『月刊平凡』1966年11月号&12月号
忙しいこととネタ元となる資料の関係などから、ここ3カ月ほどデータ更新が「60年代のCM」に集中してしまいましたが、この辺で、3カ月ぶりに「60年代の雑誌」の「月刊平凡」で頑張ってみようと思う次第であります。
1966年11月号
1966年(昭和41年)11月号の表紙は西郷輝彦と由美かおるです。
西郷輝彦は7月号に続く表紙への登場で、わずか中3カ月での起用というところに、当時の西郷人気というか御三家人気の凄まじさを改めて思ったりするわけです。
由美かおるの方は、30代半ばより上の世代の皆さんは、昭和40年代の後半か昭和50年代の前半くらい、つまり、今から約30年くらい前に、たしか「同棲時代」だったと思いますが、映画の宣伝ポスターでまばゆいばかりの後ろ向きヌード写真(でも「見返り美人」風な構図だったので胸ははっきりと見え、そのしっかりと上を向いた乳房は今も瞼に焼き付いています)の記憶をお持ちの方も少なくないのではないかという気がしますけれども、私たちのような40代の世代は、この昭和40年代の初めに、金井克子や奈美悦子などとともに「レガールズ」という踊りのグループの一員として活躍していた由美かおるをしっかりと覚えているのであります。
さて、この11月号の新聞広告に目を転じますと、表紙とは一切関係なく、今月もまた、最もフィーチャーされているのは、“若大将”加山雄三なのであります。誌面企画としては「加山さんと一緒で幸せだわァ」という都はるみとの対談で、「加山雄三6つの表情ブロマイド」が付録。
表紙を飾っていた西郷輝彦は、新連載小説「恋人をさがそう」がスタートしているということで納得でありますが、由美かおるの方は、新聞広告には、名前を見つけることができません。
一方、今年、芸能生活35年を迎た舟木一夫は、サービス折り込みの特大ポートで起用されている上に、松原智恵子、和泉雅子という今をときめく人気女優との希望対談までこなしているのであります。タイトルも「なんてステキな夜だろう」ということで、一人いい思いをしているわけであります。
ちなみに、「若い世代に贈る60年代雑学講座」として書き添えますと、「恋人をさがそう」は西郷輝彦のヒット曲の題名で、確か、同じタイトルの映画もあったと記憶しています。、「なんてステキな夜だろう」は舟木一夫のヒット曲「哀愁の夜」の歌詞の歌い出し部分で、こちらも映画化されておりまして、その共演の相手が和泉雅子ということで、ファン心理をくすぐる企画立てとなっているわけです。
1966年12月号
さて、12月号でありますが、今となっては和服でも着てお正月号の表紙を飾った方がよかったのではないかと思われる渡哲也と思われる男性がクリスマス号との違和感を漂わせながら、表紙を飾っております。しかも、並んで写っているのが、当時としても思い切りバタ臭い顔の恵とも子でありますので、その違和感はさらに増幅されざるを得ないわけです。渡哲也じゃないと、ほとんど私がアホそのものの文章になってしまうわけですが、1号前の11月号の新聞広告に「夢コンビ対談」と銘打って吉永小百合様と渡哲也の対談があるくらいですから、きっと、渡哲也で間違いないでしょう。ちなみに、9月号では、「内藤洋子のピンアップ・メロディー」「岡田可愛チャーム・ブロマイド」「あなたのジャニーズ・ブロマイド」などとともに「渡哲也のABC…」という付録がついているほどですから、けっこうチャラチャラした人気タレントのような扱いを受けていたようです。しかも、内藤洋子が第4付録、岡田可愛が第5付録、ジャニーズが第6付録だったのに、渡哲也は堂々と第3付録という序列であります。手元に邦画関
係の資料がないため、渡哲也が東映の任侠映画で確固たる地位を築くようになったのがいつからだったのか、正確な時期は分かりませんが、少なくとも、この表紙を飾った昭和41年末よりは後のことだったのではないかと思います。この任侠シリーズによって、さらに、後年、NHKの大河ドラマ(たしか「勝海舟」だったと思いますが…)で主役に抜擢されたわけでしょうから、このチャラチャラ路線を続けていたら、今の渡哲也はなかったのかもしれません。もっとも、大河ドラマの主役の方は、不運にも、病気のため、1回か2回放映されただけで、後は、松方弘樹に変わってしまいましたが…。
それから、恵とも子でありますが、こちらも、11月号の西郷輝彦同様に9月号の表紙に続く登場であります。しかも、西郷輝彦が中3カ月だったのに対し、恵とも子は中2カ月ということで、その登板間隔の短さは人気を反映するものとみていいかもしれません。この号でも、吉永小百合様、内藤洋子様の2人との鼎談(新聞広告は3人なのに対談となっていますが…)に起用されていることを考え合わせても、その人気は瞬間最大風速的には、日本映画史上に燦然と輝く2大女優に匹敵するものがあったということなのでしょう。ちなみに、私の記憶の中でも、30年分のほこりをかぶりながらも、わずかにその面影をとどめていた恵とも子について、シンコーミュージックから出ている「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス」というムックのカバーに印刷されている当時の「ミュージック・ライフ」の記事は、次のように紹介しています。
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恵とも子『ピンクの口紅』でデビュー
先にTVタレントとして名をあげてた恵とも子は今年17才で、アメリカ人の父を持つ混血娘。
茶色の髪に青い瞳が可愛らしいアイスクリームの大好きな少女だ。
昭和38年に東京音楽院に入学、スクール・メイツの一員として音楽番組に出演、明星スターパレードのマスコットガールに選ばれる。パンチの効いた、ちょっぴりハスキーな声は、時に、大人のムードを感じさせる。
将来、歌って踊れる大型のスターを目標として、レッスンにはげんでいる。
今後の活躍が大いに期待されるタレントだ。
○デビュー曲 A面 ピンクの口紅 B面 なぜか教えて
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この「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス」というムックも、カバーで取り上げておきながら、本編では恵とも子については、一切触れていないため、この記事が何年何月号の記事なのかはもちろん、吉永小百合様や内藤洋子様に匹敵する人気を誇った恵とも子が、その後、どういう運命をたどったのかは、杳として知れないのであります
ということで、表紙にまつわる話が長くなってしまいましたが、せっかく苦労してスキャニングした当時の新聞広告に触れないまま終わるのは、あまりにも勿体無いので、新聞広告に目を転じましょう。
この12月号の新聞広告も、本当に、またしても、という感じで、一番大きな写真は加山雄三であります。爆発的なブームを呼んだトッポ・ジージョが絡んでいるとはいえ、御三家+三田明という当時の歌謡界に君臨していた四天王の写真4枚を合わせたよりも大きなスペースを占めているのを見るにつけ、もう、この昭和41年というのは、加山雄三ただ一色の年だったんだろうなあと思うわけです。レコード大賞こそ、ビクター全社を挙げて大賞取りの体制を取ったと言われる橋幸夫の「霧氷」にかっさらわれてしまいましたが、それでも、レコ大の審査委員会側が特別賞(だったかな)という受け皿を用意せざるを得なかったという事実に、加山人気の凄まじさを見て取ることができます。
誌面企画の方は、加山雄三が植木等、舟木一夫が財津一郎という、非常に味わいの深そうな対談がある一方、すでに触れたように吉永・内藤・恵の鼎談もあり、かなり充実した内容になっております。個人的には、「吉永小百合ちゃんのハッスル一週間」もさることながら、まだ、さわやかな青年歌手だった頃の美川憲一の記事をぜひ読みたいと思うわけであります。
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