60年代通信 NEWS
ダニー飯田さん追悼特別企画
訳詞ポップスの楽しさ教えてくれたパラキン
最後まで現役だったダニーさん、どうもありがとうございました
1960年代の前半、私が小学校に入学する前後の時期に、「ステキなタイミング」、「シェリー」、「ミスターベースマン」といった曲を通じて、明るく楽しいアメリカン・ポップスの魅力を私に初めて教えてくれたのがパラダイスキングでした。
そのパラキンのリーダーとして活躍されてきたダニー飯田さんが、今月5日、亡くなられました。
一昨年の夏、たまたま訪れた府中市の大国魂神社で、「府中市商工まつり」の特別イベントとして開催されていたダニー飯田とパラダイスキングのライブを拝見し、初めてパラキンを生で見た私は、その楽しいステージに、アメリカン・ポップスの魅力を教わった幼い頃の記憶を鮮明に蘇らせることができました。
今回は、「60年代通信」では、まだ、取り上げさせていただいたことのなかった、60年代前半に日本の音楽シーンを席巻したアメリカン・ポップスなどの訳詞カバー・ムーブメントの中心的存在であったパラダイスキングの足跡を振り返りつつ、ダニー飯田さんを偲ばせていただこうと思います。
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府中市商工祭りでのパラキンのステージ(一昨年夏)
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まず、ダニー飯田さんの訃報を伝える今月6日の『スポーツニッポン』の記事を引用させていただきます。
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坂本九さん、九重佑三子の“育ての親”
ダニー飯田さん死去
[65歳]急性腎不全
「パラキン」の愛称で親しまれ、1960年代に「ステキなタイミング」などのヒットで一世を風びした人気グループ、パラダイスキングのリーダー、ダニー飯田(だにー・いいだ、本名飯田紘久=いいだ・ひろひさ)さんが5日午前2時22分、急性腎(じん)不全のため東京都品川区の病院で死去した。65歳。埼玉県出身。
関係者によれば、ダニー飯田さんは2年ほど前、咽頭(いんとう)がんのために入院。以後、入退院を繰り返していた。入院中でもライブの日程がある時には抜け出していくほどで、仕事を支えに闘病していた。
1956年に「ダニー飯田とパラダイスキング」を結成、ハワイアンからポップスへと幅を広げ「悲しき六十才」「シェリー」など、米国のポップスを訳詞で歌う曲を大ヒットさせた。 60年代には坂本九さん(故人)や九重佑三子をボーカルに起用して、スターに育てた。九さんには歌唱指導のほかに、九さんのビクター時代のデビュー曲「題名のない歌だけど」なども作曲してプレゼントしていた。
〈プロに徹した人〉
▼九重佑三子 6月25日放送のNHK衛星第2「ロカビリー3人男」の収録で5月18日に大田区民ホールでご一緒したのが最後でした。やせた体の背筋を伸ばし、ふだんは口数が少ないのに司会のインタビューに一生懸命答えているのが実に印象的でした。現役のまま、亡くなられたことに救われます。私はグループで初めての女の子でしたが、とっても面倒見のいい方で、怒るようなことは一切なし。そのへんは教育係の石田智さんに任せて、いかに明るく楽しいステージにするか、プロ精神に徹した人でした。
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ダニーさんが病気でいらっしゃるということは、まったく、存じ上げませんでしたが、一昨年の夏に、府中でライブを拝見した時には、あるいは、すでに、闘病中で、病院から抜け出してステージを勤められていたのかもしれません。
ご冥福をお祈りいたします。
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私が、初めて、自分で歌えるようになったアメリカン・ポップスが、パラダイスキングの「ステキなタイミング」でありました。
♪♪ オーユーニーズ タイミング
ア ティカティカティカ グッド タイミング
ア タカタカタカタカ
このよで いちばん かんじんなのは ステキなタイミング ♪♪
坂本九さんの明るい歌声と軽快なリズム、パラキンのアカ抜けた演奏とコーラス…、それまで、「チャンチキおけさ」や「潮来笠」などを愛唱歌としていたハナタレ坊主にとって、この「ステキなタイミング」との出会いは、それなりに衝撃的なものだったはずだと思います。
当時、我が家には、レコードプレーヤーすらありませんでしたから、恐らく、母親の実家で、私と6〜7歳しか年齢が離れていなかった姉のような叔母が聴いていたレコードで覚えたのか、あるいは、その叔母の影響を強く受けていた姉が歌っていたのを聴いて覚えたのか、あるいは、数少ないラジオやテレビでの演奏を聴いて覚えたのか、今となっては、もう定かではありませんが、とにかく、この「ティカティカティカ」とか「タカタカタカタカ」という単純な音が繰り返される歌い出しのフレーズだけは、一発で覚えてしまったような気がします。
ただ、「タカタカタカタカ」という部分は、どうしても、「タイナタイナタイナタイナ」としか聞こえず、「タイナタイナタイナタイナ」と歌っておりましたし、今、改めて、CDを聴いても、私には、「タイナタイナタイナタイナ」としか聞こえません。
それから、「カンニング」という言葉も、この「ステキなタイミング」を通じて初めて覚えた英単語でありました。
ということで、いきなり、「ステキなタイミング」から話を始めさせていただきましたが、パラダイスキングと坂本九さんや九重祐三子さんとの関係がどうなっているのか、よく分からないという若い皆さんもいらっしゃるのではないかと思いますので、パラダイスキングというバンドの歴史を簡単におさらいしてみようと思います。
さきほど引用させていただいた新聞記事にもありましたように、パラダイスキングの結成は、私が生まれた翌年の1956(昭和31)年のことでありますが、それ以前からハワイアン・バンド「大橋節夫とハニー・アイランダース」でベーシストとして活躍されていたダニー飯田さんが独立され、パラキンの前身である「パラダイス・ハーモニー」というバンドを作られたのは、私が生まれる前月の1955(昭和30)年3月のことでありまして、その意味では、私は、パラキンと同い年ということになるわけであります。
ダニーさんの芸名は、スチール・ギターの名手だったハワイのダニー・クワナという人にダニーさんご自身が私淑されていたことに由来するものだそうでありまして、パラダイス・キングも当初は、ハワイアン中心のバンドでありましたが、1958(昭和33)年頃からロックンロール・バンドとして、人気を得るようになったと言われております。
昭和30年代前半の日本のポピュラー音楽シーンを振り返ると、ロカビリーやロックンロールがメジャーなカテゴリーになるまでは、ウエスタンとハワイアンの人気が高かったこともあり、初期のロックンロールバンドというのは、ウエスタンやハワイアンから転向したケースがほとんどで、ダニー飯田さんのスチール・ギターというのは、パラキンがもともとハワイアン・バンドであったことを物語るものでもあったわけです。
スチールギターというと、もう一つ、日本レコード大賞を獲得した和田弘とマヒナスターズが連想されるわけですが、マヒナスターズの場合は、ハワイアンからムード歌謡路線へと歩んでいったわけでありまして、この辺は、日本ポップス進化論的な観点からは、非常に興味深いものがあるわけで、何れ、この辺は、詳しく考察してみたいと思っております。
ちなみに、GSの老舗であるスパイダースも、その前身を遡っていくとウエスタンバンドの系譜を辿ることにもなるわけでありまして、初期のスパイダースのレコードジャケットには、大野克夫さんがスチールギターを弾いている写真もあるほどです。
パラキンに話を戻しますと、1957(昭和32)年暮れ、後に第1回日本レコード大賞を受賞することになる水原弘さんがボーカルとして参加、翌1958(昭和33)年の暮れには、水原弘さんに代わって坂本九さんが加入しました。
米軍キャンプやジャズ喫茶での活躍が続いていたパラキンのレコードデビューは、1959(昭和34)年9月にビクターから発売されたLP「ジュークボックスで逢いましょう」ですが、この年の6月に来日した「ビーバップ・ア・ルーラ」のジーン・ビンセントの日劇公演でバッキングを務めるなど、その人気と実力は、レコード・デビュー前から、高かったようです。
またまた、ちなみますと、この日劇公演の後、全国ツアーに出たジーン・ビンセントのバッキングを務めたのが、「ブルーシャトー」でレコード大賞を受賞したGS時代のブルコメの前身であるロカビリーバンド時代のブルーコメッツでありました。
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1959(昭和34)年10月に発売された坂本九さんのデビュー曲「題名のない唄だけど」はダニー飯田さんの作詞・作曲の作品ですが、マイナーでバラード調のこの曲は、マヒナスターズが歌ってもおかしくないようなものでした。
パラキンのヒット曲第一号となったのが、1960(昭和35)年8月に発売された「悲しき60才」でした。これは、ヨーロッパでヒットしていたトルコの曲「ムスターファ」に青島幸男さんが詞をつけたもので、中近東風なエキゾチシズムを色濃く漂わせながらも、コミカルな味を持つ不思議な雰囲気が受けたのか、大ヒットとなり、『ミュージックライフ』誌の「ポピュラー・ミュージック(国内盤)セーリング・レコード」ランキングでは、1960(昭和35)年12月号から1961(昭和36)年2月号まで3カ月連続の首位を記録しています。
さらに、「悲しき60才」に続いて1959(昭和34)年10月にリリースされた「ビキニスタイルのお嬢さん/ステキなタイミング」がカップリングされたシングル盤も大ヒット。同じく『ミュージックライフ』誌の「ポピュラー・ミュージック(国内盤)セーリング・レコード」ランキングでも、「悲しき60才」と同時にランクインしており、1961年1月号で「ビキニスタイルのお嬢さん」が4位にランクされた後、1961(昭和36)年2月号で「ステキなタイミング」が2位にランクされ、この号では、1位と2位をパラダイス・キングが独占する形となりました。そして、1961年3月号では、「ステキなタイミング」が首位を獲得、パラキンは、結果的に4カ月連続の首位を記録したわけです。
またまた、ちなみますと、同じ1961(昭和36)年の8月号から10月号までは、マヒナ・スターズの「北上夜曲」が3カ月連続でトップにランクされておりまして、当時のミュージックシーンの状況が偲ばれるわけであります。また、9月号では、やはり、私の愛唱歌だった橋幸夫の「南海の美少年」が4位にランクインしているというような情況でした。
そして、1961(昭和36)年10月には、日本のポピュラー音楽史上に燦然と輝く伝説の名曲「上を向いて歩こう」が坂本九さんのソロ・シングル盤としてリリースされることになります。
「上を向いて歩こう」は、『ミュージックライフ』誌の「ポピュラー・ミュージック(国内盤)セーリング・レコード」ランキングで、1962(昭和37)年1月号から3月号まで3カ月連続で首位の座を獲得するほどのヒット曲となったわけですが、翌1963年の夏には、米国でも空前の大ヒットとなり、キャッシュボックス誌で6月15日から4週連続、ビルボード誌でも3週連続でトップにランクされました。
以来、既に36年が経過した現在にいたるまで、米国のヒットチャートで首位を獲得した日本のポピュラーソングは、この坂本九さんの「上を向いて歩こう」ただ1曲だけであることは、皆さんもご存じの通りであります。
坂本九さんは、日本で「上を向いて歩こう」がヒットした1962(昭和37)年頃からソロ活動が中心となり、同年9月には、独立した石川進さんに代わって、九重佑三子さんがヴォーカルとして参加しました。
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1963(昭和38)年2月には、初めて九重佑三子さんをフィーチャーしたシングル盤「シェリー」がリリースされ、これも、またまた、大ヒットとなり、『ミュージックライフ』誌の「ポピュラー・ミュージック(国内盤)セーリング・レコード」ランキングでは、1963(昭和38)年5月号で首位を獲得、その後も、4月号で3位、5月号で2位、8月号で8位と息の長いヒットとなりました。
さらに、1963(昭和38)年7月には、九重佑三子さんとパラキンの曲では、私が一番好きだった「ミスター・ベースマン」が発売され、『ミュージックライフ』誌の「ポピュラー・ミュージック(国内盤)セーリング・レコード」ランキングでは、1963年11月号で3位、1963年12月号で2位、1964(昭和39)年1月号で7位、1964年2月号で12位、といったようにランクが推移しています。
また、1964(昭和39)年2月には、「ワシントン広場の夜は更けて/ロリーポップ・リップス」がカップリングされたシングル盤がリリースされ、「ワシントン広場の夜は更けて」は、『ミュージックライフ』誌の「ポピュラー・ミュージック(国内盤)セーリング・レコード」ランキングでは、5位まで上昇しております。
「ワシントン広場の夜は更けて」は、オリジナルはヴィレッジ・ストンバーズというグループですが、ブラザースフォーなどもレコーディングしておりますし、日本でも、パラキンだけではなく、他のグループもカバーしていた曲でしたし、カントリーの匂いが色濃く漂うシブい雰囲気の作品で、この「ワシントン広場の夜は更けて」も私の大好きな曲でした。
個人的な思い出になりますが、小学校5年生の頃、一緒に遊んでいた私とY君が、ダベりの合間に、ふと同時に、この曲のサビの♪ワシーントンひろーばーのー よーはー ふけーてー♪という部分を歌い出して、二人で顔を見合わせてビックリしたという記憶も残っておりますから、この曲は、当時のマセた小学高学年のガキどもの愛唱歌にさえなっていたわけであります。
片面の「ロリーポップ・リップス」の方は、萩原健太さんが監修された“ROCKIN'
TOKYO”というCDにも収録されており、そのライナーの中で、「九重佑三子&パラダイスキングの訳詞ポップス・ヒットというと『シェリー』(オリジナルはフォー・シーズンズ)、『ミスター・ベースマン(ジョニー・シンバル)』、『悲しきカンガルー』(ロフル・ハリス)などがおなじみだが、個人的にはこの『ロリーポップリップス』が最高傑作だと思う。イントロのドラム・フィル、コーラス、すべてグルーヴ感たっぷりだ」とお書きになっていらっしゃいまして、健太さんイチ押しの曲となっております。
ちなみに、「ロリーポップ・リップス」のオリジナル・バージョンは、「ヴァケイション」や「カラーに口紅」などのヒットで知られ、私も大好きなアメリカンポップスのアイドル、コニー・フランシスでありました。
ということで、また、長いページになってきておりますが、1950年代から1960年代にかけて、いわゆるロカビリーからエレキ、GSへと日本のポピュラー音楽シーンの大きな流れの中で、ロカビリーとエレキ・GSの間をつなぐ形で、アメリカン・ポップスの訳詞バージョンが一つの時代を画したわけでありますけれども、その訳詞ポップス黄金時代に君臨して、ロックンロールの楽しさを私達に教えてくれたのが、ダニー飯田とパラダイスキングだったのであります。
ちなみに、…と、やたらに因んでおりますが、石川進さんは「おバケのQ太郎」の主題歌を歌い、九重佑三子さんはTVドラマ「コメットさん」で初代コメットさんを演じ、坂本九さんはNHKテレビの人形劇「八犬伝」で語りをお勤めになられるなど、パラキンに在籍していた皆さんは、その後の子供向け番組でも大いに活躍されて私達を楽しませてくださることになるわけでありまして、これからも、この「60年代通信」というホームページの中では、何かとお世話になるものと思われます。
それはそれとしまして、そうしたアメリカン・ポップスの楽しさを、最後の最後まで現役として、私達に伝え続けてくださったダニー飯田さんへの深い深い感謝の気持ちと心からの哀悼の意を捧げ、このページを終らせていただきます。
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パラキン最後のオリジナル・メンバー佐野修さんの熱唱
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最後に、一昨年、私が偶然、撮影させていただいた「府中商工まつり」のパラキン・ライブの画像をご覧いただきながら、Mさんの掲示板でダニー飯田さんのお通夜に行かれた時の様子を書きこまれたToshiさんの文章と、その掲載許可をお願いした私のメールにToshiさんが送ってくださったお返事メールのテキストを紹介させていただきます。
転載をお許しくださいましたToshiさん、Mさん、どうも、ありがとうございました。
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Toshiさんの書き込み(Mさんの掲示板7月9日付)
昨日、ダニー飯田さんのお通夜に行って来ました。
弔問客の中には、パラキン最後のオリジナ ル・メンバーとなってしまった佐野修さんをはじめ、森山加世子、石川進、山下敬二郎といった顔を発見できたのですが、圧巻だったのは届けられた花輪の送り主の名前。
平尾昌章、ミッキー ・カーチス、寺内タケシ、ドリフターズの面々、弘田三枝子、ムッシュかまやつ、内田裕也、佐々木功、鈴木やすし、飯田久彦(テイチク社長)、ウィリー沖山、大橋節夫、九重佑三子、清原タケシ、etc…。
まさに往年のウエスタン・カーニバルのスターたちが花輪で揃ったって感じでした。
私はダニーさんとは、以前、仕事でご一緒させていただいたのですが、とても温厚な優しい方でした。
ダニーさんのこれまでの音楽人生をまとめた本と、ダニーさんのスティール・ソロ・アルバムを企画して、いつか体調が回復した時にとりかかろうと計画していたのですが、残念ながら幻に終わってしまいました。
なお、ダニーさんの生前最後のレコーディングとなったパラダイス ・キングのCD「クラブ・パラダイス」がインディーズからリリースされています。機会があったらぜひ聴いてみて下さい。
Toshiさんから頂いたメール(7月10日付)
私にとってダニー飯田とパラダイスキングは、私が洋楽ポップスへ関心を抱くきっかけでした。
小学校2年生の時、当時フジテレビの「ザ・ヒットパレード」を観ていた私は、パラキン(九重佑三子在籍時代)が歌う「シェリー」に一発でシビれ、これが、それまでの歌謡曲や
TV ドラマ主題歌とは違う、ポップスに開眼するきっかけとなったのです。
これを機に毎週「ザ・ヒットパレード」を欠かさず観るようになり、当時の日本語カヴァー・ポップスの世界にはまっていったのでした。
やがて、本家本元の海外のオリジナルを聴くようになり(「シェリー」に関して言えば、本家のフォー・シーズンズ盤より、パラキンの方が何万倍も素晴らしかった)、ベンチャーズやビートルズによって、その熱は過熱して、そのまんま現在に至るという感じです。
私が現在、音楽業界の末席を汚しながらも仕事をしているのも、すべてパラキンのシェリーからと言っても過言ではないでしょう。
まあ、私ごときのことはどうでも良いとしても、九重佑三子、石川進、坂本九を輩出していった、日本のポップスのパイオニア、ダニーさんの功績は限りなく大きいと思います。
それほど思い入れのある人だっただけに、ダニーさんが亡くなったのは残念でなりません。
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改めまして、ダニー飯田さんのご冥福をお祈りいたします。
合掌。

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