存在であったかを物語る記事が、「新潟県の昭和史」(新潟日報事業社)に掲載されていますので、以下に紹介させていただきます。

 「新潟市の大和デパートでエスカレーター利用のファッションショー〜ファッションショー昇降/颯爽と春を呼ぶ 『次は、流行の線を生かしたダークイエローのダスター・コート』『今度は、若いお嬢さん向きの軽快の働き着』−−−こんなアナウンスに促されて、美しいモデル達が華やかな衣裳をまとって、颯爽と現れ、エスカレーターで昇ったり、降りたりした。3月17日、新潟市のあるデパートでのファッションショーのシーンである。 このショーを催したのは、県合成繊維織物展示協議会と化繊メーカーで、作品17点はいずれも新潟市内洋裁学院のデザイン。前年暮れまで1年間の十日町織物業界の生産統計は、戦後最高の生産額を記録しており、各地メーカーは、この年も売りまくろうと虎視耽々たる折りでのショーだった。県民には、エスカレーターがまだ珍しい時代で、それを昇降するアイデアが好評だった」(1957[昭和32]年3月15日) 







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