60年代のTVCMトリス・ウィスキー〜「アンクル・トリス」シリーズ60年代TVCMフリークの皆様、お待たせをいたしました。 前回のレナウン・イエイエをアップさせていただいたのは、昨年の8月15日のことでありまして、それ以来、実に、8カ月が経過しようとしております。 一昨日(1999年4月8日)、「60年代のTVCM」のページ更新へのリクエストを頂いたNKさんをはじめ、このコーナーのページ更新をお待ちになっていた皆様、本当に、長い間、ご辛抱をいただき、申し訳ございませんでした。 今後は、少なくとも、1カ月か2カ月に1度くらいは、「60年代のTVCM」のデータ更新を行うようにしたいと思います。 まもなく、ホームページの開設から満2年を迎えようとしている「60年代通信」の来し方を振り返ってみますれば、立ち上げから半年ほどは、この「60年代のTVCM」のコーナーだけで食いつないでいたような状況で、ほとんど、「60年代TVCM通信」という趣さえあったわけでありまして、そういう意味では、「60年代通信」の礎を築いてくれた大切なコーナーということができます。仇やおろそかにしてはいけないコーナーでありまして、アメリカ合衆国でいえば、東部のオリジナル13州のように、歴史と伝統を誇るコーナーなのであります。 そういうコーナーであるにもかかわらず、1997年8月までの4カ月で10本のデータをアップした後は、9月に1本、10月に1本、年が代わって、1998年の2月に1本、8月に1本ということで、去年は、半年に1本ずつという更新頻度にとどまっておりました。 ということで、このコーナーの略史を振り返りつつ、主宰者だけ一人で感慨にひたってみていても、ご覧の皆様には、面白くもなんともないでしょうから、早速、8カ月ぶりのTVCMネタである「トリス・ウィスキー」の“アンクル・トリス〜造船所&長屋編”に入っていきたいと思います。
漫画家・柳原良平さんの描いたサントリーのキャラクター「アンクル・トリス」は、三木のり平さんがモデルだった桃屋の「のり平」シリーズと共に、60年代TVCMのアニメ・キャラクターとして、東西の両横綱という感じでありました。 「アンクル・トリス」シリーズも、「のり平シリーズ」も、その登場は昭和33年ということですから、正確には1950年代に誕生したTVCMキャラクターということになりますが、アンクル・トリスがブラウン管から姿を消したのは1971(昭和46)年のことでありまして、その活躍の舞台としては、やはり、1960年代が中心だったことは間違いないと思いますし、その意味で、アンクルトリスは60年代のTVCMを代表する一大キャラクターだったと思います。 我が家にも、赤いジャケットを着たアンクル・トリスの爪楊枝入れが、常に食卓の上に置いてありましたし、その人口の膾炙度の高さということでは、空前のCMキャラクターだったのではないかという気がしております。 今回、紹介させていただく“アンクル・トリス〜造船所・長屋編”(私の勝手なネーミングですので、悪しからず…)は、1967(昭和42)年に放映されたものでありまして、私なども、ナイター中継などの際に、このバージョンを見ていたように記憶しています。
榎本健一(エノケン)さんが「うちのテレビにゃ色がない」と三洋電機のコマーシャルソングを歌ったのは1966(昭和41)年のことでしたが、その翌年に放映された、この“アンクル・トリス〜造船所・長屋編”はカラーで製作されております。 手元の資料によりますと、当時のカラーテレビの普及率は、白黒テレビの94.1%に対し、わずかに0.3%にとどまっており、我が家をはじめ、多くの家庭では、このCMをカラーではなく、白黒で見ていたはずでありました。 さて、それでは、このCMの展開を説明させていただきます。 まず、一番上の2枚の画像から、このCMは始まります。 最初に、造船所の作業音と思しき電気ドリルのような音が聞こえ、続いて、アンクル・トリスをはじめとする労働者の皆さんが工場の門から出てくるところで、タイムレコーダーを押す音。 アンクル・トリスが家に向う場面から、「妻をめとらば才たけて…」で始まる与謝野寛作詞の三高寮歌「人を恋うる歌」がBGMとしてインストルメンタルで流れ、ゆったりとしたナレーションが流れます。
今日1日、無事に務めた、ということは… 待つべき人が待っている、ということは…
畳、箪笥、冷蔵庫、みんな新しい、ということは…
いつものトリスが、いつも美味い、ということは…
ああ、それだけで、それだけで… あ〜あ、それだけで、それだけで…
ということで、1分ちょうどのCMでありました。 1967(昭和42)年の時点でも、すでにレトロっぽい設定だったのではないかと思われる長屋、浴衣、丸卓袱台(ちゃぶだい)、割烹着姿で台所に立つ奥さん、茶の間の裸電球などが出てまいりまして、舞台設定としては明らかに東京オリンピック前の1960年代、あるいは、1950年代が想定され、CMの基本的な狙いとして、“古き良き日本”というイメージが根底にあったのであろうということが感じ取れます。 国鉄職員だったウチのオヤジも、褌とさらしの腹巻を身につけ、仕事から帰ってきて家でくつろぐ時は浴衣に着替えていたものでありました。私が子供のころ、隣の東神田という町には、まだ、長屋がありましたし、木造アパートにしても、いわゆる木賃宿のような雰囲気の、長屋感覚の集合住宅でありました。丸い卓袱台も茶の間の裸電球も、まだまだ、現役で活躍していたのが、60年代だったのです。 「アンクル・トリス」シリーズは、1958(昭和33)年に初登場した時の、あまりにも有名な「トリス・バー」に始まり、翌年の浪花節による西部劇のパロディ「浪曲西部劇ヘルメスジン」が続き、下町の職人バージョンや横丁の銭湯バージョンなど、数多くの傑作を残しました。 「60年代通信」的には、私が「造船所&長屋編」と名付けさせていただいたこのバージョンが、当時の懐かしい暮らしぶりを偲ばせてくれるという意味合いから、紹介させていただくのに、最も相応しい内容となっているわけであります。 さて、この「60年代通信」をご覧いただいている皆様には、先刻、ご承知のこととは思いますが、この「アンクル・トリス」を生み出したサントリー(当時は寿屋)宣伝部には、開高健、山口瞳、柳原良平など、後に、作家や漫画家として名を成すことになる錚々たる人材が集まっておりました。 この「アンクル・トリス」誕生時の経緯を、柳原良平さんは、『トリス広告25年史』(サンアド、1975年)の中で、次のように振り返っています。 -------------------- (前略) アンクルトリスができたのは昭和31年頃だった。私のイラストレーションをテレビのキャラクターに使うという方針がきまって、当時、寿屋宣伝課の社員だった開高健さんと酒井睦夫さんの三人で会社の応接室に集まって小さな会議を開いた。のちにブレーンストーミングという言葉がはやったが今から考えればそういうものだろう。テレビのコマーシャルに使う主人公の性格をきめた。飲んベエなのは当然である。小心者だが思いきったこともする、少しエッチで女好きだが正義感が強い、あまり喜怒哀楽をあらわさないが神経は細やか、あとは忘れた。性格がきまって三十分程で会議は解散した。そののち、私は自分の席に戻って今きめた性格を具体的な人間像に描いてみた。三十分後にアンクルトリスが生まれたのである。 (中略) 私の好きなアンクルトリスの作品は、デビュー作の「トリスバーの巻」と「浪曲西部劇ヘルメスジン」、終りの頃のカラー作品「大西部劇」と「新婚の巻」などだろう。「トリスバーの巻」は二作目のアイデアが少しも出なくてとうとう1年間同じフィルムで通してしまった。おかげでアンクルトリスを覚えてもらったのだからケガの巧妙である。 (以下略) -------------------- ということでありまして、私が勝手に「造船所&長屋編」と名付けさせてもらったバージョンは、CMの最後で、長屋がピンク色に発熱している場面も出てきますので、どうやら、「新婚の巻」というのが正しいネーミングのようであります。 さらに、酒井睦夫さんも、同じ『トリス広告25年史』の中で、アンクルトリス誕生の場面を、もっと生々しく描写されておりますので、こちらも、引用させていただきます。 -------------------- 「先ず、そのキャラクターやが、タルタラン・ド・タラスコンちゅうのは、どないや!」 東京茅場町にある、サントリー支店、二階奥の宣伝部の狭い部屋を揺るがせるその声は、勿論、開高健先生である。そらおもろい、こら行けそうや、とちょっと興奮する。昭和三十三年初夏の午後である。 ちびで、ふとっちょで、飽くまで陽気で、大言壮語、冒険的であるかと思えば、小心細心、抜目のなさ、ずるさも持ち合わせている、南フランス代表的人物のタルタランは、アルフォンス・ドーデの名作の主人公。トリスのアニメーション・コマーシャルフィルムにはうってつけではないか。 こちらも、つい釣られて、浅い薀蓄を、やっとの思いで傾ける。 「『エッフェル塔の潜水夫』ちゅう小説のなかの、アントワーヌ・モンパパてなのもいまっせ」 「オッ、君、あれ、読んどったんか。フランスのユーモア小説家、カミ原作、吉村正一郎の名訳、白水社刊や。なんせ、フランス人のくせに“台秤にかかると、一三五キロきっちりありまんのんや”と大阪弁で歎き悲しみよるねんからなァ。あのペーソスもおもろい」 それを黙って机に向い聞きながら、気忙しく、エンピツを動かして、たちどころに、三つ四つと、ふとっちょ、二頭身、とんがり大鼻のキャラクターを描き、かなり近視の黒太縁の眼鏡の奥から、鋭い目をちらりとこちらへ向ける人、柳原良平氏である。彼こそ、アンクルトリスの生みの親、以後十数年にわたり、ウイスキーと言えばアンクルトリスと応えが返るほど、広告界に君臨したものである。 -------------------- 柳原センセイ自身のお書きになったものと、酒井さんのお書きになったものでは、2年もの誤差がありますが、「昭和三十一年ごろ」という柳原センセイの表現と、「昭和三十三年初夏の午後」という酒井さんの表現を比べると、「初夏の午後」という場面設定にフィクション的な匂いも漂うものの、具体的な情景描写ということも含め、アンクルトリス誕生の時期としては、酒井さんの「昭和三十三年初夏の午後」説に軍配が上がりそうな気がします。 柳原センセイ、酒井さんとも、山口瞳さんのアイデアだった「浪曲西部劇ヘルメスジン」を「アンクル・トリス」シリーズの最高傑作と位置付け、西部劇は浪曲であるという山口さんの発想を評価していらっしゃいます。 酒井さんによると、このアンクルトリスが誕生したのと同じ1958(昭和33)年に誕生したロイ・ジェームスさんの“パパは何も知らない”という実写フィルムシリーズでは、まだ無名だった放送作家時代の前田武彦、永六輔の両氏による作品が評判を呼んだそうであります。 何れにしましても、どのバージョンでも、トクトクトクトク…というウィスキーが注がれる音に合わせて、アンクル・トリスの顔が下の方から赤く染まっていくという場面は必ず出てきていたと思いますが、私たちの記憶に強烈なインパクトを残したCMであったことは間違いありません。 昨年はワインの出荷量が前年比で45%も増えたそうでありまして、軒並み前年比減というマイナス成長が当たり前となっている日本経済の中にありまして、アルコール市場では、ワインの奮闘ぶりが際立っているようですが、その一方で、ウィスキーの方は、サントリーが木村拓哉を起用したCMで「ウィスキーを古いと思う方が古い(だったかな…)」というようなコピーを使っていることからも、苦戦を強いられているのではないかと想像されるわけですけれども、実際のところは、どうなんでしょうか。 実は、私は、アルコールが一切ダメな蛙のような奴(下戸の中の下戸でゲコゲコ…なんちゃって)でありまして、ウィスキーのことも、よく知らないのでありますが、今日は、たまたま、私の誕生日で、依然として胃腸の調子が芳しくないにもかかわらず、梅酒を買ってきて、めちゃくちゃ薄いお湯割りを飲んだりしました。そのことは、どうでもいいのですが、その梅酒を買いに行ったときに、今日の晩に、このページを作るつもりでしたので、ウィスキーの値段を確認してきてありまして、640ml入りのサントリー・ホワイトが890円で売られていましたから、このCMでは、640ml入りと思しきトリスが340円ということですから、ウィスキーの値段というのは、32年前の3倍弱程度の伸びでとどまっているようであります。 ということで、例によりまして、長めのページとなってしまいましたが、およそ8カ月ぶりにデータ更新をさせていただいた「60年代のTVCM」、アンクル・トリスを紹介させていただきました。 この「60年代通信」をご覧いただいている皆様の中には、広告代理店やPR代理店で仕事をされている現役の広告マンや広報ウーマンの方もいらっしゃいますので、業界人としての「60年代のTVCM」に対する評価や見方、考え方なども、また、お聞かせ頂けたら、ありがたいと思います。 それでは、また、近いうちに「60年代のTVCM」のデータ更新を目指すことを約束させていただき、この回をお開きとさせていただきます。 最後まで、お読みいただいた皆様、どうも、ありがとうございました。 |
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