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 ガエターノ・マルティーノ(1900〜1967)
 [履歴]
 1900年 シチーリア州メッスィーナ県メッスィーナ生まれ
 1923年 ローマ大学医学部卒業
  ベルリン、パリ、フランクフルト、ロンドンでも学ぶ
 1930年 アスンシオン大学(パラグアイ)、サン・パウロ大学で生理学を教授(〜32)
 1933年 メッスィーナ大学生理学教授
 1934年 メッスィーナ大学生化学教授(〜57)、薬学部長を経て
 1943年 メッスィーナ大学学長
 1946年 制憲議会議員(自由党、シチーリア東選挙区)
 1948年 下院議員、下院副議長
 1954年 公教育相(シェルバ内閣)
 1954年 外相(セーニ内閣、〜57)
 1960年 国連総会イタリア議会代表団長(〜61)
 1962年 欧州議会議長(〜64)
 1966年 ローマ大学(サピエンツァ)学長
 1967年 ローマで死去
 
  今日のEU(欧州連合)の基礎をなすEEC(欧州経済共同体)に結実する統合
 構想を協議した1955年6月のメッスィーナ会談を誘致したイタリアの外相。

  1951年に発足したECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)に続き、欧州防衛共同体
 (EDC)設立条約も調印されたが、1954年8月に同条約をフランス国民議会(下
 院)が批准審議打ち切り(事実上の批准否決)したため、欧州統合の路線変更
 が求められていた。

  1955年6月1日から3日にかけてメッスィーナ会談は行われた。これはECSC
 加盟6ヶ国外相会談であり、マルティーノが出身地のメッスィーナに会談を誘致
 したのには、当時シチーリア州の地方選挙が迫っていたという事情もあった。
 実際には、この会議では具体的なアイディアは結実せず、以後、各地で行わ
 れた会議を通じて醸成され、ドイツやベネルクス諸国の主導でまとめられるので
 ある。

  ベルギーにEEC本部を誘致するかわりにスパークからはローマを調印地とする
 ことの同意を得た。

  1957年3月25日、EEC(欧州経済共同体)設立条約およびEAEC(欧州原子力
 共同体=ユーラトム)設立条約は、その後ローマ条約と通称されるように、ローマの
 カンピドリオの丘で署名された。イタリアの署名者は当時の首相セーニと
 外相マルティーノの二人である。

  外相辞任後には、NATOの市民社会に対する課題についての報告書を起草
 する国際3賢人委員会の一人に指名された。

  息子のアントニオはシカゴでミルトン・フリードマンに学んだ経済学者であったが
 自由党を経て、ベルルスコーニの興した新党「フォルツァ・イタリア」に参加、第1
 次ベルルスコーニ内閣(1994〜95)で外相を務め、新自由主義的政策の論客と
 して、共通通貨ユーロによる各国経済政策の調整には批判的な立場をとった。
 アントニオは、2001年の第2次ベルルスコーニ内閣では国防相となり、アフガン、
 イラク派兵を実施した。

 [エピソード]
  マルティーノはもともとは外交を得意としたわけではなく、入閣や外相就任に
 は、連立与党の自由党への配慮が影響していると、キリスト教民主党の幹部で
 外務政務次官、国防相を務めたタヴィアーニが回想している。しかし、これは
 タヴィアーニ自身が外相を望んでいた気持ちの投影かもしれない。

 (随時改稿:この項は書きかけです)

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