1958(昭和33)年春
1958(昭和33)年4月4日
左の2枚の写真は1958年4月4日、私が3歳の誕生日を迎える1週間前に、自宅の前で撮影された写真です。うしろに見えているトタン板(当時、長岡では「アタン」と言っていた記憶があります)は、右隣のお宅の外壁です。
左側の写真には「青菜に塩か」、右側の写真には「エヘンといばって」というキャプションが何れも親父の字で添えられています。私がかぶっている帽子は、国鉄職員だった父のものと思われます。ウチの親父は口うるさく短気な人で、幼い私達もよく怒鳴りつけられていたため、私は、小さい頃からお袋にベッタリで、親父は苦手でした。左の写真は、その辺りの私の気持ちが良く現れているものと思われ、右側は、親父に「もっと胸を張れ」とか何とか言われて、無理矢理ポーズをつけさせられたものでしょう。
地面がかなり固められている感じで写っているのは、実は、私の親父の親父、つまり、私のおじいちゃんも国鉄職員でしたが、列車の連結作業時の事故で片腕を失ってしまい、国鉄を退職して家で豆腐屋を開業していたため、古い家の道路に面した部分は、当然、タタキとして固められていたわけです。以前にも書いた通り、私が生まれた年に、古い家の裏庭に新しい家が建てられ、古い家が取り壊された後は、私が小さい頃はそのまま空き地になっていました。したがって、家の前の空き地には、縄文時代の竪穴式住居の遺跡ではありませんが、古い家の間取りが反映される形で、その跡が残っていたわけです。
おじいちゃんは私が生まれるはるか前に亡くなっていましたし、私が生まれた頃は、我が家は豆腐屋の面影もなかったわけですが、近所のお年寄りなんかは、私のことを「豆腐屋の孫」と呼んでおりました。また、当時は、その家の家長の名前で、その家を呼び習わすということが行われており、私の家の2軒左の家は、おじいさんが芳太郎という名前だったため「ヨシタロン」と呼ばれておりましたし、どこのお宅か忘れましたが、おじいさんが「十兵衛」という名前のお家は、「ジュウベロン」と呼ばれておりました。お袋の実家だったかもしれません。私の家は、おじいさんが確か「源作」という名前でしたので、語尾にロンという接尾辞がつけにくかったためか、そういう呼び方はされていませんでした。
1958(昭和33)年6月15日
右の写真も、上の写真と同じ自宅前で、約2カ月後に撮影されたものであります。上の説明では、地面がタタキのように固められていると書きましたが、こういう大きい写真で見てみると、下は、コンクリートかセメントかで固められていたことが分かります。古い家を取り壊してから固めたのが、やはり、豆腐やの時代に家を店舗とするために固めたのか、今となっては、分かりません。
それから、この写真では、いま一つ良く分からないとは思いますが、隣の家の敷地と家の敷地の間には、細い側溝があり、台所やお風呂の排水なんかは、この側溝を通って家の前を流れていた福島江に注ぎ込む仕掛けになっていました。まだ、下水が完備されていなかった時代だったため、そういうことだったのだと思いますが、最近は、もう改められているのでしょうか。
それと、この写真で注目したいのが、私が右手に持っている紙の飛行機であります。今でもあるのかもしれませんが、当時、ちょっと厚めの紙で作られた胴体部分に切り込みが入っていて、そこに、やはり紙で出来た主翼と水平尾翼を差込んで、グライダーのように手で放り投げるだけで飛ばすという飛行機のプラモデルならぬ紙モデルが、このくらいの年齢の男のこのオモチャとしては、一つの定番になっていたような気がします。紙でできた胴体の先端には鉛が仕込まれており、その鉛の重さと紙で出来ている部分の全体の重さとのバランスに当たりハズレがあり、ちょうど絶妙なバランスのヤツに当たると、手で放り投げるだけとは言え、向かい風に乗ったりすると、結構、遠くまで飛んでいった記憶があります。
左の写真も、上と同じ1958年6月15日に撮影されたものですが、親父がちゃんと縦位置と横位置と2枚の写真を撮ってくれていたおかげで、川を挟んで向かい側の家も背景に写っている貴重なアングルの写真となりました。
この写真だと、上の写真の説明で書いた隣の家の敷地とウチとの間に側溝があったことが偲ばれるような部分も写っているのがお分かりになるでしょうか。隣の家の土台と道路の境目辺りに立方体の形状をしたセメントを固めた白いブロックのような部分が写っており、その左下に黒い影になっている部分がありますが、これが、側溝を流れてきた排水が道路の下を通るためのパイプのトンネルの入り口部分ではないかと思われます。
しかし、今にして思うと、家の前を流れていた福島江というのは、長岡市周辺の水田に水を供給する農業用水であり、その農業用水の水路に台所やお風呂の排水が流れ込んでいたわけで、当時、合成化学洗剤が使われていたのかどうか定かではありませんが、コシヒカリで名高いコメの一大産出県である新潟米にとって、あまり、いい影響を与えるものとは到底思えず、そこら辺りは、結構、大らかな時代だったということでしょうか。ウチのお袋にいたっては、人通りが少なくなって近所の人とも顔を合わせる心配のない夜遅い時間になると、この福島江に台所の生ゴミなんかもホイホイと放り投げて捨ててしまう人でした。道徳心の強かった幼い私が、「母ちゃん、川にゴミなんか捨てたらダメだよ」と言うと、「このゴミは海まで流れていって、魚のエサになるがけんな」と答え、私の心を痛めさせていたものでありました。
1958(昭和33)年6月22日
右の写真は、上の写真から1週間後の1958年6月22日に撮影されたもので、写真のキャプションには「悠久山公園遊園地にて」とあります。
悠久山公園は長岡に住んでいたことのある人なら何の説明も要らないと思いますが、ご存じない方に説明をさせていただきますと、長岡駅から南東の方向に車だったら10分もかからないところに、小高い丘というか小さな山というかがありまして、その丘あるいは山全体が公園のようになっております。蒼紫神社という神社もあり、丘の上には結構広いグランドがあって、さらに、ボートが漕げる池もあります。桜の名所としても知られ、長岡市に隣接する栃尾市から長岡駅を通り、この公園の入り口というか蒼紫神社の参道の入り口が終点だった栃尾鉄道という狭軌の電車も走っていました。僕が小さい頃は、長岡市民の憩いの場としてはここしかないというくらいの賑わいを見せ、以前、他のところでも書きましたが、全盛期には、周辺から相当の数の観光客も来ていたようです。この写真が撮影された頃は、おサル電車や観覧車なども備えたちょっとした遊園地のようなところもありましたし、サルや熊や孔雀なんかがオリに入っちょっとした動物園のようなところもありました。僕が、高校の時に、この栃尾鉄道は廃線になってしまいましたが、往時の悠久山の駅の周辺の雰囲気は、子供心にも何かウ
キウキさせるものがありました。
現在、私の家の最寄り駅である京王線の百草園という駅から2つ隣に、東京都の多摩動物公園の入り口となる多摩動物公園駅という駅がありますが、ここの駅の雰囲気は、往時の悠久山公園の雰囲気を思わせるものがあり、子供を動物園に連れていったり、カブスカウトをやっている長男の送り迎えをしたりするときに、この駅には頻繁に行っておりますが、行くたびに、私は、悠久山の駅を思い出しています。また、この多摩動物公園の駅前には、昭和30年代に活躍していた昔の車両が展示されていて、これも、かつての栃尾鉄道=トッテツを彷彿とさせるものがあり、懐かしい気分にさせてくれます。
この写真の滑り台は斜めにまっすぐのものですが、この悠久山公園の遊園地は色々と遊具も充実していて、私は特に、螺旋状におりてくる滑り台が大好きでした。

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