60年代通信 NEWS

荒井注さん追悼特別企画

60年代だよ、全員集合
クレイジーキャッツからドリフターズへ
新たなるコミックバンドの系譜を辿る〜前編


 今月(2004年3月)20日、ザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介さんが他界されました。
 「8時だヨ!全員集合」という昭和40年代を代表するテレビ番組はもちろん、松竹映画の全員集合シリーズや「全員集合」以前の活動も含め、ザ・ドリフターズは、1960年代に子供時代を過ごした僕らの世代には、忘れられない存在であります。
 いかりや長介さんの訃報に、大きな喪失感を覚えている皆様も沢山いらっしゃるのではないかと思います。
 「60年代通信」を主宰させていただいている僕自身も、そうした喪失感を禁じえない一人です。
 一大人気コミック・バンドだったザ・ドリフターズを取り上げたサイトも数多く、関連する掲示板などでも、多くの皆さんが、ザ・ドリフターズへの思いを語っていらっしゃいます。
 「60年代通信」としても、改めて、ザ・ドリフターズというコミック・バンドについてページを作らせていただきたいと考えておりますが、今のところ、時間的な制約から、暫く、作業に手がつけられない状況ですので、4年前に荒井注さんが亡くなられた際に作らせていただいたページへのリンクをトップページから設定させていただきました。
 このページ自体、ザ・ドリフターズが全盛期を迎えるまでの前史的な内容になっておりますので、改めまして、この続編を、近いうちに作らせていただくことを約束させていただき、皆さんとご一緒に、ザ・ドリフターズの活躍した時代に思いをめぐらせながら、いかりや長介さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
 合掌…。
主宰者敬白
2004.03.26


 1960年代の後半から70年代にかけて、レギュラー番組にも関わらず、平均視聴率が50%に迫ろうかというお化け番組がありました。
 「8時だヨ!全員集合」。
 番組の主役は、いかりや長介とザ・ドリフターズ。
 そのドリフターズのメンバーだった荒井注さんが、今月(2000年2月)9日、亡くなられました。
 ドリフターズのメンバーの中で私が最も好きだったキャラクターの持ち主・荒井さんを偲ばせていただきつつ、日本テレビ史上に不滅の金字塔を打ちたてたスラップスティック・ギャグ集団にいたる以前のコミック系バンドとしてのドリフターズの歩みを辿ると同時に、1950年代から60年代にかけての日本におけるバンド事情などについても振り返らせていただこうと思います。


マウンテン・プレイボーイズ時代のいかりやさん(後列右端)。
後列の左から二番目は、若き日の寺内御大であります。
 私達の世代にとっては、「8時だヨ!全員集合」でおなじみのドリフターズでありますが、その前身であるロック・コンボ・バンド、あるいは、ウエスタン・ロカビリー・バンドとしての歴史は、1950年代にまで、遡ることになります。
 文献資料などによりますと、そのルーツは、1955(昭和30)年頃に結成されたサンズ・オブ・ドリフターズでありまして、1957(昭和32)年5月には、山下敬二郎さんをメイン・ボーカルに据えて、第7回「ウエスタン・カーニバル」に出場した記録が残っています。1957(昭和32)年といえば、ジミー時田さんがマウンテン・プレイボーイズを結成し、竹田公彦さんや大橋道ニさんなどが参加してブルー・コメッツの発足した年でもありました。
 ドリフターズのリーダー・いかりや長介さんは、1955(昭和30)年頃からハワイアンバンドで音楽活動をはじめ、ミッキー・カーチスさんのバックバンドだったクレージー・ウェストを経て、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズに参加し、米軍キャンプなどを回る間に、外人ミュージシャンのジョーク・センスに感銘を受け、MCでコミカルな要素を発揮するようになったようですが、逆に、いかりやさんのギャグ目当ての客が増えてきた事から、マウンテン・プレイボーイズには馴染まない状況となり、ロカビリーとコミックの両方をやっていた桜井輝夫とドリフターズに招かれる形となりました。
 マウンテン・プレイボーイズ時代に、コミカルなテイストを理解してくれたのは、後にドリフにも参加するジャイアント吉田さんだけだったそうです。
『ミュージックライフ』(1958年10月号)に掲載された
坂本九さんの紹介記事
 さて、そのいかりやさんが招かれたドリフターズの方は、前述の通り、1957(昭和32)年頃から、山下敬二郎さんをメイン・ボーカルに据え、サンズ・オブ・ドリフターズとして「ウエスタン・カーニバル」に出場する人気バンドだったわけですが、1958(昭和33)年5月には、「サンズ・オブ・ドリフターズ」から「ザ・ドリフターズ」にバンド名を改めるとともに、メイン・ボーカルとして、この年の初めからバンドボーイを務めていた井上ひろしさんを新たに迎えました。
 さらに、この年の8月に開催された日劇の第3回「ロカビリー大会」では、ドリフターズのメンバーとして坂本九さんが、華々しくデビューしております。
 左の画像は、その坂本九さんを紹介する『ミュージックライフ』(1958年10月号)の記事ですが、これによりますと、「この5月にはじめてドリフターズに入って歌ったという新人にしては
アナドリ難い人気を掴んでいる」と書いてありますので、井上ひろしさんとのツイン・ボーカルというような時期もあったということなのでしょうか。
 この辺りの事情は、さすがに、よく分かりませんので、お詳しいリアル・タイマーの方などがいらっしゃいましたら、ぜひ、ご教示をお願いしたいところであります。
 さらに、この記事によりますと、「日劇の初ステージでは、新品のギターを堂々と(?)惜しげもなくブッコワした程の熱演で、物に動じない日劇の道具方一同をあっけにとらせた」ということでもありますので、シリアスな演出だったのか、コミカルな演出だったのか、いま一つ判然とはしませんが、ドリフターズというグループのステージングの派手さが想像されるところではあります。
 いかりやさんに続いて、ほどなく、加藤英文(茶)さんもドリフターズに参加、右の2枚の画像は、右側がザ・ドリフターズを紹介する『ミュージックライフ』(1963年1月号)の掲載記事と、左側がメンバーの写真を拡大したものです。
 この時のドリフターズのメンバーは、桜井テルオさん、小野ヤスシさん、ポン青木さん、小山威さん、田中良夫さん、加藤英行(茶)さん、三好明さん、石碇矢長一(いかりや長介)さんの8人。
 この時点では、「8時だヨ!全員集合」時代のメンバーは、いかりやさんと加藤さんのお二人だけでした。
 専属シンガーとして、高松秀晴さんと木の実ナナさんが紹介されております。
 この紹介記事では、ザ・ドリフターズの結成からの経緯は、次の通りです。
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 結成は今から3年前、リーダーの桜井テルオを中心にポン青木、小野ヤスシの3人が集り、ザ・ドリフターズを結成。当時は、勿論、ロックを中心に演奏していましたが、次々と新しいロック・バンドの誕生に至って、ここいらで一新しようと、頭をひねったところ、なにもステージで気取っていることはない、日ごろのままの気楽なタイドでイコウ、それならお客さんも一緒になって楽しいひとときを過ごしてくれるだろう。と決まり、翌日から適当なユーモアやコミックなアレンジを入れ演奏したところ、期待通り、お客さんもお腹の底から笑い、メンバーにも今までに見られなかったハリのある演奏が出来、一応成功したわけです。しかし、ただ面白いだけでなく主旨はすぐれた演奏ということにあり、1カ月に1度は必ず全員が集合してミーティングを開き、一歩でも前進しようとしている。
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 また、桜井テルオさんの経歴については、次のように説明されています。
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 桜井テルオさんは、ドリフターズの前身バンド、サンズ・オブ・ドリフターズやファイブ・サンズでは、ウエスタン歌手として活躍、現在では、ラテン、ジャズ、ポピュラーとレパートリーも広く、又司会では歌手としてのファンもさることながら、数少ないボードビリアンの一人と云われています。
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 ということで、基本的には、普通のコンボ・バンドとしてスタートしながらも、お客さんによりアピールしていく一つの手法としてコミカルな側面を入れ、成功するに至ったようであります。
 コミカルなバンドということでは、先行して活躍していたハナ肇とクレイジーキャッツが連想されるわけでありますが、その辺については、次のような桜井テルオさんのコメントが紹介されています。
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 ともすると、クレイジイキャッツの真似をしているのではないかと云われますが、クレイジイキャッツをもっとハイティーン向きにし、どんなところでも応用のきくバライティにとんだコミックなショウ・バンドにしたいです。
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 クレイジーキャッツよりも若年層を対象として意識したいという趣旨の発言のようですが、「どんなところでも応用のきくバライティにとんだコミックなショウ・バンド」という志向性が、既にして、後の「8時だヨ!全員集合」への伏線となっているような気がしないでもありません。



 この辺で、同じナベプロの先輩バンドでもあるクレイジーキャッツにも言及させていただき、ドリフターズに連なっていく日本のコミック・バンドの60年代的状況というような部分にも、触れさせていただこうと思います。
 クレイジー・キャッツの結成は、1955(昭和30)年4月でありますから、実に、私が生まれた、まさしく、その月のことでありました。
 そのクレイジー・キャッツが、一般的に知られる人気バンドとなったのは、1957(昭和32)年頃からだったようで、『ミュージックライフ』に「新バンド誕生/軽快なジャズのテムポに明るいコミックをとけあわす」という見開き2ページの記事が掲載されたのは、1958(昭和33)年のことです。
 その『ミュージックライフ』(1958年3月号)の紹介記事の一部を引用させていただきます。
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 ジンタ調のテーマ音楽に乗って、舞台下手より楽器片手にゾロゾロと繰り出した6人の強者は、犬塚弘(ベース)、石橋映一(ピアノ)、安田信(テナー)、植木等(ギター)、谷敬(トロンボーン)、ハナ肇(ドラム)。いずれも「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」の面々である。
 このグループが昨年示した躍進ぶりは、或る意味で刮目に値する。2回のコマ・ショウによって証された力量と、その間に示された研究心の跡。それに続く、各地の小ステージの成功。彼らは瞬く間に驚くべき数のファン層を獲得した。ジャズを愛する若き世代は勿論のこと、小屋掛け芝居の定連のお年寄までがそのギャグに笑いこけた。
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 私は、ぼんやりと、クレイジー・キャッツの活躍というのは、昭和35年くらいからのことだったという印象を持っておりましたが、それは、あくまでも、「スーダラ節」などのヒット曲の印象が強すぎるためでありまして、いわゆるコミック・バンドとしての活躍は、もっと早いタイミングだったわけであります。
 私としては、このクレイジー・キャッツが人気を得るまでにいたった、日本のコミック・バンドの系譜と申しましょうか、流れというものに大変な興味があるのですが、幸いなことに、この『ミュージックライフ』には、その辺りについても言及されておりますので、さらに、引用を続けさせていただきます。
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 ジャズの軽快なテンポと明るいコミックな味をうまくかみ合わせて、底抜けに楽しいステージ・ショウを組もうという努力は、決して新しいものではない。彼の地(アメリカ)におけるキング・オブ・コーンとして名高いスパイク・ジョーンズ、新鮮な感覚が人気を呼んでいるスタン・フリーバーグなどの例は云うもおろか、我が国でも、かつてのフランキー堺のシティ・スリッカーズ以来、実に多くのバンドが作られ、ショウが組まれてきた。
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 この記事では、さらに、コミック・バンドの人気維持が極めて難しいものであることに言及した後、クレイジーの将来性について、次のように予測しておりました。
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 彼らの前には10年に近い我が国コミック・ジャズの歩みというものがあり、経済的にも、プロダクションのしっかりした支えがある。これらの礎石の上に立った彼らが、ここらで笑いの世界に新しい分野を開拓してくれる可能性は充分にあるわけだ。
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 ということで、さきほども、書かせていただいた通り、クレイジー・キャッツが、この後、歌の世界でもヒット曲を連発し、映画、テレビと大活躍を展開することになるのは皆様も、ご存じの通りです。
 この記事で書かれている「笑いの世界に新しい分野を開拓」したことは、紛れもない事実であり、その分野は、ドリフターズによって、さらに、新たな地平へと広げられていくことになるわけであります。


 さて、再び、ドリフターズに話を戻させていただきます。
 ドリフターズは、さきほど紹介させていただいた『ミュージックライフ』(1963年1月号)の掲載記事によりますと、既に、この時点(1962[昭和37]年末)で、日本テレビのタレント・スカウト番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」のレギュラーだったようです。
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 専属シンガーには、東芝レコードのホープ、デビュー曲「山小屋の乙女」は自作によるという高松秀晴とテレビ番組“ホイホイ・スクール”のレギュラーでホイホイ娘の渾名をもらった木の実ナナを迎えて、連日、テレビ、ステージに活躍しています。一見、ドタバタ臭いと云われる向きもあるが、これからが楽しみな、平均年齢24才のファイトあふれるザ・ドリフターズです。
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 そうすると、「ホイホイ・ミュージック・スクール」にレギュラーで出演していた頃には、まだ、「8時だヨ!全員集合」当時のメンバーではなかったということになるのでしょうか。
 以前から書かせていただいている通り、私の育った新潟県長岡市では、この「ホイホイ・ミュージック・スクール」は見ることができませんでしたので、当時、この番組をご覧になられていた方で、その辺の状況を覚えていらっしゃる方がおられましたら、是非とも、ご教示願いたいところであります。
 右の画像は、当時のジャズ喫茶の番組表でありまして、桜井テルオとドリフターズの名前と一緒に、専属シンガーの高松秀晴さん、木の実ナナさんのほか、ポン青木さんや小野ヤスシさんなどの人気メンバーの名前も見えております。
 『ミュージックライフ』の記事にも、書かれていた通り、この頃のドリフターズの活躍の場は、テレビとジャズ喫茶だったことが偲ばれます。
 それぞれの番組表の正確な年次は分かりませんが、1964(昭和39)年の秋には、桜井テルオさんがいかりや長介さんにリーダーの座を譲って引退、グループ名も「いかりや長介とザ・ドリフターズ」となりました。

 右下の画像には、既に、タイガースの名前も見えますし、寺内タケシさんもブルージーンズではなくバニーズとなっておりますので、恐らく、1967(昭和42)年以降のものと思われます。
 いかりやさんがリーダーとなった1964(昭和39)年には、小野ヤスシさん、ジャイアント吉田さん、猪熊虎五郎さん、飯塚文男さんが抜けて、ドンキーカルテットを結成。新たなメンバーとして加わったのが、ジェリー藤尾さんのバンド「パップコーン」にいた高木友之助(高木ブー)さん、クレージー・ウェストにいた荒井安雄(注)さんでした。
 『ホイ・ホイ・ミュージック・スクール』でTV初レギュラー出演を果たしたものの、まだ、バンドとしては、メインの付け足しで、ジャズ喫茶もガラガラというような時期もあったそうですが、徐々に人気を広げていくことになります。
 1965(昭和40)年には、高木さんの仲介で、仲本興喜(工事)さんが参加。コミックバンドらしくということで、ハナ肇さんに芸名をつけてもらい、ここで、いかりや長介さん、加藤茶さん、高木ブーさん、仲本工事さん、荒井注さんの5人が揃ったのでありました。
 ここで、ちょっと注目していただきたいのが、ジャズ喫茶の番組表の右上の画像でありまして、一番下の日吉武とパップコーンズというグループの横にある「仲本こうじ」さんというお名前も見えますけれども、この「仲本こうじ」さんが仲本工事さんと同一人物かどうか、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひ、ご教示いただきたいと思うわけであります。

 ということで、やっと、「8時だヨ!全員集合」時代のメンバーが揃うところまで漕ぎつけましたが、また、例によりまして、長くなってきておりますので、この辺で、一回、切らせていただくことにさせていただき、続きは「後編」で書かせていただこうと思います。
 皆様、また、引き続きまして、よろしくお願いいたします。
 長文・駄文を最後までお読みいただいた皆様、どうも、ありがとうございました。

(このページの作成に当たりましては、ベンジャミンさんに情報提供のご協力をいただいております。ベンジャミンさん、どうも、ありがとうございました)






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(C)Kiyomi Suzuki 2000