60年代の子供達

1957(昭和32)年夏


1957(昭和32)年6月21日

 この写真は、私が2歳2カ月の時の写真で、画像が小さいため、よく分からないかもしれませんが、実は、脱腸のため、股間部が異様に膨らんでおります。それはさておき、キャプションは「新潟駅前にて」とあり、一家で新潟へ遊びに行った折りに駅前で親父が撮影したものと思われます。
 私は、新潟は殆ど知りませんので、新潟駅のどの辺で撮影されたものか全く見当もつきませんが、後方に靴磨きの椅子と思しきものが写っておりますので、それなりの人通りのある改札口に通じるような駅舎の出口付近であることは間違いないでしょう。新潟駅も長岡駅と同様に、昭和50年代に上越新幹線が開通した時に新しい駅舎が造られているはずですので、これだけの写真で新潟駅のどの辺りかというのは、今となっては知る手がかりもないだろうと思います。駅前であることには間違いないわけですが、私たちがしゃがんでいる辺りは、コンクリートと地面の境目になっていて、駅前であるにも関わらず、未舗装の場所があったことになります。戦後12年目ではありますが、この辺りのインフラの整備は、必ずしも、行き届いてはいなかったといくことでしょうか。
 当時の新潟/長岡間の電車の運転状況や運賃などは手元に資料がないため、よく分かりませんし、長岡から新潟へ電車で遊びに行くというのが長岡市民の一般的な行楽であったかどうかも、よく分かりませんが、家の場合、親父が国鉄職員で、新潟の鉄道教習所に居たこともあるということで、他の一般的な長岡の家庭よりは、新潟への距離感は短かったのではないかと思われます。


1957(昭和32)年6月21日

 この写真も、上と同じ日の撮影で、「新潟寄居浜にて」のキャプションが添えられています。
 新潟県の6月ですから、まだ海水浴には早すぎますので、単に新潟まで行って、海を見に行っただけということなのかもしれません。何れにしても、日帰りの家族での小旅行だったのではないかと思われます。
 上でも書いた通り、私は新潟という町はほとんど知りませんので、寄居浜というのがどの辺りなのか、どういう地形的特徴や観光的ポイントを持つ場所なのか、全然分かりませんので、もう何も書くことがありません。
 ただ、この写真を見て思うのは、着ている服にしても、こざっぱりとはしているものの、いかにもお袋の手作りというチープな印象は否めないわけですが、貧しいながらも、こういう小旅行を家族で楽しんでいた当時の若い夫婦と小さな子供たちが、自分が育った家庭であるにも関わらず、とても健気で愛しく思えてきてしまうということであります。




1957(昭和32)年6月24日〜悠久山公園パラダイスにてガマ一匹?

 上の2枚の写真が撮影された日から3日後の6月24日、今度は長岡市内の悠久山公園に遊びに行った際のもののようで、昼寝をしてしまった私の顔にハンカチか何かをかぶせたのでしょうか、キャプションには「悠久山公園パラダイスにてガマ一匹?」とありました。手元のザウルスのカレンダーによると、1957年6月21日は金曜日、6月24日は月曜日です。当時、私は2歳ですが、姉は6歳で幼稚園の年長のはずですが、金曜日は新潟、月曜日は悠久山という事で、普通に考えれば、「一体、この家族は何を考えているのだろう」ということになります。しかし、国鉄職員で貨物の車掌だった私の父は、勤務が不規則で休日もカレンダー通りではありませんでしたから、交通機関や観光地が空いているウィークデイに一家揃って出かけていたわけです。しかも、当時、国鉄職員とその家族は、年に2回(だったと思います)国鉄全線の運賃をフリーにしてもらう特典などもあり、我が家もそういう特典の恩恵を受けていたのです。親父はいつでもフリーでしたから、私と姉が小学校に入学するまでは、お袋分の運賃だけで 、一家4人が電車に乗れたことになります。後年、親父と一緒に東京を旅行した時など、都電や地下鉄なんかも国鉄の職員証を見せればフリーパスだった記憶もありますので、越後交通も同様の扱いであったことは想像に難くなく、悠久山に行く時も、多分、袋町の駅から一家4人が栃尾鉄道に乗って悠久山に行ったのではないかと推測できます。

 左の写真も同日のもので、「悠久山パラダイスにて」というキャプションが添えられています。撮影時間の前後関係はよく分かりませんが、左の写真は、私にオッパイをあげながら、お袋も一緒に寝てしまったという絵柄のような気がします。さすがに、中2日で出かけるパターンで疲れてしまっていたのでしょうか。
 ところで、悠久山公園についてですが、私が小学校高学年から中学校に入る頃には、もう単なる山の上の寂れた公園という感じになってしまっていましたが、私が小学校に入る前後、つまり昭和30年代の半ば頃までは、観覧車やおサル電車など、当時のいわゆる遊園地の定番アトラクションなどを備え、悠久山公園自体も、このコーナーで既に書いた通り、花見の時期には、県下有数のお花見スポットとして市外からも数多くの観光客を集めるにふさわしく、そのインフラはそれなりに充実していた記憶が、私の頭の中にもかすかに残っています。ところが、私が中学校に入る頃には、公園全体が既に「兵どもが夢のあと」という雰囲気で、おサル電車のレールは草生してしまい、観覧車は錆付いたまま放置され、公園のベンチも背もたれの板が朽ちたまま、というような状況になっておりました。
 しかし、この写真が撮影された昭和32年頃は、「悠久山パラダイス」という言葉にふさわしい行き届いた整備が施されていたものと思われます。私が東京に出てきて早稲田で最初の英語の授業を受けた時に、自己紹介で長岡出身であることを明らかにした折り、年配の教授に「悠久山の桜がすばらしいところですね」と言われ、とても驚いたことがありますが、かつて東京でも知られるくらいの栄華を誇った時期もあったことを証明する出来事であり、私の記憶の中で悠久山公園がブラッシュアップされることになったのを鮮明に覚えています。








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