インタビュー長谷川和彦

『新聞の求人欄だけはマメに見ていた
脚本料が安いなんて寝言にも言えなかった』

 

「月刊シナリオ」1982年5月号 p.14〜18



――「太陽を盗んだ男」から2年間ほどブランクがありますが……

長谷川 「太陽」が興業的にコケましてそれなりに反省しましてね。監督したのは、これが二本目なんですが、映画を始めてから15年目ですし、どうやれぱ好きなことをやって勝てるか、と。(「太陽」は)入り以外はほぼ勝ったと思ってるんです。それは批評家に賞められたということではなくて、見てくれた人が割と好いてくれたということでね。ひとつの目途にしかならないことなんだけど、“ぴあ”の“ぴあテン”など、あまり邦画が上位 に出ないところで四位にいたりする。キネマ旬報でもベストワンではなかったけれど、二位 に入って、読者のベストワンになっている。沢田研二じゃないけれど、一等賞好きというのはあるし、何もなしに生きてる人間にとっては嬉しいことなんです。ただ、観た人の中には“なんだこんなもの映画と云えるか”と腹を立てた人もいるわけで、キネ旬に「太陽――はベストテン上位 に入るような作品か?」と寄稿された大黒東洋士さんのようにね。でもこの事に関してはその後寄せられた賛否両論も含めて、僕はたいへん光栄なことだと思っています(笑)もちろん皮肉なんかじゃなくて非常にマジにね。お手本になる映画がなくて本当にマイってたんですよ。脚本書いている時も撮影してる時もね。「何者でもない青年が、一人で原爆を製造して、政府にテレビのナイターを最後まで見せると要求するというシュレイダー(原案・脚本)のアイデアそのものが、今まで自分が観た世界中のどの映画にも無い荒唐無稽なもので、そのアイデアの新しさにこそ惚れて脚本を作り始めたワケだから、お手本が無いのは当り前なんですがね。既に自分の映画の文体(スタイル)を確立した監督であれば、幾つかある自分の引き出しを開けて“ああ、今回はこれでいこう”なんて考えるんだろうけど、なんたってまだたった二本目の駆け出しカントクですからね。撮っている間中、“こんなマジメな滅茶苦茶やって、果 してお客さんはこの映醐を楽しんでくれるだろうか?”という不安はつのるばかりでしたね。ましてや「青春の殺人者」は一本目ですから、まるでわけもわからず、撮ってた。どうせ最初で最後の映画になるんだろうから、ともかく完成だけはさせよう、みたいなね。だから、ベストワンなんかとっちゃったことには正直篤いたですね。それに非常にミニマムな形ではあるけれど、興業的にはヒットだったんですよ。で、なんとか二本目が撮れそうな情況も生まれてきた。お調子者だから“ヨッシャ今度は全面 勝利や!”と思ったりしてね(笑)全面勝利というのは、スタッフ・キャストには払うべきギャラは払って(一本目は本当にひどかったですからね、あれは二度とできないし、したらイカンと思っとったから)好きなネタで好きな映画を作って、興業的には大ヒットをとばす、というわかりやすいことですがね(笑)。結果 、終ってみると「青春の殺人者」が二、三本できるくらいの赤字ができたわけです。そうすると、どうすれぱいいんだよという暗い思いになるんですよ。やっぱり見かけより根はしっかり暗いですからね、僕は。じっと手を見つめたりしている(笑)正直、その後遺症は今だにありますね。(ここで当夜の麻雀相手から電話が入り中座)めでたく面 子が揃いました(笑)。

――ここ数年、若い映画人たちがどんどん撮ってますが、それを見てどう思いますか?

長谷川 まずは非常によろしいことであるというのは間違いない。10年前、僕が26歳だった頃に今のような状態は予測すらできなかった。僕なんかも日活で間違って一本撮れなければ、映画を監督することは諦めなければならないだろうと思ってた。映画みたいにお金のかかるものを、金も無ければ名前もない、何者でもない人間が自力で製作するなんて、普通 はできんわけですよ。映画会社や撮影所が健在だった頃は、その何者でもない人間を何者でもない時に助監督として採用して何とかなれそうな奴に撮らしてみるシステムがあったわけだけど、それがなくなった頃にそれでも映画をやりたいというのが僕らだったわけです。だから初任給二万五千円で今村プロに入って3年ぐらい――最後にはその給料も出なくなったけど――それでもやめきれんかったですね。他にやれるというか、やりたいこともなかったから。ま、新聞の求人棚だけはマメに見てましたね。“おっ、これは給料いいな”なんて。良く読むと大抵セールスマンでね(笑)根が怠け者だから、結局、仕事もせずに、セコい麻雀で食いつないだんでしょうね。それで日活に出稼ぎと称して臨時雇いの助監督で行って、ダイニチの末期とロマンポルノに付き合って……ロマンポルノ初期の2年間ぐらいはアナーキーで本当に面 白かったね。社員助監督が皆んな監督になって、ここまできたらもうヤケで“ゴジなんかにも一本撮らせてみるか”という時期もあったわけです。それはまあ色々あって壊れたりして日活にいる意味がなくなっちゃったわけです。そうした頃に、ATGが声をかけてくれたというのは凄く嬉しかったですね。それまでATGで無名の新人監督がデビュー作を撮るなんてことはなかったですからね。むしろ既成の中堅監督が、撮りたいものが企業で撮れないから、みんな各々に撮れない度合いはあっても、窮余の一策としてやっていたわけだったからね。白井佳夫風に云えばマスターべーション的、芸者置屋風のところが間違いなくあったわけです。ところが僕は、映画10年近く助監督やってきて一本撮らなければカタがつかんという、撮ってアカンかったらその時に考えますワ、という風だったわけです。

――それは一本撮れば気が済むといったものだったんですか?

長谷川 いや、撮れば終るんじゃなくて撮って始まるはずなんだから。一本なんて本数じゃないんだから。撮って“お前は映画監督に向いていない、作家じゃない”と言われれぱその時考えればいい、又、皆んなはそう言うけれど俺はそう思っていないと言えるか、或いは逆に皆んなは褒めるけど、俺は才能なんかないと思うかもしれないし。
 僕は所謂、古いタイプの助監督をやって、助監督をやりながら脚本を書くというタイプの最後だと思ってたんです。結果 的には僕の助監督をしていた相米(慎二)とか根岸(吉太郎)が去年ああいう風に脚光を浴びてくると、まあ最後でもなかったんだと。あいつらはあいつらなりに頑張っているんだから、あんまり自分一人で最後の撮影所タイプやと、エエ格好したらアカン(笑)と。まあ彼等まで含めて最後だと思いますよ。かろうじて、にっかつが助監督を採り新人監督を出していくということをやっているわけだけど、これもロートルの監督使うより安いからということだからね。それとロマンポルノというグラウンドが、お金こそないけど新人でも頑張れる余地のある制約の少いグラウンドだということがある。(ロマンポルノ初期に)そのことで発奮した新人監督が曽根中生であり田中登をはじめ、不遇をかこっていた神代辰巳だったわけで、ロマンポルノ初期の一、二年というのは本当に凄かった。あの頃、日本中の映画に対して恐いものなかったからね。ああいう場所にライターであり、助監督としていたというのはツイてましたね。いい時にいい場所にいれたと思います。世間から見ればどうだったか分りませんよ。“あいつら苦しまぎれにポルノやって可哀相だな”って思っている人もいたかもしれないけど、僕ら、本当に元気良かったですからね。ロマンポルノにならなきゃ、田中も曽根も無かっただろうし、僕んとこへ脚本書いてみるかなんて話が来るワケ無いしね。習作も含めて脚本一本も書いたことないんだから(笑)単純に書き手がいなかったんですね。月六本も最産しなきゃいけないのに。“ポルノなんか書いたら他から仕事来なくなるぞ”と思ったのかどうか知らんけど、初期には一線のライターは殆んど書かなかったですからね。脚本料が安かったせいもあるなあ。僕なんか一本15万円でしたからね。それでも、助監督やって、2ヵ月間寝ずに働いて貰うのが、それくらいの額でしたからね。脚本料が安いなんて寝言にも言えなかった。それで「性盗ネズミ小僧」(監督曽根中生)「濡れた荒野を走れ」(監督沢田幸弘)と書いて、それが現実に映画になって映画館で上映されてるのを観て、その時はじめてですね“ひょっとしたら俺にも映画なんか撮れるのかも知れない”と漠たる自信が湧いたのは。遅れぱせにも作家としての自我に目醒めたんですかね(笑)それまでは肉体労働ばかりですからね。助監督というのは、ていのいい奴隷みたいなもんで、同じ助監督でも王助監督とは似て非なるものだった(笑)それまで沢山くすぶっていた社員助監督がみな、監督やプロデューサーになっちゃって、僕なんかが一番年上でいた二十数人の助監督も、全員臨時雇いでしたからね。なんとなく無法者が撮影所をなしくずしに占拠したような感じがあって良かったなあ。しかも我々は最下級の肉体労働者ですからね。撮影現場では一番沢山汗流して走り廻ってる者が一番強いんですよ。だからしばらくそんな状態が強いて“ゴジも一本監督してみるか”と声がかかった時は“まあ次はもう当然、俺ぐらいだわなあ”とデカイ態度になってましたね(笑)「燃えるナナハン」とタイトルも決まって、美術部のオッサンに“ゴジよお、<長谷川組>って看板作っといてやったからな!”なんて声がけられると“チキショー、俺もとうとう監督か”なんて泣けたね(笑)結局クランクイン間際、徹夜徹夜で脚本いじってる最中に突然中止命令が出ましてね、雲の上のような存在だった組合の執行部からですがね。口惜しかったなあ、やっぱり。現場のスタッフである組合員に嫌われてツブされるんなら仕方ないけど、“我々はポルノなんか映画だとは思ってない、本当に良心的な映画を作りたいのだ”と豪語して、組合員には、そのポルノを作らせていた執行部のツブシですからねえ。要するに“どこの馬の骨がわからん臨時雇いなんかを監督にすることはまかりならん”という事だったんでしょうがね。いわば官僚左翼の最悪の部分に嫌われたんだから、名誉ではあっても恥ではないと思ったりして、みずから慰めたりしてね。結局、5年間くらいいた撮影所を出るハメになった。最後に所長室にあった日活マークの原稿用紙を10冊ばかり失敬して――セコイなあ(笑)――撮影所の門を出る時は“ああ、やっぱりここでもアカンかったか”ってね。それからしぱらくたってATGで撮れそうになった時に昔の仲間であった助監督連中に声をかけたんだけど“長谷川組についたら、日活は再契約はしない”という脅しがかかったりしてね、よっぽど嫌われてたんだなあ。それでも相米(慎二)なんかは“結局日活ではゴジも撮れなかったんだから、同じ臨時の自分も駄 目だろう。監督になれないんなら、やっぱり辞めるしかないか。別にゴジに随いていくわけじゃないけどね”とかなりクールに助監督についてくれた。

――それとは違うグラウンド、自主映画出身の作家については?

長谷川 彼等と付き合うことによって、僕の印象が変ってきたんでしょうね。最初、大森(一樹)が「オレンジロード急行」撮る時、正直言って“クソでも喰らえ!”って思ってましたね。カチンコの恥かいたこともない奴が何が監督じゃ、と。お前らみたいなプロであるかないか分らないような奴が――。僕はプロという言葉に憧れてましたから。憧れていたというより、プロであると自称してしまわなけれぱ、こんな食えないところは逃げだしてしまいそうでね。“ワイは映画やるんや、食えんけどワイは映画のプロや!”と嘘にでも言ってないと、あんまりひどいからね。逃げても逃げる場所がないから残っていただけなんだとも言えるけど(笑)。ある意味じゃ、こんな夢みたいなところないですからね。好きなことやって遊んでいて、それを仕事だと言ってくれる。普通 、やらなけれぱいけないことを嫌々やってお金を貰うのが仕事だと思うんだよね。そこからいうと、映画は遊びなんだという理屈になる。遊びというと誤解されて随分楽なんだろうと思われると困るけど、“シンドイ遊び”だと思うんだ。大の男が30を越えて、ガキもできて――俺ももう来年は上の息子が中学生だからね――キツイ遊びだと言ってヨガってられない(笑)というのはあるけど。根岸とか相米がどうであったか知らないけど、僕個人は正直他になかった。29歳の時、ATGで監督する前、TBSの「悪魔のようなあいつ」という沢田研二主演のドラマのシナリオ書いてましたけど、書いててやっぱり嫌でしたね。僕はテレビのライターにはなれないと思った。

――それはどうしてでしょうか。制約が多いとかいうことですか?

長谷川 それもあるけど、二日で撮っちゃうんだものね。ロマンポルノだって(撮影日数)14日ぐらいはかけますからね。ひどい時は、僕が書くのが遅れて一話の前半しか脚本が無いのに撮り始めちゃうんだからね。僕自身が後半どうするか決めずに書いてるんだから。ディレクターも含めて誰一人どういう話になっていくのか知らずにもう撮影やってるんだ、こいつは怖かったねえ。勿論、遅れた僕が悪いんだけど、こうなるともう、ライターもディレクターも俳優も歯車というか単なる機械でしかないと思ったね。しかも、一回オンエアされれば終りですしね。勿論ギャラはロマンポルノより2倍近くは高かったんだけど、金儲けだけがテーマなら、元々こんな世界に入ってないだろうしね。その時、思ったですね、“ああ、テレビをコンスタントに書いてれぱ生活できるんだな”って。月4本書けば百万円にはなるんだから。ロマンポルノの脚本書きながら助監督しているよりは、収入は数倍にはなりますからね。だけど、それが数倍楽しかったかと言えば楽しくはなかった。むしろ、収入は数倍減るけれど、俺はロマンポルノの監督したいと思ったですよ。ま、それを書いている間に、日活を馘になってしまったワケですがね。

――その頃の生活はどんなふうでしたか?

長谷川 テレビ書いた時に初めて食えたんじゃないかな。それまでは映画で食ってはいなかったと思う。ロマンポルノの助監督、年に8本やったことありましたけど、その時初めて年収が百万円越えた。“やったぞ、ついに!!”なんて思いましたね(笑)今村プロ時代の悩みはむしろ、食えないことが辛かったんじゃなくて、映画を4年もやっているのに俺は何も知らないということがね。助監督といえばカチンコ叩いたり現場走ったりすることがあるものなんだけど、今村プロというのは2年か3年に一本しか仕事がなかったから。最初の「神々の深き欲望」は制作進行だったし、もう一本の「にっぽん戦後史」はドキュメンタリーで、カチンコも叩けない助監督だった。仕事している時は面 白かったし、一所懸命やったけど、準備期間というのがあって、僕なんかの感覚では何もないんだから寝てりゃいいと思うのに、朝の八時から調査だって出掛けるわけです。今村さんで真面 目だから。僕は辛かったですね。こんなんで俺は大丈夫なのかなあって。カチンコ叩けないんだから。そういうゲスなこともやりたかったですしね。“助監督デス”って言いたかった。助監督したいって思って今村プロに入ったわけです、僕は。監督できるという実感はなかったから。それが助監督さえ出来ない。

――いつかは監督できるだろうっていう楽観的な考えは?

長谷川 だって、そういう時代ではないですもの。それまで撮影所の社員助監督を経ない人間がメジャーの監督になったことはないんだから。今村昌平も撮れないのに、俺が撮れるわけがないと思うよ。でも、25歳の時“国映”というピンクの会社から一本撮らないかって声がけられて“ゴジプロ”という名でやりましたが、9割がた撮ってポシゃった。

――それはどうしてですか?

長谷川 金がパンクした。ラッシュで終りでした。矢元さんというプロデューサーがいて洋ピンモドキをやろうとしたんです。“外国人が裸になってやってくれれば何やってもいいですよ”って。普通 の映画って9割がた撮り終っていればパンクしないものなんだけどよほどひどかったんだろうね。ラッシュの時矢元さんに、うちはピンクで商売してるんだから、もっとワイセツな裸を見せてくれなければ困るって言われて……芸術映画になっちゃってたんだな(笑)。その時思ったのは、俺は三百五十万じゃ映画は撮れないように育っちゃったんだ、スタートが悪いんだ、今平が悪いんだ(笑)と。

――現在の映画情況とか若い映画人に対してどう思ってますか?

長谷川 俺が30歳で企業以外からデビューして何とか監督と言われるようになったというのは結果 、情況的にはいいことだったと思ってる。だけど、そのことを苦々しく思っていた僕の先輩たちはいるかもしれないしね。それとは随分ちがうかもしれないけど、8ミリしか撮ったことのない奴が監督か、なんて思っていた僕が、今は彼らも同業者だという気になれる。それだけ映画情況が変ったということでもあるし、ま、こっちが怠けて映画年齢が停滞している間にどんどん彼らが大人になってきたということなんでしょうね(笑)

――ディレクターズ・カンパニー設立についてお聞きしたいんですが……。

長谷川 ――ええ、色々あって結局、今こそそうするしか無いかなというところなんですがね。話せば長くなるから、ちょっと失礼して――。(とトイレヘ)以下、次号へ続く。

 


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