今日(1998年3月18日)更新された“ASCII”ホームページのコラムページである“INTEROCITER”で「60年代通信」を取り上げていただきました。
このコラムページを担当されているSAQUIXさんからは、データ更新に先立って、「60年代通信」を紹介していただく上にリンクまで張ってくださる旨のEメールを頂戴し、最近は、何でもかんでも「60年代通信」絡みでいただいたEメールは全て「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」で紹介させていただくというセコい方針に変わったこともあり、そちらに頂戴したEメールをそのままカット&ペーストさせていただいておりますので、既に、「お便りコーナー」をご覧になっている方は、ご存知だったかもしれません。
このコラムページは、SAQUIXさんが『月刊アスキー』で連載されている“INTEROCITER”というコラムのDIGITAL版として、すでに昨年の2月から毎月1度、ホームページのデータ更新が行われてきており、今回がすでに14回目となっております。
第1回のイントロダクションによりますと、このコラムページは、「基本的にはSF、ホラー、レトロ、コレクション関係のサイトを紹介していくリンクページ」だそうでありまして、米国への出張が多いSAQUIXさんの米国ネタなども頻繁に紹介されています。
この連載コラムページを拝見させていただいた限りでは、SAQUIXさんがカバーされているテーマやジャンルは、小野耕世さんの世界とオーバーラップする部分も少なくないようで、私も大変に興味深く読ませていただきました。と同時に、大変な博識をベースに独自の文化的視点をお持ちになっていらっしゃる方に、「60年代通信」のような、まだまだ完成度の低いホームページを取り上げていただき、恐縮しながらも、感謝しております。SAQUIXさん、本当に、ありがとうございました。
今までも何度か“ASCII”のホームページは覗かせていただいておりましたが、こういうコラムページがあるということは全く知りませんでした。もちろん、コラムページを担当されているSAQUIXさんという方も全く存じあげておりませんでしたし、それにも関わらず、こうした形で「60年代通信」をご紹介いただけるというところに、先日も書かせていただきましたけれども、インターネットの世界の素晴らしさを感じずにはいられません。
ということで、SAQUIXさんが、どういう文脈の中で、この「60年代通信」を取り上げてくださったかを紹介させていただきながら、自分自身でも、改めて、この「60年代通信」というホームページの意味合いといったようなことを考えさせていただこうと思います。
さきほども書かせていただいた通り、この“INTEROCITER”というコラムページは、「基本的にはSF、ホラー、レトロ、コレクション関係のサイトを紹介していくリンクページ」であり、ひょっとするとホラーということで取り上げられたのではないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それはそれとして、今回のテーマは、SAQUIXさんが新しい概念として提唱されていらっしゃる“ネオ・ノスタルジア(新世代の郷愁)”であり、その詳論を2回にわたって展開されようとしている試みの1回目で、「60年代通信」が取り上げられているのであります。
「いわゆる昔を懐かしむノスタルジアがインターネットという最新の環境の中でどういう具合に必要とされているのか、ここしばらくかなり気になっている」というSAQUIXさんは、「ノスタルジアそのものの変化と実生活におけるコンピュータ環境の進化がどのように関係しているかは今後の研究課題」になるとおっしゃり、「少なくとも私の長年の課題とも言えるパースト・フューチュアとも何らかの関わりがありそう」だと指摘されています。
その後の論旨の展開は大幅に割愛させていただきますが、私が勝手に要約させていただきますと、日本の“大正ロマン”や米国の“グッド・オールド・デイズ”などといったターミノロジーに代表される既存の「ノスタルジア」と、1950年代〜60年代に子供時代を過ごした私達が時代の影響を認識し始めた時に現出したとSAQUIXさんによって定義される「ネオ・ノスタルジア」の決定的な違いは、既存のノスタルジアが「飽くまでリアルタイムに生きた時代に対する思い入れだけを対象とする」のに対し、新世代のノスタルジアは「TVから発信される“時代を超越したイメージ”をも体験又は記憶として対象とする」ことであり、その違いに大きく関与しているのがTVというメディアだ、というのがSAQUIXさんの見解であります。
ネオ・ノスタルジアは「感性そのものの表出」でもあるかもしれないと考えるSAQUIXさんは、さらに、次のような結論を導き出されています。
「そういった表出は、これまでは比較的ひっそりと同人誌や同好会などで行われていたわけですが、インターネットの普及で一気に全国規模になりました。そして、マルチメディアが、ネオ・ノスタルジアのスタイルとして適切であることが判り、ノスタルジアが人に伝えられ共有できるものである事が判ったのです。逆に言えば、個人的なイメージの世界であったノスタルジアが地球的規模のメディアオリエンティッドになったことでネオ・ノスタルジアになったと言えるでしょう」
こういった洞察力に富む分析を読ませていただきますと、この「60年代通信」というホームページを立ち上げ、日々のコンテンツ作成に追われ、ともすれば、データ更新のためのデータ更新というような作業に流されがちになってきている私自身、これまでの経緯も踏まえ、現在、自分がやっていることの意味について、改めて、思いをいたさざるを得ないわけであります。
などと書き始めますと、またもや、私の思い入れやら思い込みの文章がダラダラと続いてしまうことになりそうですので、SAQUIXさんのコラムページに戻ることにさせていただき、私の思いは、また、別の機会に書かせていただくことにします。
その“ネオ・ノスタルジア”をテーマとしながら、“音”、“画”、“生活”という3つの言葉をキーワードにウェブの「徘徊」に入られたSAQUIXさんは、“生活”のキーワードの中で、この「60年代通信」を取り上げて下さることになります。
上の画像では、読みにくいかもしれませんので、ちょっと長くなりますが、この“生活”のパートをそのまま引用させていただきます。
「 なぜ,ネオ・ノスタルジア(と私が呼んでいる物)が現れ始めたかと考えてみたが,どうも一筋縄では答が出そうにない。しかし,その鍵の一つが,今現在の社会とそこで営むしかない日常生活にある事は確かなようだ。それは,パースト・フューチュア指向やモンドSF指向とも似ていて,現実が味気無くなって来た事に対する感性の自衛手段の一つと言う見方ができるからだ。
”抜本的”と題された個人サイトを覗くと,旧字旧仮名遣いが電脳空間で異彩を放っている。現実生活との微妙な(?)ズレが生み出すこの感覚もネオ・ノスタルジアの一症状と考えてもいいのかもしれない。ユニークな個性にかかると個人サイトがここまで面白くなる。以前紹介した”はなごよみ”もそうだが,過ぎ去った時代を並列に並べて,その上を飛び歩きながら存在している様なそんな感じがする。
生活そのものが現在ほど機能的になっていなかった時代に対する興味が,懐かしさと言うのとは一味違った感覚で頭をもたげてくるのが,”懐古館”のサイトである。昭和30年代から50年代の生活の記憶に直結した品々にも,歴史証言者としての権利はあるのだ。同様の意味で同人誌からウェブサイトになった”60年代通信”も注目に値する。ここには,'60年代に関する大衆文化のほぼすべてのカテゴリーが写真入りで詰まっている。伝統とか博物館的歴史ではなく,こういった本当に大衆を支えた文化(子供文化も含めて)をさまざまな形で残そうとする行為もネオ・ノスタルジアの症状に含まれる。
時代を溯る感覚を持つサイトはどれも個性的だが,”紙きれ博物館”は紙ものをその媒体として過去を蘇らせている。”何となく捨てられず手元に残ったもの”と書かれているが,それこそが歴史なのである」
ということで、“ネオ・ノスタルジア”登場の「鍵の一つ」として指摘されている「今現在の社会とそこで営むしかない日常生活」や、「現実が味気無くなって来た事に対する感性の自衛手段の一つ」といったような部分は、「60年代通信」を主宰させていただいている私だけでなく、この「60年代通信」にアクセスされてきている皆さんにも、少なからず共感されるものがあるのではないかという気がしてなりません。私が、なぜ、もともとニュースレター形式の同人誌だった「60年代通信」を始め、それをインターネットの世界に持ち込ませていただいかについては、これまでも折りに触れ説明させていただいてきましたが、何れにしても、この「60年代通信」を取り上げていただいた今回の“INTEROCITER”というコラムページには、これまでの私の稚拙な説明を補って余りある視点と解釈が示されているのではないかと思います。
最後に、改めまして、こういう形で「60年代通信」というホームページの意味を考えるキッカケを与えて下さったSAQUIXさんに、御礼を申し上げたいと思います。
ご興味ご関心のおありの方は、実際に、この“INTEROCITER”(http://www.ascii.co.jp/pb/ascii/special/interocitor/index.html)というコラムページをご覧になられてはいかがでしょうか。
(C)1997 Kiyomi Suzuki