1957(昭和32)年春
1957(昭和32)年4月11日
「60年代の子供達」と謳いながら、ほとんど私の幼少時の個人史という趣きのページが続きますが、私が幼稚園に入るまでは、「子供達」といっても私と姉しか写っ私ていない写真ばかりですので、もう少しご辛抱いただければと思います。
この1957年春の1枚目の写真は、私の2歳の誕生日の翌日の4月11日のものです。アルバムに貼られた写真の下には、「姉ちゃんのスカートを借りて、ちょいと妄想か」という親父の無責任なキャプションが添えられています。ほとんど私がオモチャにされているだけという状況が目に見えるようであります。実際に、写真に残った様子を見ているわけですが…。画面では良く分からないかもしれませんが、今の私より若いお袋が本当に嬉しそうに笑っています。
ということで、我が家は何時に変わらぬ一家団欒を楽しんでいたようですが、『新潟県の昭和史』(新潟日報事業社)には、「長岡市の東亜マッチ工場から出火、工場、倉庫など2310平方メートルを焼き、10人が重軽傷」とあります。実は、まさしく、この日、時間的にはズレがあったのかもしれませんが、家から1キロも離れていないマッチ製造会社で火事があり、近所は大騒ぎだったはずですが、2歳の私にはそんなことは知る由もなく、無邪気に毎度お馴染みのオカマぶりを発揮していたわけです。
1957(昭和32)年5月3日
続きまして2枚目の写真は、私の母親の実家、つまり、おばあちゃん家のある長岡市内の宮内町にあった長岡操車場の上にかかる陸橋で撮影された写真であります。写真のキャプションは、「長岡操車場陸橋上にて。姉ちゃんは乙にすましています」。
私の家の今年3歳になった3番目の次男は、大変な電車狂いで、私は毎週末、京王線の百草園からJRの品川の駅まで通っておりますが、私も幼い頃は電車が好きで、親父がよく自転車の前に乗せて家の近所の東神田の踏み切りまで、電車を見せに連れていったという話を聞かされていましたので、この写真のように、宮内のおばあちゃん家に行った時には、操車場まで電車を見に行っていたのかもしれません。上越線と信越線の交わる長岡には、大きな操車場があり、色々な電車を見ることができたものと思われます。先日、帰省した折りにも、我が家の次男坊を自転車に乗せて連れて行ったら、大喜びでありました。この写真の陸橋にも行ってみましたが、当時のような鉄の柵ではなく、コンクリートの壁になっていたため、この橋の上からは電車を見ることができませんでした。
ところで、長岡市制90周年を記念して出版された「長岡市政だより」縮刷版によりますと、この1957年5月11日に発行された「長岡市政だより」第32号には、いかにも時代を感じさせる次のような記事が掲載されています。
「危ない!デッキ上の乗車/旅行シーズンとともに、みなさんの乗車の回数も急にふえてきました。ところでこの乗車の際客車のデッキに立ち、ドアーを開いたままの姿をよく見受けます。これはみていても危険を感じるだけでなく、実際これが原因で死傷事故が度々発生しています。市民のみなさん、乗車の際はデッキに立つことなく、楽しい旅行ができるようお互いに注意いたしましょう(長岡駅)」
1957(昭和32)年5月12日
3枚目の左の写真と4枚目の下の写真は、私や姉が写っているものではありませんが、昭和30年代の長岡駅前を知る者にとっては、非常に懐かしい構図の写真です。昭和30年代も後半になると、駅前のこの辺りは客待ちのタクシーが何重にも列を作ったりする、いわゆる「駅前ロータリー」になっていましたが、この写真が撮影されたころは、写真の右側に写っている平和祈念像が中央に立つ噴水の回りは、砂利を敷き詰めベンチなども置いてある駅前広場になっていたようです(下の写真も参照して下さい)。
私は、長い間、なぜか私のアルバムに貼られていたこの写真を長岡祭りの時のものとずっと思い込んでいましたが、今回、こういう形でスキャニングをし、改めて写真のキャプションを確認してみると「S32.5.12
柏崎キャラバンのおけさ踊り」とあります。
上の写真でも触れた「長岡市政だより」縮刷版などで調べてみましたが、この日に該当するようなイベントの記述はありません。ただ、僕が物心ついてからはさほどでもありませんでしたが、昭和20年代から30年代にかけては、長岡は悠久山の桜と福島江沿いの桜並木は、県下でも有数の花見の名所として知られ、花見の時期と前後して、市内でさまざまなイベントが実施されていたようですので、この写真もそうしたイベントに連なるものの一つではないかと思われます。当時の雰囲気を偲ばせる記事が昭和32年4月10日発行の「市政だより」第31号に掲載されていますので、紹介します。
「競う!桜とモデル〜多彩なお花見行事/ことしもいよいよお花見の季節がやって参りました。市観光協会では4月20日から5月5日まで、花とともにみなさんから楽しんでいただくために、県下に名高い悠久山、福島江河畔の電飾はもちろん、悠久山池の電飾大演舞場をはじめ、舞踊の夕べ、音楽祭、のど自慢大会、花火大会、モデル撮影大会、はてはカラ党の腕のみせどころ、銘酒当て試飲会など盛りだくさんの催ものを用意いたしました。なお、今年は、19日、20日、21日の3日間、日本専門店会北陸大会の、豪華“せんもん祭り”も同時に開催されます」
ということですが、花見に連なるイベントとしては、いかに長岡とはいえ、5月12日というのはちょっと遅すぎる気もしますので、国鉄に勤務していた親父が撮影したものであること、駅前で催されていることなども考え合わせると、あるいは国鉄関連のイベントだったのかもしれません。
何れにしても、この「市政だより」の記事に添えられている写真が悠久山の桜ではなく、私にとっても非常に馴染みの深い福島江河畔の桜並木の写真であり、記事本文にもある通り、この頃は、桜に電飾まで施されていたということで、今ならイルミネーションやライトアップというところでありますが、それなりのものであったことが偲ばれます。
ウチのお袋も、よく、「私が嫁に来たばかりの頃は、花見の時期に、わざわざ北海道からアイヌの人たちが来て、家の前を流れる福島江に独特の船を浮かべて、雰囲気を盛り上げたもんだった」という話をしたりしていましたから、当時の長岡の花見というのは、今からは想像もできないほどのビッグイベントだったようです。
私や姉が写っていないのに何故この2枚の写真を紹介したのかと言いますと、もちろん、駅前の懐かしい写真ということもありますが、噴水の縁に座っている学生服姿の小学生と思われる男の子の、特に、下の写真で足を開いて両手のこぶしをひざの上に乗せている辺りに、「60年代の子供達」にふさわしい雰囲気を感じたこともありますので、小さい画像ではありますが、ご注目いただければと思う次第であります。

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